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タイのインディーレーベルComet Records BKKで活動する日本人アーティストFOURTWOSIXX。映画バカ。

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  • 映画を褒める方のやつ - 但し、個人の見解

    クソ映画を論理的に叩き潰すのではなく、映画を褒める方のやつ。

  • 許すまじクソ映画 - 但し、個人の見解

    「なぜその映画つまらないのか」を論理的、客観的に解説する映画コラム。そういうクソ映画観てしまったことへのただの愚痴でもあるし、個人の見解。あくまでクソ映画を観てしまった時にのみ更新。

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Saltburn

Amazonプライム・ビデオで”Saltburn”を。 郊外の街からオックスフォード大学に入学したオリヴァー。地味でバリバリのナードで友達もド級のナード。が、一方でジョックス入りに憧れるオリヴァーは、ちょっとしたキッカケで貴族階級でバリバリのジョックスであるフェリックスとお近づきに成功。そして夏休みには、フェリックスの豪邸に招かれあれやこれや、というお話。 オリヴァーは、単にキラキラしたジョックスライフに憧れただけでフェリックスに近づいたのか?いや、そういうわけではない。オリヴァーのセクシャリティについては映画を観ていれば明確なのだが、フェリックスはオリヴァーにとって”性の対象”であったことは間違いない。そこには、友情を超越した”愛”があった。 【ここからネタバレ】 では、なぜそんな“愛”を抱いていたフェリックスを殺害し、さらにはその家族まで手にかけたのか、という疑問が残る。それは世間一般的な感性とは真逆の感性だろう。 愛するものへの愛情を表現する言葉に「目に入れても痛くない」や「食べてしまいたいくらい」など対象を自らの身体に取り込んでしまうようなものが見られる。これは、”Cute Aggressive”と言って一定以上の愛情が芽生えた対象に無意識的に攻撃してしまうという行動と関係があるのかもしれない。例えば、小さな子犬などを見るとぎゅっと抱きしめたり、抱き寄せたりしたくなるのもこの”Cute Aggressive”の一種だと考えられているらしい。概ね危害を加えたりするような行動は、幼児の段階でおさまるようだが、稀に大人になってもそういった衝動を抑えられない人もいるそうだ。 オリヴァーもこの”Cute Aggressive”による衝動なのか?そんな単純なものではないだろう。オリヴァーにも少なからず”Cute Aggressive”はあったことは間違いないはずだ。しかし、家族の殺害にまで発展するのかと言えば、そうではない。むしろ、オリヴァーに芽生えていたのは、性的な意味で”フェリックスを自らの身体に取り込みたい”、そしてその異常な愛情はさらに飛躍し”フェリックスを自らに取り込み、フェリックス自身になってしまいたい”という欲=衝動ではないか。 単なる財産目当ての一家殺害ならば話は単純だが、ならばなぜあそこまで露骨に”性の対象としてのフェリックス”を見せつける必要があるのか。オリヴァーのセクシャリティと財産略取の関係性とは?単に異常者としてのオリヴァーを見せたかっただけ?そんな浅はかな映画ではないはずだ。 オリヴァーは、フェリックス自身になる為に手段を選ばなかった。そういうコトだと言えないだろうか。フェリックス自身になる為に邪魔だった近親者を殺害、追放し、最終的にフェリックス自身となり、喜び=快楽を得たコトで裸で舞うのだ (ここでの“Murder on the dance floor”は最高)。 “Saltburn”とは、一種のコスプレ映画だと言いたい。アニメのキャラクターなど愛するものになりたいという欲を外見的に満たすのが、いわゆる”コスプレ”というものだ。誰もが抱く憧れのスターと同じ髪型にしたい、同じアイテムが欲しい、そういう欲もある意味コスプレと同一線上にある欲だろう。そういった愛情や欲望についての異常性が垣間見られるオリヴァーの”フェリックスを取り込みたい→フェリックスになりたい”の成れの果てが、こうした結果になったと考えられないだろうか。オリヴァーは、フェリックスのコスプレをしたかった(但し、異常な度合いで)。全ては、その目的を果たす、欲を満たす為の行動、衝動だったというのが、”Saltburn”ではないだろうか。

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      RUN

      Amazon Prime Videoで配信中(2023年1月現在)の”RUN”。 クロエは、両足の麻痺、糖尿病、ぜんそくを患いホームスクール形式で学びながら大学進学を目指している17歳で、母親ダイアンと二人暮らし。ふとしたきっかけで毎日母親から渡される薬のパッケージを見たことで一体自分が何を飲まされているのか?!という疑念が湧き、調べてみたらかなりやばい事実が発覚し、意を決してダイアンからの逃亡を図るが色々と大変という映画。 この映画は、ジャンルとして”サイコサスペンス”として括られるだろうが、もはや”ホラー”とカテゴライズしもいいだろう。霊的な力も大量の流血も死も描かれはしないが、この映画の恐怖は、”ホラー”にとって最も重要な要素となる「不自由さ」だ。 これまでも「出られない」、「意思疎通が出来ない」といった不自由さの恐怖を解説したが、”RUN”も「出られない」、「コミュニケーションの遮断」といった強烈な不自由さを母・ダイアンがビンビンに投げかけてくる。もちろんこの「不自由さ」の先にあるのは「絶望」だ。観る側は、この主人公・クロエに突きつけられる「絶望」に共感し、ダイアンの狂気と恐怖を体験するのだ。 このタイプの映画を面白くするのは、この「不自由さ」からいかにして解放されるかという点だ。”悪魔のいけにえ”は、まさにRUN=逃走によって解放を試み、”ミッドサマー”においては、解放という選択肢を放棄するという面白さを見せてくれた。”RUN”においては、前述の通りクロエには、両足の麻痺、糖尿病、ぜんそくというこれでもかというほどのハンデを負わせている(まさに三重苦)。しかし、このハンデを最大限に活用し、不自由さからの解放をより困難なものにし、映画をより面白くさせていることは、言うまでもない。走れない(歩けない)、呼吸困難など健常者であれば描かれないハードルは、観る側の心拍数を上げてくるのだ。 そして、クロエは非常にクレバーな人物として描かれており、様々な方法で不自由さからの解放を試みるという点も映画を面白くさせている。特に終盤の体を張った方法は、その一歩先を行くアイデアに感服させられる。それも負わされたハンデゆえに絞り出されるアイデアであり、そのクレバーさについ感情移入してしまう。 これまで「不自由さ」という恐怖について述べてきたが、ラストシーンにおいて「不自由さ」を負わされているのはいったい誰なのか、本当に恐ろしいのはいったい誰なのかというサスペンス的展開も見せてくれる。”RUN”は、もはや絶品ホラー映画と言うべき良作だ。観るべし。

