はじめ

日記。日常で思いついたことを書いていきます。

はじめ

日記。日常で思いついたことを書いていきます。

最近の記事

ほんとうの自分は見つかるの?ーラカンのシニフィアン連鎖

こんなのほんとうの自分じゃない。もっと自分はきらきらしていて、もっと人気があって、勇気のある人間なんだ。 ほんとうの自分はこんなもんじゃない。自分自身の認識を正しく持つことは難しい。ときに人は、自分を受け入れることができず、ほんとうの自分を探してしまう。 ほんとうの自分はバックパックを担いで歩く旅先で見つかるわけではない。そもそもほんとうの自分なんてあるのだろうか。 ほんとうの自分とは、到達できない架空の自分である。 そういうとなんて空虚な人生なんだとあなたは思うだろ

    • 私のことを初めて知る時ーラカンの鏡像段階

      私が私のことを知ったのはいつだろう。私はいまでも私のやりたいことを完全にわかっているわけではない。でも、私の顔や成長期を通り過ぎた身長、ほくろの位置だとか、そういう私の外見を鏡を通して私だと認識することができる。私を知ることとは、まず私の外見を知ることである。 鏡がなければ、雨上がりのアスファルトのくぼみにできた水たまりがなければ、私のことを私とすら知ることができないのだ。 私がまだ私と他者の区別がついていない頃、初めて私を知ることができたのは私を映す鏡のおかげだった。

      • カミュの異邦人

        フランス語を学び始めると、必ず1冊の本が特別な本となる。 それは、カミュの異邦人である。 文学に通じた人でもそうでない人でもこの本をフランス語で読むことが ひとつの目標になる。 読みやすいと言われ、だれでも簡単に読み進むことができるように、 日本語訳がついた読本も出版されている。 この本のポピュラーさは何も日本人だけでなく、 当たり前だが世界中の人に知られている。 フランス語を勉強をしに、フランスに行く。 そこできみは、初めてきみが「外国人」であることを実感する。

        • おいしい桃を探す

          去年から、スーパーでおいしい桃を探すことを、夏のささやかな楽しみにしている。甘酸っぱい、ちょうどよい甘さの桃を手にするのは、なかなか難しい。 よく行くスーパーでは二種類の桃がある。黄色い桃と白い桃。ペッシュ・ジョーンと呼ばれる黄色い桃は、私の選び方が悪いのか、いくらか手に取ってみたが、それはどうしても酸味が強かった。それに比べ、ペッシュ・ブランシュと呼ばれる白い桃は、甘い味が多い印象だ。 おいしい桃を選ぶコツとすれば、手に取ったときに、少し柔らかみのあるものを選ぶというシ

        ほんとうの自分は見つかるの?ーラカンのシニフィアン連鎖

          脳をショートさせる

          忙しい。いっつも時間がない。そんな感覚が続いている。何もかもをやめてしまいたい、そういう風に人生をとらえはじめてからどれくらいたつだろうか。つねにそう思ってきた気がする。小さい頃からも学校のつまらなさや家族でどこか行くことのつまらなさがあった。そんな時はわたしは、自分を脳を殺す。脳死するんだ。テレビをぼーっと見る、漫画を読む、ゲームをする。何も考えない。いまではYoutubeを見たり、ネットをだらだらと眺めることで脳を死亡させる。私にはこういった時間がどうしても必要なんだと思

          脳をショートさせる

          Netflixで英語を勉強しよう

          Netflixで英語ができるようになりました、とよく聞く。生の英語に触れているから、聞き取れるようになるし、セリフを覚えれば話せるようにもなる。覚えたフレーズの単語を入れ替えたりもして、応用を効かせることも可能だ。 楽しい動画を見ながら英語も勉強することができる。一石二鳥である。楽しく勉強することがもっとも効率がいい。Netflixで勉強することの良い点である。ただ、その良いことをし続けた先には、功罪が生まれる。 その功罪とはなにか。 なにか意味のあることをしなければい

          Netflixで英語を勉強しよう

          怠け者と時間

          私は怠け者である。怠け者であるとは、継続して根気強く物事を行えない人間を言う。きみの周りにもそういう人間はいるのではないだろうか。むしろきみ自身が怠け者かもしれない。 ただ人間とは、面白い生き物で、いくら怠けよう、堕落しようとしても、落ちるところまではなかなかたどり着けない。確かにすぐそばには、暗闇の誘いがあるのだが、それでもなかなかその誘いに全面的に乗っかることはない。思考停止だ、なんだと言われてもオフィスに重い体を持っていく。 ポテチを食べて運動もせずだらだらしている

          怠け者と時間

          全体主義的人間

          わたしは全体主義的人間である。 全体主義的人間とは、なにか。端的に言ってしまえば、個人よりも全体を優先する思考をもった人間である。日本人と言ってしまってもいい。 個人よりも全体に重きを置き、生活する。周りのことを第一に考え、迷惑をかけないように生きる。 パンデミックの状況でも、その全体を志向する人間が集まった社会は、うまく機能する。感染者数、死亡者数は低い。感染予防を第一に考え、個人の行動を規制する。個人の欲望は、まずは全体の秩序があって、成り立つものであるという無意識

