全体主義的人間

わたしは全体主義的人間である。

全体主義的人間とは、なにか。端的に言ってしまえば、個人よりも全体を優先する思考をもった人間である。日本人と言ってしまってもいい。

個人よりも全体に重きを置き、生活する。周りのことを第一に考え、迷惑をかけないように生きる。

パンデミックの状況でも、その全体を志向する人間が集まった社会は、うまく機能する。感染者数、死亡者数は低い。感染予防を第一に考え、個人の行動を規制する。個人の欲望は、まずは全体の秩序があって、成り立つものであるという無意識が働く。

全体主義的人間は、社会に奉仕することをなによりも望む。自ら、自発的に全体の規則に隷従する。

社会の秩序のために、全体主義的人間は生きると言ってもいい。ただこの全体主義的人間は、つねに一定速度で機能するわけではない。全体主義的人間は、暴走する。どのようなときに暴走するか。それは全体の秩序を配慮しない人間を見つけたときである。ある個人が、自由に振る舞うことを許さない。全体の一部になろうとしない人間を糾弾し、晒し上げる。

わたしもこの全体主義的人間である。そうであることを最近知った。いくら個人の「わがまま」と言っていいほどの自由を最大限に尊重する個人主義的人間が集まった社会の言葉を学んだところで、実際に生活してみたところで、わたしのこの全体の秩序を求める欲望、身体は変わらなかった。わたしは、全体主義的人間に戻ってくる。

全体と一体になることの快楽。これをわたしは捨てることができるのだろうか。むしろ、戦後以来、否定的なレッテルを貼られ続けたこの全体を志向する快楽に、新しい意味を見つけ出せることはできるのだろうか。

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