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        2022年振り返り - 褒める方

        2022年公開作品の中から個人的見解として非常に優れた作品だと思われる作品をいくつかざっくりとご紹介。重ねて言うが、あくまで個人的見解です。 1. X (監督: タイ・ウエスト / 主演: ミア・ゴス) すでに褒める方でしっかりとなぜ面白いのかについては、説明済みなので詳細は割愛。一言で言うと「愛の不一致による闘争」。この闘争により巻き起こる流血と爆笑は、2022年ベストシネマに値する。 https://note.com/fourtwosixx/n/n09cd376ba4e0 2. RRR (監督: S.S.ラージャマウリ / 主演: NTR Jr. , ラーム・チャラン) https://www.youtube.com/watch?v=3PuaC0H4Bbc すっかり魅了されたにもかかわらず褒める方に投稿しなかった作品(ただの筆不精)。そのアイデンティティたる"歌って踊って"が性に合わず、敬遠しがちだったインド映画。話題になっているからと渋々劇場に向かった割りに上映開始10秒で「これは名作!」と確信したのが、このRRRだ。 *以下、若干のネタバレあり。 何が素晴らしいのかと一言で言うと「終始どうかしてる」という点だ。人知を超えたビームとラーマの"強さ"(神話からインスパイアされているという点からも十分納得できる"強さ"だ)は、もはや常軌を逸している。そして、その強さが繰り出す"世界一かっこいい肩車"や"世界一っっこいい少年救出シーン"など挙げればキリがないほどずっと「どうかしている」し、それを観ている我々ももはや「どうかしている」のだ。 さらにこの2人のヒーローが展開するスペクタクルは、MCUの遥か先を行っている。まずラーマ登場シーンの"1対めっちゃいっぱい"は、MCUに描かせれば超人的なパワーによって大雑把にまとめて吹っ飛ばして終わりだが、ちゃんと肉弾戦で一人ずつ倒していく(ちゃんとアクションコーディネーターの指導の元、撮影されたという安心感)。また前半のクライマックス、"武器=動物"のシーンでは、虎、熊、豹、そして"鹿"という草食獣を奇想天外なアイデアに加え、その獣たちを「割と手懐けられていない」という一段階上のハードルを用意する極めて高いセンス。それらは、MCUに到底実行できない選択肢である。 そして、劇中歌として最も印象的な"ナートゥ・ナートゥ"も 見逃すことはできない。 https://youtu.be/o-XuZA3WGSI インド音楽固有のメロディとグルーヴ、そして緻密かつ正確なダンス。その中毒性は、もはや「覚醒剤よりも高い」と言っても過言ではないだろう。 正直1時間半そこそこでまとめられそうな内容を3時間にまでこってこてに塗り固める超高カロリーな映画に仕上げたRRRは、2022年最大級のインパクトを与えた作品であることは間違いない。そして上映終了後、劇場内が明るくなった途端、劇場内がざわついた映画は、後にも先にもRRRしかないだろう。 3. トップガン・マーヴェリック (監督: ジョセフ・コシンスキー / 主演: トム・クルーズ) https://youtu.be/hyLAo_MAr0M こちらもすでにその素晴らしさについては、説明済みなので詳細は割愛。一言で言うと「老害大歓喜ムービー」。特に"前作を上回る"完コピオープニングは、映画史に残る傑作アヴァン・タイトルと言ってもいいだろう。 https://note.com/fourtwosixx/n/n138e9d0c8a8d 他にも”ベルファスト”、”西部戦線異常なし”、”Lamb”、”NOPE”、”リコリス・ピザ”、”コーダ・あいのうた”、”ザ・バットマン”、”ユダ・アンド・ブラックメシア”、”ウエスト・サイド・ストーリー”、”ハウス・オブ・グッチ”と枚挙に暇がないが、強いて揚げるなら、この3作品が2022年ベストということになるのかもしれない(但し、個人の見解)。

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          MIKE - マイク・タイソン (Disney+ドラマ)

