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デリカシーのないぼくが僕になるまで

★ギュルルルルル。キュルル。

 父さんの頬は赤い。テーブルには飲み干したビールの缶と、ふたを開けたもう一つの缶。テレビからの音。高い音。チカチカと瞬くカラフルな色。笑い声。
 ぼくはひっそりと席を離れた。ふとももの下に手を差し込む。イスの後ろ足を空中に浮かす。少しづつ後ろへ━━。


「ちょっと待て」父さんはテレビを消す。顔がこっちに向く。赤い。首が傾き斜めに伸びている。「食器はいいからそこに座れ。今日はどうせオレが洗うんだ」
 ぼくは席に座る。バラバラに反発し合う箸。枝豆の殻。皿に残った茶色い肉汁。
「風呂の掃除は終わったのか」
「うん、終わった」頬がゴムのように固い。
「宿題は?」
「終わったよ」
「塾のやつもか?」
「うん」父さんはガムでも噛んでいるみたいに、口の中で舌を動かしていた。ギュルルルル。


 しばらくして、「お前、オレになにか言いたそうな目をしているな」と父さん。「なにかあるんならいっていいんだぞ。今日はうるさい奴もいないしな」父さんはケラケラ笑う。
 肉汁に浮いているカス。端に避けられたブロッコリーとニンジン。へこんだ枝豆の殻。
 父さんは口の中の味が薄くなったガムを持て余しているみたいに口をすぼめる。「どうせ父親が酔っぱらっているのを情けないとでも思ってんだろ。どうだ?図星か?そうだよなあ、その目つきは。そういう目つきだもんなあ」口が開いて厚ぼったい唇が垂れさがっている。「飲まねえことにはやってられねえんだよ。これでも抑え込んでる方なんだぜ。こうなってるのも、お前たちのために毎日毎日オレが働いてっからだ。会社行って企画を練って上司に報告してっからだ。今お時間よろしいでしょうかって、へいこらしてな。それなのによ、感謝の一言もねえ。ったく、そんな目でオレを見やがって」父さんはビールを一口飲む。頬の上を一滴が滑る。あごに行くまでに水分を使い果たす。「お前がのんびり本を読んでるあいだ、オレはお前のためにまいにちまいにちはたらいてんだ。お前が好きなことをやってるあいだ、オレはまいにちまいにち客にへいこらあたま下げてんだ。お前がさっき食ったものを買うために、オレは朝から晩までまいにちまいにち働いてんだ。そのことわかってんのか。おい。わかってねえーよなー。わかってたら、そんな目でオレを見ねーよな。おい。お前が暮らしてるこの家の家賃、いったい誰がはらってっと思ってんだ。なあおい。生きてくのもタダじゃねえんだ。寝んのも、フロ入んのもママに飯作ってもらうのも、いすにすわってほんよむのも、ぜんぶな。なあおい、お前そのこと分かってるんだろうな。分かってんなら返事しろー。お前しゃべれねえわけじゃねえだろ。おい。どうなんだおい」ツバ。アカい頬。アブラぎった額。ピクつく眉。目。

