認知エネルギーと資本とセックス

人間と動物のちがいは、人間は言葉を話す生き物であるという点です。ピエール・ルジャンドルという人は、人間を「言葉を話す動物」と言いました。

言葉とはなんでしょうか。それは、意味の世界をつくりだすことができる記号であり、蜜です。世界に色を与えることができます。

人間の世界には、意味が過剰にあふれています。わたしたちは、意味なしに生きることができません。生きることができない、つまり、お金を稼ぐことができません。

電車に乗れば、広告に書かれてある言葉を見て、わたしたちは、意味を読み取ります。どんな商品にも文字によって値段が記載されてあります。わたしたちは、意味を通して会話をし、お金を稼いでいます。

この意味の王国で、わたしたち、それぞれがうまく意味を操り、コミュニケーションをとり、人を愛し殺め、お金を稼ぎます。

わたしたちは、意味が過剰にあふれている世界に生きていて、意味を受けて、意味を与える、意味のサイクルをつくりあげています。

わたしたちが意味を受け取るとき、わたしたちの体には、何が起きているのでしょうか。わたしたちは無料で意味を受け取ることができません。

詩を読めない人がいるように、意味を受け取るには、通常は、訓練が必要なのです。

ただ、意味の王国では、わたしたちの意味を認知するためのエネルギーをそぎ取るような、システムが組み込まれています。それは、詩を読めなくてもいいようなシステムです。わたしたちはもう意味を読み取るために訓練をしなくてもいいのです。

意味の王国では、わたしたちは、日常の大半をインターネットを通して過ごすようになりました。インターネットには、人の関心を特定のサイトへ強制して向けるような広告やアルゴリズムが設定されています。わたしたちの意味を認知するエネルギーは、ただ生きているだけで、ある一定の圧力がかかっているのです。

わたしたちが、見たいものだけを見ることができる。そんなのは、幻想でしかないのでしょう。わたしたちの認知エネルギーはつねに広告やアルゴリズムによって影響を受けています。わたしたちは、見たいものしか見ることができません。

わたしたちの認知エネルギーには、制限があります。それは有限です。なにもかもを認知することはできません。認知することができる情報は限られています。よくそれは、切り替えができないと言われています。

たとえばnoteを例にとりましょう。noteを見る、書く、それはnoteというフィールドの場を認知することにエネルギーが使われています。すぐに、別の物事へと切り替えることはできません。ちょっと前に書いた記事が気になって読み直してしまいます。

一度、なにか特定のものに認知エネルギーを使ってしまうと、そこから離れることはなかなか難しいです。認知エネルギーを向ける対象を変えることは容易ではありません。

仕事から帰って自宅にいるのに、仕事のことが頭から離れないということがあります。それも認知エネルギーが有限であり、ある一定の強制力を受けていることがわかる話です。

認知エネルギーが残っていないと家に帰ってきても、疲れてきて、スマホを触って寝るだけになるのです。スマホをいじれるだけの認知エネルギーはあり、たとえば勉強するなど、負荷のかかることはできないのです。

人間の認知エネルギーには限界があるのです。わたしたちは、この大切な認知エネルギーを、社会から奪われるのではなく、しっかりと守っていなければなりません。この認知エネルギーを守ってあること、蓄えていることを、わたしは、「認知資本」があると呼びたいと思います。

わたしたちは、認知エネルギーを日々貯めて、消費するための認知資本があります。この認知資本をどう配分して、利用するか。つねにそのことを考えていないとなりません。

わたしたちは、意識を自分だけで、使用することができません。意識は、外の意味によって、ひっぱられ、のびていきます。認知資本は、外の意味に触れるたびに、性質が変わり、増減していきます。それは、一定の通貨ではなく、意味の王国共通の通貨からなっています。

言葉を話す動物であるわたしたちは、この認知資本の取り合いをして生きているのです。

話が少し変わりますが、先日、動物園へ行きました。ヒヒを見るゾーンがあり、とてもおもしろかったです。ヒヒは、つねに、セックスをしています。そのセックスは、数秒程度で終わるものばかりです。挿しては終わり、挿しては終わる。ヒヒにとって、生きるとは、食うか食われるか、セックスをするかしないかです。

認知資本を抱えているわたしたちは、ヒヒのように、「動物的」に、セックスをすることができません。セックスは、これまでわたしたちが認知資本を通して作成してきたポートフォリオを破壊する行為です。本来それはとても危険です。でも、わたしたちが動物になることはありません。わたしたちは、セックスをしながら明日の仕事のことを考えることができます。むしろ考えてしまうのが、わたしたち人間なのです。認知エネルギーは有限で、また無限に広がっています。認知エネルギーは体液にも忍び込んでくるのです。

ヒヒのように生きることを願っても、わたしたちが人間である限り、認知エネルギーをめぐる奪い合いのゲームからは逃れることはできません。

わたしたちがなにに影響を受け、認知エネルギーをどう使用しているかをつねに意識することが、「食われない」ために必要なことです。意味が過剰にあふれるこの王国で、認知資本の増減を意識し、うまくポートフォリオを組み、そのなかで生きていく。認知資本を自分のやり方で変化させ、増やしていく。それは、インターネットのアルゴリズムによって組まれた広告を「メタ的に」認知することで、わたしたちの認知資本を増やすことが可能になります。社会の強制力から逃れるように、認知エネルギーを「自由」に使うことができるようになるのです。

メタ的な認知。それには訓練が必要です。詩の訓練が必要なのです。人間を超えて、また別の動物になること。それは動物への回帰を意味するのではありません。わたしたちはヒヒにはなれません。別の動物になること、それは、意味のアルゴリズムを超えて認知することが可能な動物を意味します。その別の動物は、「別の意味」をつくりだすことができます。

わたしたちはこの意味の王国で、まだまだやることがあります。わたしたちは、空虚であり、また意味でもあります。なにか使命を受けて生まれてくることはありません。でもその無意味のなかで、わたしたちは、わたしたちの意味をつくりだすことができるのです。

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