          今回は、"許すまじクソ映画"ではなく"許すまじクソドラマ"。 Hulu制作、日本では今や天下のDisney+配信のマイク・タイソンの半生を描くドラマ『MIKE - マイク・タイソン』。 マイク・タイソンとは、80年代後半から90年代にかけて一世を風靡したヘビー級ボクサーで、そのキャラクターも含め当時の世界的スーパースターだ。今で言うところのフロイド・メイウェザー.Jrの上位互換といったところか。ボクシングの豪快な試合だけでなく、私生活も良くも悪くも豪快だっただけにその半生をドラマ化したと言われると長年格闘技を観てきた者としては、観ざるを得ない作品だった。つまり、期待はそれなりに大きかったということだ。 しかし、蓋を開けてみれば内容は散々たるものだった。まずその内容の薄さ。現在56歳でマイク・タイソンの超絶濃厚な幼少期から現在までを1話=約30分×8話で描くこと自体に無理がある。 1話ごとにトピックを変え話を進めるが、そうなるとたった30分で数年分の出来事を展開させる必要があり、必然的に各話の内容は浅くなる。しかも、そうやって時間を進めることに重心を置いた為に"第四の壁"を越えるという手段を取ったのも大きな過ちだった。話を進める為に必要な説明が、この壁越えによってなされた為に観る側は早送りでその場面を見せられたかのような感覚に陥り、内容に対する没入感は完全に損なわれてしまう。例えばそれが2時間の映画で数回行われるのであれば問題ないだろが、たった30分で何度も行われるとただストーリーを追っているだけで、あっという間にエンディングを迎えることになる。 さらに壁越え同様に大きな過ちとなったのは、全編を通してマイク・タイソンが、ステージに立ち自分の半生を振り返る講演をしているという設定にしたこと。これが冒頭だけならまだマシだが、この講演シーンが何度も挿入されるのだ。その度にドラマは分断され、観る側はここでも内容に没入することが出来なくなる。ここまで来るともう目も当てられない。 さらに最悪なのは、肝心な試合のシーンだ。スポーツもので最重要と言ってもいいシーン、それは試合、ゲームのシーンだろう。それは、音楽ものにおけるライブのシーン同様、観る側を熱くさせる為の最も重要なファクターだ。同じHulu制作でDisney+配信の『Wu-Tang Clan - American Saga』。これは、ヒップホップグループ、Wu-Tang Clanの結成から成功、その先を描くドラマだが、このドラマの最大の魅力は、ライブシーンとのちに名曲となる数々の楽曲の制作過程をドラマチックに、かつリアリティをもって描いた点だ。しかし、『MIKE - マイク・タイソン』の場合は、どうだ。試合どころか、そこに至る過程は一切描かれることなく、試合はナレーションとKOシーンのみ。もはやダイジェストですらない。これを見せられて誰が一体熱くなるというのだ。同じボクシングものの最高傑作『ロッキー』シリーズで最も熱くなるのは、ロッキーが死に物狂いでトレーニングに励み、リングの上で闘う姿だ。観客が観たいのは、そういうシーンだ。『MIKE - マイク・タイソン』には、そういったシーンは一切出てこない。 挿入されまくる”壁越え”と”講演”、そして最大の欠陥であるオブラートより内容の薄い試合とその前後(その前後はそもそも描かれていない)。これらが、『MIKE - マイク・タイソン』を許すまじクソドラマに仕立て上げた要因と言って間違い無いだろう。これを1話60分×10話の3シーズンで描くならもっとまともな内容になったかもしれないが、1話30前後×8話のリミテッドシリーズで進めた時点でこのドラマの仕上がりは、目に見えていたのかもしれない。許すまじ。

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        • 映画を褒める方のやつ - 但し、個人の見解
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          Lamb

          アイスランドの片田舎で羊飼いとして生活する夫婦。彼らは、過去に幼い子供"アダ"を亡くした辛い経験をしている。ある日、飼っている羊から生まれたのは、他の羊とは異なる"何か"(予告では禁忌=タブーと表現されている)であった。夫婦は、その"何か"を亡くした我が子と同じ"アダ"と名付け、我が子のごとく育て始めるが、何かと不穏な事態が起こり大変、という映画。 この映画は、舞台がアイスランドの片田舎の牧場とその界隈ということもあり、登場する人間が、マリア、イングヴァルの夫婦、そしてイングヴァルの弟のペートゥルの3人のみ(厳密に言うとペートゥルの仲間が一瞬だけ出てはくる)と非常に少ない。それ以外は、たくさんの羊、犬、猫だけだ。つまり、言語を有する登場人物は、3人だけなのでセリフが非常に少ない。特に序盤は、マリアとイングヴァルのみなので、ほぼセリフはないに等しい。セリフが少ない為に観る側は、目の前で起こっていることを読み取り理解することは求められるのだが、それをより鮮明にさせるのは、羊、犬、猫の動物たちの豊かな表情と牧場を取り巻く自然、そして音楽だ。 動物たちは、もちろん人間のように明確に泣いたり笑ったり怒ったりすることはないが、僅かな筋肉の動きによってその表情は様々に変化する。そういった表情や動きの変化により、そのシーンには一体どういうヴァイブスが漂っているのかを観る側は、理解することができる。 例えば、"アダ"の実の親である母羊は、"アダ"を取り戻したいかのごとく度々"アダ"の様子を見に羊舎を抜け出し、マリア、イングヴァルの夫婦の家へやってくる。その時の母羊の表情、特に目はなんとも悲しい目をしている。また"アダ"が、マリアとダンスをするシーンの"アダ"の楽しそうな動きは、誰が観てもそこに多幸感が漂っていると理解するだろう。 "アダ"については、パペット、VFX、人の演技で表現されたとのことだが、これらの動物による表情や動きによる表現は、ヴァルディミール・ヨハンソン監督が、元々ハリウッドの様々な大作において美術、特殊効果、技術部門を担当してきた賜物と言っていいだろう。喜怒哀楽を動物によって表現するという手段は、ヴァルディミール・ヨハンソン監督によって磨き上げられ、この映画の中で何よりも効果的に用いられている。 そして、劇中の自然環境は重要な要素として取り上げられるべきだろう。先にも述べた通り映画は、"アダ"という"何か=禁忌"によって展開するわけだが、"何か=禁忌"と言わざる得ない「不穏さ」が、多くを占めている(かと言って、決して全編においてホラーではなく、コメディ的要素も多々含まれるし、心温まるシーンも多々登場する)。 この多くを占めている「不穏さ」は、全く晴れることのない空(だいたい雨か曇り)や山に囲まれた起伏の激しい地形、さらにアイスランドという地理的条件により引き起こされる「白夜」という夜の来ない特殊な環境によって、より際立たされている。特に白夜については、より効果的に活かされているのではないだろうか。映画において不穏な出来事とは、概ね夜や暗い場所で引き起こされることがセオリーとなっているが、「明るい深夜」というある種の対位法的表現により、Lambにおける「不穏さ」を観る側にさらに強く印象付けている。 音楽もLambにおいては、重要な役割を担っている。音楽を担当したのは、アイスランドの作曲家ソーラリン・グドナソン。OSTを聴いてもらえば分かる通り、終始不穏な内容となっている。 https://open.spotify.com/album/34mQBYF5JSeX2j9YsJg2xh?si=XmmI7XQVRYmyIwndTsbQHw これは、不穏なシーンで音楽が使用されているからだが、セリフの少ない映画において音=音楽の影響力が大きいことは、言うまでもない。あの愛らしい”アダ”の名前を付けられたトラックでさえ、この通りだ。 https://open.spotify.com/track/6iE2yqEd3PDemqd8NTgdFs?si=9e46129fc33641e2 セリフが少ない分、サウンドとして説得力が求められるわけだが、その役割は十分に果たしているだろう。それはきっと”Joker”でオスカーを受賞した姉のヒドゥル・グドナドッティルゆずりの才能かもしれない(ちなみにソーラリン・グドナソン自身も”Joker”のOSTに参加している)。 これからLambを観る人は、特にこれまで挙げた動物、自然、音楽に注目して観てもらえるとより楽しめるのではないだろうか。 映画全体として先にも軽く触れたが、不穏から連想されるようなホラー一辺倒の映画ではなく、歓喜でもあり狂気でもあり、喜劇でもあり悲劇でもある。”ホラー”として売り出されているけれど、決して”ホラー”と断言できるような映画ではなく、もはやジャンル映画としては括れないカオスの世界で展開する何とも表現し難い映画だと言えるだろう。グッズに行列ができるほどの魅力あるキャラクターである”アダ”も含めて、もちろん必見であることは間違いない。

