私のことを初めて知る時ーラカンの鏡像段階
私が私のことを知ったのはいつだろう。私はいまでも私のやりたいことを完全にわかっているわけではない。でも、私の顔や成長期を通り過ぎた身長、ほくろの位置だとか、そういう私の外見を鏡を通して私だと認識することができる。私を知ることとは、まず私の外見を知ることである。
鏡がなければ、雨上がりのアスファルトのくぼみにできた水たまりがなければ、私のことを私とすら知ることができないのだ。
私がまだ私と他者の区別がついていない頃、初めて私を知ることができたのは私を映す鏡のおかげだった。
鏡は私に向かって、「これがきみなのだよ」と呼びかける。その時、私は私の姿を知り、その呼びかけた鏡が他者だと知るのだ。
子どもは「ことばなき者」、ことばをまだ知らない存在である。
ことばを知らない子どもは、全く未熟であるばかりか、ことばを知らないために物事の区別がつかず、自分の全体的なイメージをつかむことができない。
だから、私と他者の区別がつかない。私を私だと知ることができない。
鏡が私を映すとき、私は初めて私の姿を知ることができた。
ここで私は私のことを知ることができた。だが、鏡に映った私は私のことを映しているのかもしれないが、どこか冷たさを感じる。話さないし、のっぺりとしている。これが私の姿なのかと知るとき、受け入れられない私がいることに気づく。何かが違って見える。
鏡は私を映す。だが、鏡が映すのは私のイメージでしかない。それは、私=他者のイメージであり、すでに何かが奪われたイメージなのだ。
私とその鏡に映る私は似ているが違っている。私は私のことを他者を通して、何かが欠けた自己のイメージしか知ることができない。私と鏡を通した私のイメージは完全に統合されることない。
私は私と一体になりたい。想像のイメージと同一化したい。このナルシシズム的愛は一生続いていく。
私は私のことを知っているが、いまだに何をやりたいかを知らない。それは私が鏡に映る姿を見てしまったからだ。
私はもうことばを知ってしまった。どこからどこまでが自分なのか知っている。ただなんでだろうか。私には何かが欠けている気がする。私はその何かを探してまで生きている。
補足
精神分析家 ジャック・ラカン(1901 - 1981)は、言葉を知らず手足の区別すらわからない生後六ヶ月前後の子どもが、鏡を通して自己イメージを獲得していくという自我の起源に関する理論を1936年にマリエンバードで開催された第十四回国際精神分析学会で初めて発表した後、改変し、ラカンの主著である『エクリ』(1966年)に「〈わたし〉の機能を形成するものとしての鏡像段階」という論考を収めた。
参照文献
佐々木中 2011『夜戦と永遠 上』河出文庫。
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