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デリカシーのないぼくが僕になるまで

★新たに付け加えた協定その十:この契約はどちらかが断るまで更新してもよい。

「おいおい、また来たのか」僕が部屋に入っても甲野さんは目を開かなかった。ピクリたりとも動かない。
「いいだろ。どうせあんたも暇して寝ていたとこじゃんか」
「俺の事はどうでもいいんだ。部活を見てくる約束だったろ」
 テーブルの上に僕はバッグを置いた。テーブルに備え付けられた椅子を引き、後ろ向きに座る。「ったく、電気ぐらい点けろよな」ぼくは腕を組んで、脇の下に椅子の背凭れがくるように前屈みに姿勢を変えた。「で、どれぐらいやってんだ?」


 夕闇が迫る中、甲野さんはゴムマットの上にじっと座って動かない。目を瞑っていれば、明かりがあろうとなかろうと同じなのだろうけど。ちょっとしてから、「俺のことか?」と訊いてきた。おそらく丹田とやらを意識するのに大部分のエネルギーを割いていて、そのために反応するのに時間がかかったのだ。そういった目で見てやれば、臍の下を重要だとみなす気が盛り上がってこないでもない。
「それ以外に誰がいるんだよ」
「ドアのところに一人、入った左手の壁にも一人。それにお前の後ろのテーブルにだって一人腰かけている」
 僕は立ち上がり、本棚のところまで行った。ぎっしり詰まっている本の中から、フォークナーの『響きと怒り』を手に取り、片手で持ってページをぺらぺらとめくる。この本の中に閉じ込められた人物たちは、家系を巡るどうしようもない渦の中に絶えず飲み込まれている。もがけばもがくほど引きずり込まれていく。読む分にはとてつもなく面白い。その時、甲野さんが話しかけてきた。
「部活ってのはお前が思っているよりも大事だ。まず協調性ってもんが身につく。自分を犠牲にしてでも、仲間のことを思って働く。用具を出したり、掃除をしたり、好きでもない者に話しかけたり。集団スポーツならなおさらのことだ。自分だけがボールを持つんじゃなく、仲間へパスを出したり、ブロックを代わってやったりな」出した本を本棚に戻して、肩を頼みに壁に寄りかかった。寛げるスペースがあるというのはいいことだ。そこが例えただの壁であっても。首を左右に傾けたが、何も音は鳴らなかった。「協調性が身に着けば、実社会でも大いに役に立つ。お前の力になってくれることはまず間違いない」甲野さんは深く息を吸い、空気を体内にたっぷりと取り入れる。空気を洗ってくれる機能は甲野さんには備わっていないから、空気がどこまできれいになって吐き出されたのかはわからない。「協調性ってもんは自分一人で身につけるのは難しい。それが活動本来とは違った、無意識のうちで身につけることができるんだ。部活も捨てたもんじゃない」


 僕は椅子まで戻って、背凭れに両肘をついた。「あんた、やっぱり変わってるよな」
 甲野さんは薄く目を開け、にやりと笑った。あいかわらず呼吸は乱れない。「俺のどこが?」
「クラブ活動に興味ない中学生を説得するのに、無意識のうちに協調性が身に着くからとかいう理由は使わないよ。普通はもっと単純で端的で直接的な理由、例えば彼女が出来やすくなるとか、仲の良い友達が作れるとか、体を動かすのは気持ちいいだとか、そういった理由で説得するんだよ」