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          X (エックス)

          A24制作の血みどろホラームービー。 1979年、女優のマキシーンと映画プロデューサーのウェイン、こちらも女優のボビー・リンとベトナム還りの俳優ジャクソン、録音係のロレインと映画監督のRJ、映画でいっぱつ当てたろ!と意気込む3組のカップルがポルノ映画の撮影の為に訪れたテキサス(実際のロケ地はニュージーランド)の農場。その農場主のハワードと妻・パール。順調に撮影は進んでいたが、パールとハワード、何かがおかしい!そして、血みどろの恐怖へと発展して大変!という映画。 ぱっと見は、80年代に発展したスプラッター映画と呼ばれる"首が飛ぶ"、"血飛沫が上がる"というホラー映画ではある。しかし、この映画をざっくり表現すると『"愛"の映画』だと言えるだろう。その"愛"についての価値観、倫理観の違いが、血みどろパニックを引き起こすのが、この映画だ。 劇中の"愛"とは『セックス=愛』または『セックス≠愛』であり、この二つの価値観の元、対立が生まれる。前者『セックス=愛』は、パールとハワード(特にパールに強く印象付けられる)にとっての"愛"で、後者『セックス≠愛』は、マキシーンらにとっての"愛"だ。 『セックス=愛』とは、敬虔なキリスト教信者であるパールとハワードの信念であり、それは非常に保守的な宗教的倫理観であり、愛なきセックスを行う者は異端で悪魔であるくらいの考えを持っている。一方で『セックス≠愛』とは、キリスト教社会にとってリベラルな倫理観であり、前者にとっては受け入れがたい考え方だ。実際にマキシーンやボビー・リンは台詞の中で「愛とセックスは別」とはっきりと言っている。 パールとハワードが(もしくは、このテキサスの田舎町全体がそうなのかもしれない)、いかに保守的で敬虔なキリスト教徒かを示唆しているシーンが多々ある。まず、劇中かなりの頻度で登場するのが、テレビから流れ続けるテレビ伝道師の説教だ。パールとハワードの自宅のテレビからは、この説教番組が途中からつけっぱなしになっている。またパールとハワードの自宅の地下室から"とあるもの"が発見されるが、それは明らかにキリストを意識したものだと言える。 そして、保守的キリスト教徒の"愛"に話を戻すとパールは、うっかり(なのか?)ポルノ映画撮影の現場を見てしまい、それで火が着いたのか、パールは化粧をし着飾りハワードに"愛を求める"のだ。しかし、ハワードはとある持病の為、それに応えることが出来ない。拠り所を失ったパールの"愛"を鎮めることが出来ず、その矛先がマキシーンらに向くのだ。まさに"愛"と"憎悪"は、表裏一体というわけだ。 パールは、その宗教的倫理観から愛なきセックスを憎悪するわけだが、マキシーンだけは「特別だ」と考えている。映画のタイトル”X(エックス)”とは、ウェインが度々口にする「マキシーンは、X factor=未知の才能、特別な才能」だと言っていることから、マキシーンのことだと分かる。実際にX factorかどうかは、かなりウェインのフィルターがかかっていると思われるが、パールも同様にマキシーンは何か特別なものを感じ取っていた。そして、かつてダンサーとして活躍することを夢見ていた自らの過去をマキシーンに投影するのだ。しかし、それはマキシーンの”女優としての姿”を目の当たりにし、そこに映る愛に対する倫理観、価値観の不一致をマキシーンの裏切りだと一方的に思い込むことになる。ちなみにマキシーンとパールは、ミア・ゴスが一人二役を演じている(言われるまで全然分からない)。 この拠り所を失った愛や愛の不一致が物語を進展させるトリガーとなり血みどろの展開となるのだが、血みどろ以降は、スプラッター映画につきものの爆笑必至シーンが盛り沢山である。ネタバレを回避する為に具体的には何ともといったところだが、やはりそこも見所の一つだと断言できる。 先に述べた通り劇中テレビ伝道師の説教が、かなりの頻度で登場するのだが、その内容と今目の前で起きている事象がリンクしていることに注目して観ると面白いかもしれない。例えば、とあるミラクルが起こるシーンでは、テレビ伝道師は”奇跡”について語っている。 あとは、これまでの数々のホラー映画へのオマージュシーンを確認するのもシネフィルにとってはグッとくる作業の一つだろう。 愛と憎悪と血みどろと、そして爆笑を生み出すギャグの数々と監督タイ・ウェストのホラー映画”愛”がびんびんに溢れまくったX(エックス)は、2022年ベスト級確定!すでに発表されている次作”パール”も超絶期待!

