怠け者と時間

私は怠け者である。怠け者であるとは、継続して根気強く物事を行えない人間を言う。きみの周りにもそういう人間はいるのではないだろうか。むしろきみ自身が怠け者かもしれない。

ただ人間とは、面白い生き物で、いくら怠けよう、堕落しようとしても、落ちるところまではなかなかたどり着けない。確かにすぐそばには、暗闇の誘いがあるのだが、それでもなかなかその誘いに全面的に乗っかることはない。思考停止だ、なんだと言われてもオフィスに重い体を持っていく。

ポテチを食べて運動もせずだらだらしている人間でも、なぜかふとした瞬間に不摂生をやめて運動を始めたりする。ある一定の期間、続くこともあれば、すぐにやめてしまうこともある。

この「ふとした瞬間」という時間は、神秘的だ。なぜ、私たちにはこの「啓蒙の瞬間」が訪れるのか。いまだ謎に包まれている。魅力的な人間への羨望からか、下に見た人間への忌避からか、どんなきっかけであれ、私たちは、高みへと向かおうとする欲望を備えている。

私には、啓蒙の欲望がある。来たるべき瞬間がある。それを信じていれば、何をしてもいいのではないか。この啓蒙の欲望は、善へと向い、正義へと向かう。

なかなか「努力」ができない、頑張ることができないという時に、なんだか自分を攻める人がいる。だらだらしている自分が悪い、まわりの人はみんな頑張っているのにと、そう思うことで自分を奮い立たせようとする。けど、その方法は、きみもわかっているように、単なる自分を傷つける行為に他ならない。自分自身を大切にできない人間が幸福になれるはずがない。その自分を奮い立たせる自傷行為は、他人を軸にして実行された自分を迫害する行為でしかない。

きみの人生はきみが決める。この平凡な文句によって、きみはもう一度「自分本位」の人生を生きることができる。

自由意志というものを信用しないこと。むしろ自らの欲望をもっと信用すること。そして、理想の欲望を形成することに、時間を割くこと。それが、「ふとした瞬間」が断続的にきみの身に訪れる近道である。

今日からきみは、何もしなくていい。その時間を作ろう。何もしないこと。きみ自身を大切にすること。きみの欲望を信じること。きみの欲望を解放する必要はない。ただきみの欲望を信じること。

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