自発的に隷従すること、全裸的に抵抗すること

わたしたちにとって、自由とはなんでしょう。わたしたちは、みずから望む自由を勝ち取ることができるのでしょうか。

この社会では、特定の自由しか見れないようになっています。公道で裸になることはあってはなりません。ましてや、セックスなんてとんでもないことです。捕まります。政治的に、裸になることは可能です。フェミニストがよく、裸になって抗議しているでしょう。公道で裸になることは、それだけで、政治的で、自由を求める抵抗になります。

狂人たちは、例外的に法から逃れています。罪を犯しても、精神的異常という名目で、罪にはなりません。わたしたちが狂人になってしまえば、公道でもセックスが可能かもしれません。

わたしたちが自由きままに振る舞えるというのは、どこか幻想でしかありませんでした。わたしたちが享受できる自由というのは、どこまでも法の下で許された「正常な人間のための」自由でしかないのです。

狂人は、施設に収容されます。それは、正常な人間が自由を手にすることができないからです。正常な人間にとって、じゃまだからです。

巧妙にも、社会は、狂人を強制的に施設に収容するのではないのです。狂人が、みずから望んで、施設へと入るように仕向ける細工がされてあるのです。

もともと正常と異常の区別などありませんでした。狂人なんていないですし、ましてや常人もいません。その「区別」はフィクションでしかないのです。

わたしたちは、物事を理解するために、物事を「分けて」理解しようとします。正常と異常、善と悪、医者と患者、好きと無関心。すべての分類に、絶対的な根拠はありません。根拠を支える根拠はないとハイデガー先生は言っていました。

いったん分けて理解する。人間は、巧妙にもこの「分類」というフィクションをつくりあげて、生活しているのです。認知エネルギーが異常に発達しているからこそそれができるのでしょう。

自由の定義も同じです。常人のための自由は正しくて、狂人のための自由はつねに排除されています。正しい自由を求めなくては、狂人のわたしたちは、排除、隔離され、施設に入ることになるのです。

常人は、自分たちのことをマジョリティと思っています。また大多数が信じているものが、正しいとも思います。なかなか自分たちが正しいと思っていることを変えることはできません。少数を排除して、正しさを守る政治活動がつねにあります。

このわたしたちは正しいんだという無言の主張は、街にあふれかえっています。どこを歩いていても、正しさという無言の圧力があります。この無言の圧力に耐えきれない人が、施設へと自ら望んで、正しい人になることができるように、入院するのです。

施設では、正しさという無言の圧力が、街のそれとは異なります。他人からの冷ややかな目をもう心配しなくてもいいのです。そこでは、すべて、ルールがありますが、見えない正しさの圧力より何倍もましなのです。

外へ出たくはありません。この施設で暮らしていれば、もう辛いことはないのです。見えない圧力で押しつぶされることはありません。

でも、施設にとどまり外にでず、自発的に「自由」を手放してしまってもいいのでしょうか。わたしたちは、だれもが、自由に生きていいのではないでしょうか。

施設のなかの自由を自由と言えるのでしょうか。「正しい自由」と同じように、その自由は、ほんとうの自由ではないのです。その自由は、施設が提示する自由で、社会から排除された自由なのです。

薄い雲がどこまでものびていく秋空の下、だれもが自由に歩いていいはずです。冷たい風が吹き始めた河川敷で、なつかしい土や草、水のにおいを感じながら歩く。だれもがその自由を持っているのです。

わたしたちは、わたしたちのためのフィクションをつくりあげます。そのフィクションには根拠などありません。ただ、そのフィクションの繭は、わたしやあなたを包みこみ、密室をつくりあげます。わたしたちは、そのフィクションの繭のなかの自由しか知りません。その密室のなかの正しさしか知りません。

わたしたちは、圧力から逃れるために、「正しい自由」に自発的に隷従するか、施設へ自発的に入院するしかないのです。その選択肢は、フィクションがつくりあげたものでしかないのに、その選択肢しかないと思いこんでしまいます。

フィクションの繭の壁は、何重にも糸で巻かれていて、とても硬く、ひとりでは破くことはできません。破かなくてもいいのかもしれません。出口が必ずあるはずです。歩いていれば、どこか壁にぶつかります。空だと思っていたものが、実は壁に塗られた絵だった。そんなことは十分に、ありうることなのです。

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わたしたちは、「正しくなるために」歩きましょう。どこまでも、歩けばいいのです。ひとりで歩いていれば、仲間がよってきます。ひとりでどこまでも歩きましょう。それが、わたしたちができる唯一の「正しさ」への抵抗の方法なのですから。


※参考にした映画
1975年 カッコーの巣の上で
1998年 トゥルーマン・ショー

※参考にした本
1576年 自発的隷従論

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