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          ダーク・タワー

          スティーブン・キングが、30年かけて書き上げた7部作の映画化。 ダークファンタジーを狙ったんだろうけど、見事に陳腐なSFに仕上がってしまっている。アクションは、言うなれば”ジェネリック・マトリックス”といったところか。そして、狙い過ぎた音楽がとにかくダサい。盛り上げるぞー!というペラペラの意図がそのまま音楽となって付け加えられただけに過ぎない。これについては、OSTではなく既存の楽曲で良かったのではないか。無駄にOSTにしたことで余計な叙情性が加えられ、見た目だけでなく、音楽お陳腐な仕上がりになってしまっている。ダサいものにダサいものを付け加えれば目も当てられないものになるのは、当然の結果だ。 結果的に"ドラゴン・タトゥーの女"シリーズ(しかもオリジナル版)の監督ではなく、テリー・ギリアムが監督だったら面白かったかもしれない。SFやファンタジーは、そういったものが得意なある種職人のような作り方が出来る監督がやるべきだろう。天才デヴィッド・リンチですら"Dune - 砂の惑星"で大失態をしでかしてしまったことが、何よりの証拠となるだろう。 とにかくテレパシーを”Shine”と呼ぶところがアレのアレで、そこくらいしか楽しめる要素はなかった。よって、クソ映画認定。

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          トップガン-マーヴェリック

          "トップガン-マーヴェリック"、久しぶりに普段映画館に行かない人も観に行くような大作。 前作から30数年を経て、前作を監督したトニー・スコットの死を経て、まさかの続編。しかもコロナ禍で何度も公開は延期の延期。待ちに待った続編で期待値も高かったに違いない。 いざ蓋を開けてみたらオープニングから前作の完コピ!(イントロダクションの文言からフォントまで完コピ!)しかも、今回は巨匠ハンス・ジマーによるアレンジが加えられたアンセムからケニー・ロギンスのDanger zone。もうここで老害たちは号泣必至だ。 そして、マーヴェリックのパートナーであったグースの息子・ルースターの登場や彼がバーで歌う”Great balls of fire”、前作ではグースの妻 a.k.a. メグ・ライアンの発言にしか登場しなかったペニー・ベンジャミン、出世しまくった”アイスマン”ことヴァル・キルマーの病気をおしての登場、とりあえずビーチに行って裸でスポーツ(今回は、アメフト!そして、誰よりもいい身体のトム・クルーズ)、エンディングはやっぱ夕日バックだよね!(チープトリックのMighty Wingsではなくて、今回はレディ・ガガの書き下ろし)、ラストにトップガンには欠かせない”アレ”が登場する等々、基本的にやってることは前作と同じ!という老害たち歓喜のシーンが数多散りばめられている。、 ネタバレを回避しつつただ一言言えるのは、「トップガンの続編はこうあるべきという理想系を体現した映画!言うことなし!」。これは、まさに"マッドマックス 怒りのデスロード"や"スター・ウォーズ Ep.7"を観た時と同じ感覚だ。 前作に増してほぼマーヴェリック a.k.a. ピート・ミッチェル大佐 a.k.a. トム・クルーズしか出てないのでトム・クルーズが、いかに”映画スター”であるかがよく分かる映画。(何ならミッション・インポッシブルの後は、人類初の宇宙ロケ敢行予定。)さらに"Future is coming. But you are not in it"と言われるような老害たちに夢を与えてくれるのが、還暦目前の”映画スター”であるトム・クルーズなのだ。 上映前に"絶対に死なない男"イーサン・ハントでお馴染みミッション・インポッシブルの次回作の予告が流れるけれど、トップガンにおいても”絶対に死なない男”、トム・クルーズ。それがスターたるゆえん。 そんなトム・クルーズが、「絶対映画館で観て!」と言っていたが、映画館の、しかもスクリーンの大きい劇場で観るべき大作で間違いない。

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          Gully Boy - ガリーボーイ

