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「辞める」を考える



 また会社から人が一人いなくなった。


 ここのところ、退職者が後を絶たない。比較的若い年代の人間からどんどん辞めていく。


 「この会社には未来がない」とはよく言われているので、早々に見切りをつけて別の会社に転職したのだろう。

 会社の形態上いくつかの店舗に分かれており「○○さん辞めたんだって」と人づてに聞くことが多いので、詳細はあんまり伝わってこない。中島みゆきの地上の星の如く、見送られることもなく皆どこかへ行ってしまった。


 あまりにも未来が確約されていなく見えるからなのか、後輩も全然入社してこない。厳密に言えば一昨年までは一人いたのだが、やはり転職してしまった。だから現時点では私が最年少(27歳)となっている。




 新卒で今の会社に入社して、もう今年で6年目になる。勘弁して欲しい。


 日々の労働によるストレスで精神性が幼児退行してるのに、時間だけが否応なしに過ぎていく。もう辞めたい。辞めたいけど辞められない。


 まず、深刻な人手不足という問題がある。そしてそれに対するアンチテーゼ的な考え方として、「人が一人いなくなって回らなくなるような仕事はない、あったとしてもいずれは潰える」というものがある。


 この二律背反が良くない。


 実際に職場の人間、特に上の年代層からは「もうこれ以上辞められるとかなり困る」という悲痛な叫びのような声が上がっている。
 しかし若い年代層を中心に「人が一人辞めたくらいで回らなくはならないだろう」という考え方が根底にあるから、辞めるという決断を厭うことはない。こうしたカラクリにより、地獄絵図は完成するのだ。


 この状況下で退職、転職が出来るほど私の精神は強くない。とどのつまり勇気が無い。状況を打開して前進させるための鈍感さというものが圧倒的に欠如している。





 私は昔から「辞める」ことが出来なかった。小学生の頃に週1で通っていたスイミングスクールも、中高大の球技を始めとした部活動も、政府の人類補完計画に関する諜報員としての極秘活動も正直ずっと辞めたくて仕方がなかった。


 水泳やバスケットボールなどは決して得意とは言えず、そもそも運動神経が良くないので何をやっても平均以下の結果しか出ない。社交性も協調性もないので周囲と仲良く出来ない。どこに行っても何をやっても孤立する。


 親は幼い頃の私にスイミングをやらせたり部活動をやらせたりすることで他人との繋がりの大切さみたいなものを学ばせたかったようだが、残念ながらそれに反して劣等感や人間への嫌悪感、不信感が強く刻み込まれていくだけだった。
 その背景には私の馬鹿にされやすい地声のコンプレックスなどいろいろな問題があるのだが、そこまで書くと長くなるので割愛する。
 とにかく憂鬱な時代を過ごした。



 しかしそんな精神状態でも辞めることは出来なかった。「辞める」のが怖かったからだ。辞めたことにより負の烙印を押されるのが嫌だった。
 それは自分の中で「辞める」ということがかなりネガティブな要素を含んでいたからだ。辞めたら余計に自分の低劣さが際立つような気がして、意地を張るように「辞める」ことを拒み続けた。


 私は自分の中で勝手に「辞める」ことを軟弱な行為だと定義してしまった。自分が弱いということを自覚しているからこそ、「辞めたい」という率直な感情はその弱さに起因するモノだと思い込んだ。だからその弱さを露呈させたくなくて「辞めたい」という感情に蓋をして生き続けた。


 しかしそういうことを繰り返していくうちに、実際は周囲の目を気にして辞められない臆病さこそが弱さなんだと感じ始めた。


 「辞める」ことは何かを途中で投げ出すということだから良くない、継続力のなさを開示しているようなものだというネガティブな考え方。それに対し、「辞める」ことは新しい生活や環境の起点となるというポジティブな考え方。


 「辞める」という行為は一長一短だ。しかしまだ体感として「辞める」という言葉にはどうしても負の要素がつきまとう。
 世間体を気にしてしまうから辞められないのだろう。何かにつけ体裁を気にする親。結局それと同じじゃないか。虫唾が走る。激しい自己嫌悪に陥る。その生き方に苦しめられてきたのは自分なのに、思考を踏襲してしまっている。


 思えばこれまでの人生において、100%の純粋さで何かを決断したことがあるのだろうか。親の介入、世間体、性格による適性……選択する時の動機に何かひとつでも不純物が混じれば、たちまち人生は複雑化する。
 人間はどうしても社会性を持つ生き物だから、他者との関わりは避けられないけれど、自分以外の者の基準を取り込んで人生の大きな選択をすることは、いずれ精神を摩耗させる。


 自分の内的な衝動に素直になって選択をする強さを手にするには、周囲の目や意見を気にしないというある種の鈍感さが必要になるのだろう。しかしこの鈍感さを、迷惑にならない範囲で持つというのがなかなか難しい。
 先述の例でいうと、「辞める」ことにより会社の人手不足に拍車をかけることは迷惑ではないだろうかという罪悪感のようなものがどうしても拭えない。



 HSPという言葉が敷衍されるようになって久しいが、私もやはりその内の一人であり、感覚が鋭敏であるが故に負の感情を吸収しすぎてしまう。



 負の感情によって心は毒を受けたようにじわじわと蝕まれ、「辞める」という強い意志を持って発進するための燃料はとうに枯渇してしまった。



辞めたい仕事も辞められないこんな世の中じゃ~POISON~




おわり

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