ADHDでもHSPでもないきみへ

きみはなにかと生きづらさを抱えているように見える。

まわりの人が難なく乗り越えているように見える壁が、きみにとっては、とてつもないほどの高さがあるように見える。これまでその壁はいくつもあった。乗り越えたこともあれば、乗り越えることをあきらめて、引き返したこともあった。

うまく事が運ばないとき、きみは、どうして自分だけが、と悲観的になってしまう。また、自分には、なにか欠陥のようなものがある気がして、ネットで、精神的にまわりの人と違うところを探すようになる。

検索するときによくヒットする言葉が、ADHDやHSPだった。

そのヒットしたページで、「症状」を読んでいると、たしかに、そうだなと思うことばかりが書いてある文字がならんでいる。注意力散漫、集中力の欠如、周りの言動を気にしすぎる・・・。

ただね、読んでいるきみは、こうも思ったりする。「なんだか無理にそう症状があると思いこもうとしている」と。たしかに当てはまっているところはあるんだけれど、けど、なんだかすべてがすべて私のことを説明しているわけではないという気もする。

きみはそこで、もうひとりのきみと少し格闘している。ひとりは、なんだか違和感を持ったまま、自分は、ADHDやHSPなんだとレッテルを貼って、自分は先天的に精神面が人と違うからみんなができることをできなくてもいいだと自己安堵したい。もうひとりは、自分に正直になってみれば、「診断テスト」を通して結果がその「症状」があると言われてみても、だからと言ってなにか上手く事が運ばれて行ったり、また生きやすくなるわけではないのだから、自分ができる努力をこれまで通り継続していくしかないよねと思う。

きみは、このふたりのきみで揺れている。どちらかに立場を決めることをしない。ただこのふたりのきみの間で揺れて時間が経つのを待っている。

こんな時、きみは無理に決めない。それでいいと思う。ただ、少し生きづらさを感じながら今日も一日が終わるのを待っている。やることが多くて、あっという間に一日の時間が早く過ぎたと思う日もあれば、なにもする気が置きず退屈で動画をダラダラみて一日の時間をつぶすようにゆっくり過ごす日もある。どんな日でもきみはどこかで、なんだか満たされない感じを抱えて、それがたまには寂しさというか、虚しさになって、きみの身体の心臓あたりを包んでいく。

きみはこうやって生きていく。なにか特効薬のような人生が劇的に変化していくものはない。くすんだ日もあれば、さあっと春の暖かい風がきみの頬をなでてくれる日もある。灰色のコンクリートの建物群や黒色の絡まりあった電線さえもが愛おしい日もある。

悲観は習慣だ、と詩人の岩田宏は言う。

すこし難しいかもしれないけれど、きみのその生きづらい気持ちは習慣によって得られたものなんだと思ってみる。そんなことはないと思っていても、たまにふとこの短い言葉を思い出してみると、今日だけは前向きに生きてみようと思ってみることもある。

そうやってなんどか繰り返していけば、きみの根本にきみ自体を沼に引きずりこもうとするいやな感じの引力があっても、顔を上げて外を歩くことが増えてくる。街や自然がみせる明るさを、きみは思い出したかのようにその光景を胸を踊らせながら見て歩くようになる日も増える。

ADHDでもHSPでもないきみは、ただのなんでもない人なんだ。ただ不器用で、仕事もスムーズに終わらせることはできないし、人間関係の構築もうまくない。だれかと比較しても意味はないことをきみはもう知っている。

ただきみがきみ自身に正直になることがすこしこわいだけ。まわりの人にきみが話をしても共感はしてくれるかもしれないが、きみのことはきみにしか理解できない。

きみはきみというもうひとりのかけがえのない友人を大切にして、ゆっくりと生きづらさを抱えながら、それでも前をむこうとして歩いていく。

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