          ボリウッドもの a.k.a. インド映画は、概ね歌って踊るし、やたら長いという場合が多く、ちょっと敬遠しがちだったので公開から4年経ってインドの”Gully Boy”。 ムンバイのスラム街で家族と暮らす大学生ムラド。ムラドが貧困から抜け出せるように導こうとする両親の思惑とは裏腹に、ムラドは悪い仲間とつるんだり、金持ち医学生のサフィアと付き合ったりと自由に生きることに重きをおくタイプ。ヒップホップが好きで自らリリックを書くけど、人前でラップをする勇気のなかったムラドは、ある日MCシェールのステージを観て感銘を受け、”Gully Boy”としてMCシェール、トラックメイカーのスカイらと共に自分もヒップホップの道を歩むことを決意してあれこれという映画。 あらすじとしては、50セントの”Get Rich Or Die Tryin’”のような”ヒップホップ・サクセスもの”(サクセスにすら至らない”8マイル”は、論外)。が、”Gully Boy”が、他のヒップホップ・サクセスものと一線を画すポイントは、インドという独特な社会、価値観の世界で展開することだ。未だインドの社会の中で通念として残る親、特に父親は絶対という封建的寡婦長制度や完全なる親ガチャ=カースト制度。こういったある立場にとっては、一種”特殊な環境”に暮らすムラドやMCシェール、サフィアたちの物語が、”Gully Boy”なのだ。 ラッパー・Gully Boyとしてヒップホップ的立身出世位を目指すムラドではあるが、実生活においては、父親絶対の家庭で当然のように父親に逆らうことなく暮らし、運転手の息子はどう頑張ったって運転手にしかなれないという社会で生きている自覚を持ち(だからこそGully Boyのリリックは、よりリアリティを持って訴えかけてくる)、また宗教に対しても真面目に寺院に顔を出す一面を持ち合わせている。つまり、ムラドはインドの伝統的価値観から脱却した世界への憧れは持っているものの、その価値観の中でそれなりに上手く立ち回り生きてきたのだ。それは、ムラドにとってのリアルな世界は、ムンバイのスラム街しかなかったからで、そこから脱却する術すら知らなかったからだろう。 またガールフレンドの金持ち医学生サフィアは、インドの伝統衣装であるサリーを身に纏い、親の引いたレールの上を歩むことが正義だと考えるインドの富裕層然としたキャラクターだ。ただし、これは表向きの姿で、彼女もムラド同様インドの伝統的価値観から脱却した世界への憧れは強く持っていることは明白だ(ムラドのガールフレンドだということで、すでにそれは証明されている)。 そんなインドの伝統的価値観の中で生きるムラドやサフィアと対照的な欧米的価値観の中で生きる象徴として位置付けられるのが、トラックメイカーのスカイだ。彼女もムンバイで暮らすインド人ではあるが、アメリカ・ボストンのバークリー音楽院で学んだ経験を持ち、純粋なヒンドゥー語ではなく、かなり英語が混じったをヒンドゥー+英語を話す。もちろんスカイがサリーを身に纏うこともないし、親と同居はしているものの、ペントハウスで実質一人で暮らしている。当然ながらスカイの両親の姿は、劇中目にすることはない。つまり、サフィアとは対照的に”自立した一人の女性”として描かれており、それは、インドの新しい価値観の象徴となっている。 ムラドとスカイが、二つの分断された世界を生きてきたということを象徴しているのは、「音楽が学問なのか?」というムラドのセリフだろう。そして、この二つの分断された世界の中間に位置し、インドの伝統的価値観と外の世界を繋ぎとめる役割を果たすのが、MCシェールだろう。MCシェールは、典型的インド社会の中で中で生きてはいるものの英語を話す外国人の友人がいたり、自立して生活していたりと比較的中立的な存在として描かれている。このMCシェールが、ムラドを(または、サフィアも含めて)新しいインドの価値観へと橋渡しをする重要な役割を果たしているということは、間違いない。 そして、インド映画の代名詞とも言える「みんなで歌って踊って」問題である。これは、インドは国内が過度に他言語化していることにより、全国民が共通言語を持たない為、全国民が理解できるエンターテイメントとして取られた手法だという説もあるらしいが、インド人以外にとってこれは賛否、いや好みが非常に別れるポイントとなる。これがハマる人にはインド映画って最高!となるが、自分も含めてそれ以外の人には、これが大きな壁となりインド映画敬遠しがち問題へと発展する。 もちろん”Gully Boy”もインド国民への「配慮」として「みんなで歌って踊って」は、当然ながら採用している。しかし、そのシーンが採用されるのは、ムラドが新曲を制作するタイミングで、この「みんなで歌って踊って」を新曲のMVとしてしまうというアイデアが、何ともクールなのだ。特に初めてスカイと共作する”Mere Gully Mein”という曲のMVは、曲そのものもさることながらダンスもカット割りもカメラワークも全てが完璧で、”Gully”=路地の埃っぽさや80年代以降ユースカルチャーの象徴の一つでもあるブレイクダンス等々が、かつて”ムトゥ・踊るマハラジャ”で植え付けられたトラウマを払拭してくれるシーンとなっている。インド映画を敬遠しがちな要因であった「みんなで歌って踊って」が、むしろ我々にとってのインド映画の伝統的価値観を上書きする最も重要な要素にしてしまっているという点が、この映画の面白さの一つだ。 "Mere Gully Mein | Gully Boy | Ranveer Singh,Alia Bhatt & Siddhant | DIVINE | Naezy | Zoya Akhtar" https://youtu.be/pGmbUdf6lEM ここまで話してきた様に”Gully Boy”とは、「伝統的インド」と「新しいインド」という二項対立を明確化し、前者から校舎へシフトする映画だと言えるだろう。そして、インドの映画って概ねこういうものでしょ?という観る側の「伝統的」価値観をインドの映画にもこういうスタイルがある「新しい」価値観へシフトさせてくれる。それが、”Gully Boy”なのだ。

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          Freaky - ザ・スイッチ

          とある事件により中身が入れ替わってしまったナードの女子高生と凶悪な殺人鬼。元に戻るには、どうしたら⁈という映画。 監督は、クリストファー・B・ランドン。“ハッピー・デス・デイ”で監督のホラー映画への溢れんばかりの愛情は立証済み。ホラーのセオリー通りにコトを進めることが、決して”ありきたり”にさせないのが、この監督のいいところ。 ソフト面=人格はスイッチするが、ハード面=肉体はスイッチしないので、殺人鬼の人格を持ったナード女子高生は弱いし、ナード女子高生の人格を持った殺人鬼は強いというよく考えたら当たり前のコトを上手くギャグとして利用しているのが、この映画の1番面白いところか。

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          Unforgiven - 許されざる者

