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デリカシーの欠片すら持たない、ぼくが僕になるまで(幼少期⑦)

「母さん。机に置いてあったぼくの本、どこにあるか知らない?」
「どこの机?」
「ぼくの部屋に決まってるだろ」
 母さんは読んでいた雑誌から顔を上げた。「知らないわ。お母さん、今日はあなたの部屋に入っていないもの」


 ぼくはもう一度自分の部屋へ戻って探してみることにした。でも探すとしてもあとは机の裏ぐらい。それか、ほこりのたまっている本だなの上か照明の上ぐらいか。とにかく、空中にでもほうり上げでもしなければ向かわないところだ。
 リビングから抜けようとしたところで、「マコト」とぼくは呼びかけられた。父さんの口からよく聞かれる声だ。新聞がじゃましていて、ぼくの位置からでは父さんがどんな顔してるかわからない。「青い表紙で、竜が描かれているやつか」父さんの次の言葉を、新聞の第一面を読みながらじっと待つ。どうやらイエメンのアデン港でアルカイダメンバーによる自爆テロがあったらしい。見出しにかかれた事件について更なる情報を仕入れるためぼくは目を細めていった。現地時間十一時十八分、イエメンのアデン港で燃料補給をしていたアメリカ海軍のアーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦「コール」を━━。

 そこまできたところで、見ていた文字があっちこっちに飛び交った。ぴんと張った新聞の真ん中に手が挟み込まれ、上から下に一直線のきちんとした折り目を作りあげる。ぼくが未練がましく文字を後追いしていると、真ん中を境にして新聞が内へと折り込まれ始めた。かばんに入るサイズまでコンパクトになった新聞はテーブルの上に。前を向くと父さんはテーブルの上に手を組んでぼくの方に目を向けていた。
「その本はな、オレが預かった」聞こえた音と父さんの口の動きには矛盾がない。「まだ風呂の掃除が終わっていなかったようだからな。風呂の掃除が終わったその時に返してやるよ。捨てられなかっただけでもマシだと思え。家に帰ってきたらまず初めに家の手伝いをする約束だったろ。前にオレと約束したはずだ」父さんはなんだか、ぼくの総体にむけて怒りを投げつけているみたいだった。手伝いをしていなかった不手際よりも、その背後にあるぼくという人間について怒ってるみたい。


 しばらくして、「お前が今日やったことといえばなんだ?学校に行ってきただけじゃないか。父さんと母さんは忙しい。毎日毎日働いている。そのことをお前も知っているはずだし、前にちゃんと話し合ったはずだ。それでもお前は本なんか読んで遊んでいる。時間が空いているやつが家の手伝いをするのは当然なことだろ。違うか?お前だって風呂に入るんだろ。飯も食うし、テレビを見たりもする。そうだろ」父さんは眉をしかめる。痕でも残ってしまいそうなぐらいに強く。「何か言ったらどうなんだ。なぜ謝らない。まずはごめんなさいだろ」ギュルルル。ギュルルル。ギュルルル。
 母さんが台所からリビングに顔を出した。「何?どうしたの?」
 父さんはぼくに顔を向けたまま、「ああ、何でもないんだ」と言って、ややこしいのはごめんだというみたいに手の平を上下に振った。「マコトが風呂の掃除をやっていなかったから、すませるまでオレが本を預かっておくことにしただけだ」母さんは台所に戻らず、リビングにやってきた。父さんはちらっと黒目を向け、横に立った母さんの腰へと手をのばす。「約束は守らなくちゃだめだろ。ちゃんと取り決めたんだから」父さんの声が急にまろやかになる。「男二人の約束だったろ。なっ?」ぼくは父さんの足が床に着いている辺りを見る。父さんのはだけた足は大きくて、床に着いたままピタッと動かない。
「真、早くやってしまいなさい。そんなに時間がかかるものでもないんだから」母さんの声がする。ひとまず安心したような声。
 父さんの足。ひび割れた爪。親指の付け根に生えた二三本の縮れた毛。日に焼けた太い足首。

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