          全体主義的人間

          ADHDでもHSPでもないきみへ

          きみはなにかと生きづらさを抱えているように見える。 まわりの人が難なく乗り越えているように見える壁が、きみにとっては、とてつもないほどの高さがあるように見える。これまでその壁はいくつもあった。乗り越えたこともあれば、乗り越えることをあきらめて、引き返したこともあった。 うまく事が運ばないとき、きみは、どうして自分だけが、と悲観的になってしまう。また、自分には、なにか欠陥のようなものがある気がして、ネットで、精神的にまわりの人と違うところを探すようになる。 検索するときに

          ADHDでもHSPでもないきみへ

          自由とはなにか

          大それたタイトルで始まるこの文章が、どこに向かうのか私にはわからないし、だれにもわからないだろう。ただ、私の実感から得たひとつの考えを文字としてここに残しておきたい。 自由とはなにか。それは、広がる大空の下、日に向かって、めいっぱいに伸びをしている私の身体に、川の水気をともなった空気があたり、そのつかの間の幸福の瞬間を噛みしめることができることを言う。それが自由だ。自由とは、その幸福のつかの間の時間を享受することができる可能性と言ってもいいだろう。 個人は自分自身を幸せに

          自由とはなにか

          自分の足で歩く

          遠くへ行くには、他人によって運ばれてはならない。自分の足で歩かなければならない。 ニーチェがそう言ったようだった。だれかがこの言葉を引用した流れのなかで、私のところまでたどり着いた。 どの著作からの引用かをまだ知らない。けど、私はこの言葉を時折思い出す。 どこまで私は歩いていけるだろうか。

          自分の足で歩く

          自発的に隷従すること、全裸的に抵抗すること

          わたしたちにとって、自由とはなんでしょう。わたしたちは、みずから望む自由を勝ち取ることができるのでしょうか。 この社会では、特定の自由しか見れないようになっています。公道で裸になることはあってはなりません。ましてや、セックスなんてとんでもないことです。捕まります。政治的に、裸になることは可能です。フェミニストがよく、裸になって抗議しているでしょう。公道で裸になることは、それだけで、政治的で、自由を求める抵抗になります。 狂人たちは、例外的に法から逃れています。罪を犯しても

          自発的に隷従すること、全裸的に抵抗すること

          認知エネルギーと資本とセックス

          人間と動物のちがいは、人間は言葉を話す生き物であるという点です。ピエール・ルジャンドルという人は、人間を「言葉を話す動物」と言いました。 言葉とはなんでしょうか。それは、意味の世界をつくりだすことができる記号であり、蜜です。世界に色を与えることができます。 人間の世界には、意味が過剰にあふれています。わたしたちは、意味なしに生きることができません。生きることができない、つまり、お金を稼ぐことができません。 電車に乗れば、広告に書かれてある言葉を見て、わたしたちは、意味を

          認知エネルギーと資本とセックス

          チェーン店の生活

          わたしには教養がないから、チェーン店の生活を送ります。 コーヒーの味は、ドトールしか知らないし、ワインは、スーパーの安いビンのものしか知らない。 松屋でご飯を食べる。買う服はユニクロかエイチアンドエム。聞く音楽も、Youtubeで流れてくるものばかり。 家具は、イケアで、小物入れは、無印で買う。 わたしのからだは、チェーン店でできている。本ももう読んでいないし、音楽ももう聞いていない。 Twitterで情報を得て、Netflixで映画を見る。 わたしには教養がない

          チェーン店の生活

          現実とフィクション

          わたしたちは当たり前のように、現実とフィクションの区別ができると思っている。これは現実で、これはちょっとフィクションで、とかんたんに判断する。買いすぎて、捨てられなくなった物を区別するように。こっちは捨てられる物で、こっちは捨てられない物で、とかんたんに判断できると思う。 物質的な要素があれば、現実というのは、正しいのでしょうか。触れることができる。食べることができる。それができれば、現実だと、わたしたちは思う。 確かにそれは、現実です。では現実のなかに、フィクションは存

          現実とフィクション

          見ることと読むこと

          わたしたちは、読むことが少なくなっている。読むよりも見ることで情報を得る。ツイッターはだれも読んでいない。スクロールをして、見て情報を得ている。 インスタグラムやティックトックの流行りは、わたしたちがいかに見ることで快楽を得ているかを表している。 猿も同じようにスマホを使って、見て楽しんでいる。わたしたちは猿と同じようにスクロールしながら見ている。 見ることと読むことはまるで違う。けど、書くことは、また見ることでもある。イメージを相手に伝えること。不思議なことに、書いて

          見ることと読むこと