現実とフィクション

わたしたちは当たり前のように、現実とフィクションの区別ができると思っている。これは現実で、これはちょっとフィクションで、とかんたんに判断する。買いすぎて、捨てられなくなった物を区別するように。こっちは捨てられる物で、こっちは捨てられない物で、とかんたんに判断できると思う。

物質的な要素があれば、現実というのは、正しいのでしょうか。触れることができる。食べることができる。それができれば、現実だと、わたしたちは思う。

確かにそれは、現実です。では現実のなかに、フィクションは存在しないのでしょうか。

存在します。フィクションはひとつの層からなるのではなく、複数の層からできています。フィクションはつねに、多層です。

物質界とそうでない界をわけてみる。そこが第一のフィクションです。第一のフィクションは、物質的でないものとして、現れない。夢や映画の世界は、フィクションです。次に第二のフィクションは、どこに現れるのでしょうか。現実のなかに、フィクションはあります。

物質のなかで、フィクションが存在するとはどういうことでしょうか。ただしくは、わたしたちは、現実のなかの、フィクションをつねに生きている、そう言うことができます。

施設に生きるわたしたちは、何らかの制約のなかで生きています。その制約には、まったく根拠はありません。そうであるから、そうである。ただそれだけで、因果も論理もありません。正しさというフィクションの繭のなかで生きています。

わたしたちが生きている正しさには、根拠がありません。そんなもののなかにわたしたちは生きています。わたしたちが作り出した根拠のなかで、それが正しいと思い生きています。

絶対的な正しさの根拠には、根拠がありませんでした。根拠はつくりだされたものであると。わたしたちが正しいと思っているものは、正しくないかもしれない。それをつねに考えていないと、施設が提示する唯一の正しさのなかで生きることになります。

施設の問題は、ひとつのフィクションしかないとするところです。フィクションはつねに複数であることを忘れないでください。社会もまた、フィクションがひとつであると提示します。社会の厄介な点は、フィクションがひとつであると同時に、そのフィクションがまた、ひとつの現実でもあると提示する点です。

現実は、物質的なものである。ただし、現実はまた想像的なものでもある。それはまた別のフィクションでもある。この、ぐにゃっとねじれた世界が現実です。わたしたちは、もうこの事実を理解できます。現実がフィクションでもあるのならば、どこに、「ほんとうの現実」はあるのでしょうか。

フィクションのなかに生きるわたしたちは、それを知ることができません。だからこそ、わたしたちは、その「現実」というものを求めて、生きることになるのです。

巧妙な施設は、(会社、オフィス、病院、学校など)、唯一の現実をでっちあげます。その現実だけが正しいのだとする。その唯一の現実から離れてはならないと、規則と空気を醸成します。

その唯一の現実にはまってしまえば、抜けることはできません。

わたしたちが、唯一の現実というフィクションに惑わされないためには、どうすればいいのでしょうか。覚めた目を持つ必要があります。つねに、複数の現実を見る、またつくりだす、覚めた目を持つこと。

それは、イメージと言葉の問題。わたしたちは、イメージと言葉で複数の現実をつくりだす。それはわたしたちが抵抗する術であり、自由であるための術なのだ。

ここまで、きみが読んできたもの、それはすべて幻想だった。きみはこれから何を読もうとするのだろう。これから何を書こうとするのだろう。きみもまたフィクションを作り出すことができる。別のフィクションの繭で唯一の現実を包んでしまえばいい。

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