 甲野さんは目を瞑っていたけれど、まだ微笑みは溶けず頬に居残っていた。背中がピンと張り姿勢の良さが際立っている。太腿に押されて盛り上がったふくらはぎの隆起が目立つ。どちらも長年の鍛錬の賜物だ。意図して鍛えたのかは知らないけれど結果は結果だ。「お前の言う通りかもな。だが俺にとって大事なのは、それで自分がどうなるかなんだ。それに友達が出来るからってお前に言っても反論されるだけだろう。部活内でわざわざ友達作りに励む必要なんて全くないしな。やる気があるかどうかの問題だ。付き合うタイプに若干の代わり映えがあるかもしれない。だが、それは大して問題ではない。俺が言いたいのはどちらの方が効率がいいのか、ということだ。そりゃ協調性ってのも、違う場面でも身につけることは出来る。だが、それを個人単位のレベルでやるのと集団全体でやるのとは身につく速さが違うんだ。何かレポートのようなものを書くのと違って、集団でやる方が格段に速く身につくケースが多い。それなら部活に入った方が手っ取り早いんじゃないか。必ずしも部活で身につける必要がないのは確かだ。それに代わるものがそちらにすればいい。だが今のところ俺にはそれに代わるいい案が思いつかない。まあ集団でいる際に付け加わる不確定要素は考慮に入れなければならないが、協調性といった観点からだけ見れば、そういうことだ」
 僕は深くため息をついた。背もたれから肘を離してキッチンまで歩いていき、冷蔵庫からミネラルウォーターの入ったペットボトルを取り出した。戸棚から底の厚いコップを一つ取り出し、ミネラルウォーターを注ぐ。
「僕はその、不確定要素について話合いたい」ミネラルウォーターは冷たく、僕の身体のどこまでにでも巡っていくような気がした。


「不確定要素」甲野さんは繰り返した。「または余計なお世話」
「余計なお世話」僕はコップをシンクに空け、入っていたミネラルウォーターを捨てた。大半の水が排水溝に吸い込まれていった。「そしてその余計なお世話ってやつは、部活に入っても入らなくても生まれるんだ」
「よくわかってるじゃないか」甲野さんは声を出して笑った。目はしっかりと見開かれている。瞑想から醒めた目は活気に満ち溢れて色艶があった。やはり眠ってはいなかったようだ。「じゃあなんで部活に入らない?」
「それは気持ちの問題だよ。部活に属さないことで付け加わる不確定要素の方が僕は好きだ。どうせならそっちの方がいい」
 甲野さんはヨガのポーズを解くと、横に置いてあったタオルで額を拭いた。「俺にも一杯、水を注いでくれ」戸棚から新たにコップを出そうとすると、「イヤ、お前の使ったやつでいい」僕は蛇口をひねってコップをゆすいだ。
「どれぐらい?」
「いつもより多めで頼む」僕はコップの三分の二ほどの高さまでミネラルウォーターをそそいだ。「横に置いといてくれ」指示通りの場所にコップを置いて、窓際に近づいた。

 霧吹きを手に取って、窓際に収まりきらなくなってからは床へと居を移したオーガスタへと水分を振りかけてやった。オーガスタはその位置でも十分、窓から射す陽光の恩恵を受けている。どの葉もひどく大きい。これならバナナの葉にも引けは取らないだろう。それに、育ちの良さになら絶対に負けない自信がある。そういえば、オーガスタの葉が抜け落ちたことをまだ見たことがない。元から少ないのか、そういうものなんだろうか。よくよく考えると不思議なことだ。一枚も欠けることなくすくすくと成長してきたことが。夕日に洗われ、こうやって本来の緑と橙の二色に輝いていることが。僕は窓を少し開けてやった。窓から入り込んだ風によって葉がそよぐ。風がやむと、しなやかに元の位置までたどりつく。僕は葉に触れることはせず椅子へと戻った。

 甲野さんは額と首と、背中を拭き終わるとコップから水を一口飲み、上半身裸のまましばらの間壁に寄りかかっていた。
「気持ちの問題か」甲野さんは目を伏せ、さっきまで自分が座っていた床を見ていた。ゴムのマットは下半身の形に合わせて色濃く後を残していた。しばらくして、「それは一番大事なことだ」と甲野さんが言った。「気持ちに耳を澄ませて、その決断が一時的ではなく、楽をしたいからってわけでもないとわかったら、そんなことはやるべきじゃない。他にやれることがある」甲野さんはコップを手に取ったが、くゆらすだけで口にはもっていかなかった。甲野さんは僕の呼吸にじっと耳を澄ませているようだった。僕のこの、ささやかな拡大に。僅かながらも、取り違えることないこの広まりに。

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