自由とはなにか

大それたタイトルで始まるこの文章が、どこに向かうのか私にはわからないし、だれにもわからないだろう。ただ、私の実感から得たひとつの考えを文字としてここに残しておきたい。

自由とはなにか。それは、広がる大空の下、日に向かって、めいっぱいに伸びをしている私の身体に、川の水気をともなった空気があたり、そのつかの間の幸福の瞬間を噛みしめることができることを言う。それが自由だ。自由とは、その幸福のつかの間の時間を享受することができる可能性と言ってもいいだろう。

個人は自分自身を幸せにするために生きる。生きている。そのためでなければどうして私たちは生きているのか。

自由とは自分の幸福のためにある。まずはそこから自由と親しくならなければならない。個人の自由があり、幸福があり、そこからまた隣人の幸福があり、とつながっていく。

ある社会、例えば日本語圏の社会では、自由には責任が伴うという考えが主流で、むしろそれ以外にはないという人が大半を占めている。子供の頃から、物心ついた頃には、他人に迷惑をかけないようにしなさいと言われる。この社会では、まずは社会全体の調和が優先され、その次に社会を構成する部品としての個人がその権利を使うことが可能になる。

日本はなんて、きれいな国なんだ。電車には落書きがされていないし、ゴミも落ちていない。電車を待つ人はきちんと列を崩さないでならんでいる。電車内は静かで、電話をしている人がいない。

日本の人は、調和が何よりも好きだ。全体が同じ方向に向いているという「きちんとしている」感じが好きなんだろう。ただそれは、反対に、自由に生きている人の足を引っ張る社会でもある。日本の人にとって、自由とは、ある制限された、それこそ責任伴った、それなのである。

コロナ禍では、日本の感染者数は、欧州のそれよりも幾分もいい。それは、日本人の調和を重視するあまりに他人を監視するようになった社会のおかげだろう。もちろん、文化的側面も感染者数をいくらか抑えることができている要因である。家に帰れば、靴を脱ぎ、手洗いうがいをする。寝る前には、きちんとシャワーを浴びる。マスクをつける習慣がある。欧州の人は、いまあげたことをしない。靴を脱がず、手洗いうがいをせず、素手でパンを掴み食べる。髪の毛は毎日洗わない。この文化的側面に加えて、社会的な意識の違いによって、日本と欧州の感染者数はとんでもなく違うようになった。社会的な意識とは、つまり、自由についての意識である。この2つの文化社会圏では、自由に対する意識があまりにも違いすぎる。

全体の調和を重視する社会と個人の自由を重視する社会。今回のパンデミックでは、個人の自由を重視する社会は、感染症に脆弱であることが露呈した。個人の自由を優先するあまり、公共性が欠けていたのだ。

欧州型の自由に慣れた人間は、公共性を考えることができない。そうなのか?欧州の公共性とまた日本の公共性はまた別なのだ。日本の公共性(自由よりも調和)がたまたま、感染症に強かっただけで、欧州の公共性は、また別の強さを持つ。それはデモの時である。欧州の(ここでは仏国のことだが)政治は、一度、国民の反応を見てから決定するところがある。日本とは大きく異なる部分である。例えば、黄色いベスト運動の際にも、燃料価格がすぐに高騰される前に、あのデモが生じ、結果的に政府が譲歩する流れとなった。この公共性は日本にはないものだろう。公共には、国民だけでなく政府も含まれる。この二者の対話的公共が、仏国には前提としてある。日本にはこういった関係がない。いくらデモがあっても政府側が反対側の声に傾けることはない。この全体を重視する社会は、結局は、全体を重視する意識を持った個人から構成されている。上の決定に歯向かうのはおかしい。デモはしている人間は可笑しい暇人なんだという冷笑的な態度が蔓延している。

2つの自由には、また2つ公共性があることがわかった。どちらの社会が生きやすいかは、また各個人が決めればいいことであり、だれからも強いられることはない。

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