          大学生の時に課題で西部劇をまとめて5本だか10本だか観なきゃいけなくて観てはみたけど、どれも「悪いやつが悪の限りを尽くして大変なことになり、凄腕のガンマンがピストルを打っ放してそいつを殺めて制裁して終わり」という展開だから、全部同じじゃないか!と思ってから自分の意思で西部劇を観ることはなくなり十数年。タランティーノのマカロニ・ウェスタン作品を観たり、Red Dead Redemptionをやってる内に西部劇に抵抗がなくなってきたので、まず”夕陽のガンマン”を観て、追って”許されざる者”。 . “夕陽のガンマン”は、ざっくり言うと若い賞金稼ぎ(クリント・イーストウッド)とベテラン賞金稼ぎが手を組んで悪党をぶっ殺して大金を手にするというお話。それから30年を経た”許されざる者”は、高額賞金首を追って若い賞金稼ぎとかつて名を馳せ引退した老いた元賞金稼ぎ(クリント・イーストウッド)が手を組んで、悪党をぶっ殺して大金を手にするというお話。 つまり、概ね同じ!いや、むしろ西部劇は、こうあるべき!むしろこんだけ同じなら”夕陽のガンマン”の若い賞金稼ぎの老いた姿が、”許されざる者”の元賞金稼ぎでは⁈と考えると余計にワクワクする。実際にクリント・イーストウッドは、かつて演じた”ダーティー・ハリー”(←名作)のキャラハンの後の姿を”グラン・トリノ”(←名作)で演じたウォルトに重ね合わせたりしてるし、あながちこの読みも間違いないかも。(許されざる者評は読んでないので、間違ってるかもしれないけどw) ちなみにクリント・イーストウッドは、西部劇ではないけど監督をした2014年の”アメリカン・スナイパー”でもスナイパーvsスナイパーをやり、アメリカ最高!をやっていて、クリント・イーストウッドにとってのアメリカ人としてのアイデンティティは、西部劇なんだな、と。 あとRed Dead Redemptionは、悪党側の視点で西部劇のセオリーから逸脱しているので面白い。

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          Upgrade

          夫婦でギャングに襲撃され妻を失い、自分は肢体不能になったグレイの身体に”ステム”というAIを組み込み不能になった身体機能を補い、それどころか人間離れしたパワーを手に入れ妻殺しの復讐に出る、というお話。 何を”アップグレード”するかっていうとズバリ”身体”っていうものすごく分かりやすいタイトル。アップグレードされた身体が出てくる映画は過去にもたくさんあって、例えばロボコップが、その分野でよく知られた映画だと思うけど、ロボコップのマーフィーとの決定的な違いは、身体はステムの意思に大きく左右されるという点。時に制御不能に陥るくらいステムに委ねられる部分が大きい。それによる葛藤ももちろん描かれている一方で、ステムに委ねることでグレイの目的が一つずつクリアされていく過程は、観る側にとって超痛快だし「いいぞ!ステム!もっとやれ!」と叫びたくなる場面も。 途中とある理由で訪ねるハッカーの周りには、現実より痛みが少ない=幸福度が高いという理由でVR空間に依存する人がたくさんいるんだけど、身体をアップグレードする世界なのに、人間にとっての理想郷は身体を放棄したVR空間にあるという”ねじれ”もこの映画の面白いところか。 とにかくサイバーパンク、バイオレン、アクション、ノワール、僕の好きな物が全部詰まったやばい映画でした。

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          The Green Inferno

          監督は、”ホステル”などでお馴染みイーライ・ロス。 軽い気持ちで過激派環境保護団体に入った女子大生ジャスティン。ペルーの密林奥地で進む違法な土地開発に抗議する為、現地に赴き抗議活動をSNSで配信。世論を動かす一大事としてマスメディアに取り上げられ、一連の行動は成功したけど、帰りの飛行機が密林で墜落。墜落した場所は、なんと食人族の集落のすぐそば。次々と仲間が調理されて大変、という映画。 元々は、”ソーシャルジャスティスウォリアー=ネット上で浅い正義感を振りかざし、やたらに抗議する輩”なんて酷い目に遭えばいい、という発想から生まれたというこの映画。劇中冒頭にも「抗議してるフリさえ出来ればいい」という台詞があるように、昨今たった5分前にSNSのタイムラインで知ったような事柄について、大した考えも持たず自分の物差しだけで怒り、抗議したり、お手軽に偽善的な”いいね”やリツイートで行動した気になっている輩は多々いるわけだけど、ここに出てくる自称環境保護団体は、まさにそれ(いや、まだ実際に行動してるだけマシか)。なので、別にイデオロギーなんて持ち合わせてない彼ら(途中、それが露わになる台詞もある)が、とにかく密林で酷い目に遭っても、”日頃の行いが悪い”としか思えないのが、この映画の面白いところ。 密林奥地で食人の習慣がある民族に襲われる、といえば、やはりルッジェロ・デオダート監督の”食人族”が有名だけど、やはりこの映画も食人族へのオマージュが、たっぷりと盛り込まれていて、そもそもタイトルの”グリーン・インフェルノ”自体、食人族に出てくる地名だし、あの有名な”串刺し”も今回は、たっぷり特別に5種盛りで(もうちょっとあったかな?)! 食人族に襲われて食われると言っても、ただただグロテスクなだけの映画ではなく、しっかり笑いのツボを心得ているのは、監督が一流たる所以。特に後半辺り、とある方法で食人族を欺いて逃げようとするシーンがあって、そのとある方法が見事成功するシーンが、もう大爆笑。うわー!成功してるー!これはやばい!と手を叩いて笑えるくらい (詳細は、本編をご覧ください)。 結論として、大した考えも持たず薄い浅い正義を振りかざしてクソリプ飛ばしたり、何か行動したつもりになったりしてSNS上だけで暴れてるやつにロクなやつはいないし、そんなやつにまともな未来はない、という映画でした。