 
 ねえ━━━しら。━━だ。━━━消して、こっち━━━━。なんな━━改まって。あの子が一体何をしたっていうの。騒グンジャネエ。機嫌が悪いからといって、子供に八つ当たりしないで。可哀そうに怯えていたじゃない。あの子だって我慢してるの。あなた、あの子の笑っているところ、見たことあって?あなたが帰ってくると静かになってしまうのよ。オレハナグッチャイネエ。そういうことじゃないのよ。カタカタカタ。カタカタカタ。もっとあの子のことを見てあげて。オレハ見テルツモリダ。誘ッテモアイツガ乗ッテコナインダ。あいつというの、やめてくれる。真っていう、ちゃんとした名前があるのよ。マコトガ自分ノ部屋デ本バカリ読ンデイルカラダ。ソンナコトシテモナニモナリャシナイ。タダ、貧弱ナモヤシガデキルダケダ。歯ゴタエノナイガキガナ。ソレヲオレハ気遣ッテワザワザ誘ッテヤッテンダ。オレハ悪クナイ。子供ハ外デ遊ンデリャイインダ。あの子は本が読むのが好きなのよ。それをあなた、取り上げたりするもんだからそうなるのよ。一緒に外で遊びたいのなら、まずは真のことをよくわかってあげなくちゃ。ギュルルルルル。キュルル。ナンデワザワザオレガ合ワセナクチャナラネエンダ。別ニシタクテヤッテルンジャネエンダ。コッチハオ前ラノタメニ働イテ疲テンダ。構ッテホシインナラ、アイツガオレニ合ワセリャイイ。アイツニハ可愛ゲガネエンダヨ。今度オレヲ見ル目ヲヨウク見テミロ。フテブテシイ目ツキヲシテイタガル。心ノ中デ、オレヲ見下シテヤガルンダ。あなた、真の父親でしょ。別ニアイツノ父親ニナリタクテナッタンジャネエ。最初オマエニ言ッタダロ。上手クイカナクテモ、オレノセイニスンナッテ。ドイツモコイツモオレノセイニシヤガッテ。マズナ、何モ考エズニ生ンダオ前ガワリインダ。ドウセ何モ考エズニ、マエノダンナトヤッタンダロ。こうなるとは私も思っていなかったわよ。私だってできれば離婚したくなかったわよ。知ラネエヨ、ソンナコト。オマエノ昔ノコトナンテ、オレニハ関係ネエ。厄介ゴトヲオレニ持チ込ンデクルナ。何なの?こうなったのは私のせい?アア、アイツガ可愛ゲノナイ子供ナノハオマエノ育テ方ガワルイセイダ。アイツガオレニ懐カネエノモ、コウヤッテ怒鳴リ合ッテンノモ全部オマエノセイダ。ギューーーーーーー、グルルルルル。何よ。私は努力しているわ。何もしてこなかったのはあなたの方じゃない。帰ってくれば根を下ろしたみたいにどっかりとイスに座りこんじゃって。なんでも思い通りになるとでも思っているの?ばかみたいに口をぽっかりと開けてバラエティー番組を見て。何も手伝ってくれないじゃない。オマエノホウダッテ、テレビヲ見テンダロ。オレバッカリジャナイ。グルル。あなたが見るもんだから、しょうがなく見ているのよ。見たくて見てるんじゃないわ。それにだらしなくくちゃくちゃと食べて。もう少し行儀よく食べたらどうなの?あなたより真の方が静かに食べるわ。カタカタカタカタカタ、スーーーーー。トイレットペーパーが切れた。ナンダソレハ。やめて、私に触れないで。オイ。ナンダソノ態度ハナンダ。マコト、マコトッテウルセエンダヨ。オマエラガコウヤッテ暮ラシテイケルノハ全部オレノオカゲダ。分カッテンノカ。アノ可愛ゲナイ息子ト何不自由ナク暮ラシテイルノモ、コウヤッテオレニ愚痴ヲ言エテンノモ全部ナ。何言ってるの、お腹にこの子がいなければ私だって働いているわ。オイオイ、働イテモオマエノ給料ナンテタカガ知レテル。オレノ何分ノ一ダ?セイゼイ半分カソコラダロ。ソンナンデオレニ口答エスンナ。ソウカ、オマエニハ、ステキナダンナサンカラノ仕送リガアルモンナ。アレガアレバ大丈夫ッテワケカ。何言ってるの?あのお金は、結婚式に使うんでしょ。お祝儀合わせても全然足りないんだから。それに生まれる子供のこともあるし。ソウダナ。アンナ勉強バッカリスルヘンナガキニナルナヨ。カワイイ子ニソダテナ。あなたが真にいつも言ってるんじゃなくって。勉強しろ、勉強しろって。そうすればいい大学に入れるんだって。ソレハアイツガ本バッカリ読ンデ目障リダカラダ。アイツガソドウナロウガ、オレノ知ッタコッチャナイ。オレニ迷惑カケナイヨウダッタラドウデモイインダ。ソレニオマエモ、オレト二人キリノ時間ガシ欲シイダロ。あきれた。なんなのよそれ。あなた、本気で言っているの?あなたは仮にも真の父親なのよ。ねえ。もうちょっと考えてから私に言って。あなたの子の母親だけど、真ももちろん私の子よ。あなたもそのように接してあげて。この頃、見てらんない。ナンダ、オレニ反抗スルッテカ。アア。つかまないで、痛いじゃないバカ。オイ、今ナンツッタ。オイ。モウ一度言ッテミロ。バカって言ったのよ。やめて放して。いやもう━━━━━━━━。

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