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デリカシーの欠片すら持たない、ぼくが僕になるまで

「今日の夕食はなんだ」
「カレイの煮つけ。真が作ってくれているわ」
「あとは何がある」
「そうねえ。小松菜のおひたしと納豆ぐらいかしら」
「おいおいたまには身になるものを食わしてくれよ」父さんはぼくの後ろから鍋の中をのぞき込んできた。「せめて濃い味にしてくれよ。薄いと何を食っているのかまるでわかりゃしない」
 ぼくはお客の要望を聞き入れ、砂糖としょうゆを酒の分量をほんの少し多くする。煮汁が黒いのは変わらない。火加減を調節し、沸とうしてくるのを待つ。小さいあぶくが底にたまっている。お客はまだ後ろに立ってるみたいだ。


「あと何分ぐらいで夕食だ」
「真、あと何分ぐらい?」
「早くても十五分」
「じゃあ二十分後ぐらいになるかしら」
「この料理長の腕次第ってわけか」お客の声は笑っているみたいには聞こえない。リビングに向かった気配がないから、お客は後ろの壁に背中を落ちつけたんだろう。
 煮汁が沸とうしてきた。火を弱めてからカレイを入れる。お玉で煮汁をすくい、上からかける。カレイが煮汁に浸かる。もう一度すくってかける。カレイに煮汁が行き渡る。アルミホイルの四つ角を丸め、落しぶたを作り、カレイの上に重ねる。
「今の学校ではこんなことも教えるのか」
「自分で勉強したのよ。真の方が私より上手く作れる料理もあるんだから」
「そりゃあたいしたもんだ」お玉を手に、ぼくは鍋の前でじっと構える。


 母さんはシンク下のドアを開ける。しゃがみこむ。じっと奥を見つめてから、手を伸ばす。立ち上がる。手にはめんつゆが握られている。
「自分で稼いでその金で料理を作る。作った料理は自分で食べる。自己完結型ときたわけだ」お客はくっくっと笑う。しばらくして、「まああんまり上手くなってもらっても困るな」と後ろから声がする。「将来、こいつは結婚しなくなるかもしれないよな。女がいないでも不自由しなくなってな。飯も作れる、風呂もみがける、皿も台所までは運んでいける」お客はまたクックっと笑う。「そういうことができるやつが多いから、結婚できない奴が最近増えてんだろうよ。一生一人でもいいってな。それにこいつは何よりも本を読むのが好きだ。飯を食うよりも好きらしい。これじゃ先が思いやられるよな」
 誰も何も言わなかった。お客一人だけがクックっと笑いながらキッチンから出て行った。
 落しぶたと鍋の間から泡があふれ、端に集まってはじけていた。

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