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          The Old Guard

          普段は身を潜めて生きる”なぜか死なない”という特殊能力を持つアンディ(=シャーリーズ・セロン)、ブッカー、ジョー、ニッキーが、元CIA工作員コプリーの罠にかかり、”死なない”理由を解明し利益をむさぼろうとする組織に狙われて大変、という映画。 「特殊能力を持つ人達が、ある組織から狙われ攻撃される」で思い浮かぶのは、DCコミックス原作の”ウォッチメン”。”ウォッチメン”も個々それぞれ特殊能力を持つスーパーヒーロー達が、その存在が邪魔になった組織から命を狙われるという映画。 かつ、”ウォッチメン”のスーパーヒーローたちは、実はあらゆる歴史的な出来事(ケネディ暗殺やベトナム戦争など)に裏で関わって、世界を動かしていましたという説明がタイトルバックになっていて、これが超震えるんだけど、オールド・ガードの死なない4人も実は、ありとあらゆる歴史的出来事(十字軍遠征からクリミア戦争、太平洋戦争、キューバ危機など)に関わっていて、歴史を決定付けていたという設定まで、まさに”ウォッチメン”と同じ。(この辺の類似性は、脚本家のグレッグ・ルッカ自身が、DCの作品をたくさん手がけているという影響があるに違いない) ただオールド・ガードについては、特殊能力が”死なない”と”老いない”(まだもう一つあるけど詳細は本編を)っていうことだけで、それ以外の強いとかそういうのは、後天的に取得している点や見た目は普通の人間という点は、スーパーヒーローというよりかなり人間味があるキャラクター設定になっている。マーベルのようにファンタジー要素の強い”ヒーローもの”(個人的にこれがすごい苦手)より、この”人間らしさ”によって、より親近感を持って死なない彼らと向き合えるというのが、オールド・ガードの魅力かと。 あとやっぱりシャーリーズ・セロンのアクションは、見どころ。食事しながら観てるとそのアクションの迫力に箸が止まるくらい。アクションのスピード感とキレに伴って、映画自体の展開も早いので2時間あっという間。 細かい話を始めるとキリがないけど、”ヒーローもの”というジャンル映画にカテゴライズされはするけど、特殊能力(この特殊能力についても、他のヒーローとは違う”ある性質”があり、それもさらに人間らしさを感じさせる)は持ってはいるけど人間味があるというのが、他のどのヒーローより魅力的に映るというのが、この映画の面白さ。

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          THE TOMORROW WAR

          時空を超えて突然やって来た未来人から「未来では宇宙人が超暴れてて人類が滅亡の危機なのでヘルプよろしく」と言われた現代人。徴兵され時空を行き来する転送機で未来に送られて戦わされ色々と大変という映画。 この映画を一言で表すならば「超マッチョな映画」。エクスペンダブルズよろしく主演のクリス・プラットは、いろんな意味でとにかくマッチョ。 まずクリス・プラット演じるダンは、十数年前にイラクに従軍していた過去があるという設定ではあるものの高校の生物教師にそんなに筋肉必要か?と思うくらいマッチョ。 そして、マッチョ映画の特徴として挙げられるのは、”とにかく話が早い”という点。マッチョとは、考えるより先に筋肉で物事を解決するのだ! ダンが徴兵されてから出兵するまでの期間の短さは驚異的。端っから「訓練などは予定していない!」と言い切るくらい早い。なぜならそれは、マッチョだからだ。そして、一切訓練も受けていない一般人たちは、突然隊長になってしまうダン(なぜならそれは、マッチョだからだ)の下、突然始まる戦闘に適応し、任務を遂行出来てしまう。その理由はただ一つ。ダンが、マッチョだからだ。 そして映画後半、とある方法で宇宙人を全滅させる為の作戦が立てられるのだけど、その作戦立案から実行まで、とにかく話が早い。人類が30年かけて解けなかった謎は2秒で解き、ぶち当たった壁は3秒で超えてしまう話の早さ。これがまさにマッチョ映画の真髄。 そして、何よりマッチョ映画に必要なものと言えば、そう”筋肉”。最終的な局面で力を発揮するのは、銃火器でもなく、科学でもない。それは”筋肉”なのだ。 危機を前にダンが手にする斧。そして、体当たり。これぞまさにマッチョたる者の役目。筋肉 is justice。All you need is 筋肉。これぞ歩く大胸筋ことクリス・プラットが主演をつとめる映画そのもの。 これからこの映画を観る人は、クリス・プラット演じるダンが、いかにマッチョであり、筋肉は素晴らしいかをよく噛み締めて観てほしい。アレな人でも分かるくらい分かりやすいカタチで地球温暖化をテーマにしているように見せかけているけど、この映画のテーマは、間違いなく”筋肉”なのです。

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          とある一家がバカンスで訪れたビーチリゾート。ホテルのスタッフに勧められるがままに普段は立ち入り禁止になっているプライベートビーチに行くと、そこは急激に歳をとる恐怖のビーチで大変という映画。 ホラーサスペンスの”シックス・センス”でお馴染みのシャマラン監督らしく今回もホラーでありサスペンスでもある。 ホラー面については、あの人があーなってこーなるというビジュアル的ホラー(その最たるシーンについては、もはや笑いも生まれるというのもホラーとしての醍醐味か)と、この前”マッドハウス”評でも触れた精神的ホラー、つまり「出られない」という「不自由」から生まれる絶望感に加えて、時間を扱った映画らしく「期限がある」というスリリングさの両方が(どちらかと言うと後者の比重が大きい)散りばめられた作品に仕上がっている。 一方でサスペンス面については、そんなクレイジーなビーチとは一体なんなのか、どうやったら出られるのかという謎解きがメインになってくる。これについては、そこに至るまでにスーパー分かりやすい伏線がビンビンに出てきちゃっているという点において、やや見劣りしてしまうかも(シネフィルなら序盤で大体分かってしまう)。 とは言え、ホラー面についてのショッキングさ、絶望感とスリリングさは観ていて飽きないし、それどころか引き込まれていかざるを得ない。さらに主人公の一家を通して描かれる家族像は、涙無しには観ることは出来ないかも。(みんな加速度的に歳をとるので、それも加速度的に展開したカタチで描かれる)。 あと歳をとる演出について、子供はキャストが入れ替わればいいけど、大人はシワが増えたり見た目に徐々に歳をとるわけで、それに連れて声のトーンやスピードを少しずつ落としていく演技は脱帽。さらに大人の老化をカメラや音響で効果的に表現することで、1発で「老いた!やばい!」と理解させる技法は見もの。 当面ビーチには行きたくなくなるくらいのこの地獄のビーチを訪れるのはアリだと思います。