X (エックス)

A24制作の血みどろホラームービー。

1979年、女優のマキシーンと映画プロデューサーのウェイン、こちらも女優のボビー・リンとベトナム還りの俳優ジャクソン、録音係のロレインと映画監督のRJ、映画でいっぱつ当てたろ!と意気込む3組のカップルがポルノ映画の撮影の為に訪れたテキサス(実際のロケ地はニュージーランド)の農場。その農場主のハワードと妻・パール。順調に撮影は進んでいたが、パールとハワード、何かがおかしい!そして、血みどろの恐怖へと発展して大変!という映画。

ぱっと見は、80年代に発展したスプラッター映画と呼ばれる"首が飛ぶ"、"血飛沫が上がる"というホラー映画ではある。しかし、この映画をざっくり表現すると『"愛"の映画』だと言えるだろう。その"愛"についての価値観、倫理観の違いが、血みどろパニックを引き起こすのが、この映画だ。

劇中の"愛"とは『セックス=愛』または『セックス≠愛』であり、この二つの価値観の元、対立が生まれる。前者『セックス=愛』は、パールとハワード(特にパールに強く印象付けられる)にとっての"愛"で、後者『セックス≠愛』は、マキシーンらにとっての"愛"だ。

『セックス=愛』とは、敬虔なキリスト教信者であるパールとハワードの信念であり、それは非常に保守的な宗教的倫理観であり、愛なきセックスを行う者は異端で悪魔であるくらいの考えを持っている。一方で『セックス≠愛』とは、キリスト教社会にとってリベラルな倫理観であり、前者にとっては受け入れがたい考え方だ。実際にマキシーンやボビー・リンは台詞の中で「愛とセックスは別」とはっきりと言っている。

パールとハワードが(もしくは、このテキサスの田舎町全体がそうなのかもしれない)、いかに保守的で敬虔なキリスト教徒かを示唆しているシーンが多々ある。まず、劇中かなりの頻度で登場するのが、テレビから流れ続けるテレビ伝道師の説教だ。パールとハワードの自宅のテレビからは、この説教番組が途中からつけっぱなしになっている。またパールとハワードの自宅の地下室から"とあるもの"が発見されるが、それは明らかにキリストを意識したものだと言える。

そして、保守的キリスト教徒の"愛"に話を戻すとパールは、うっかり(なのか?)ポルノ映画撮影の現場を見てしまい、それで火が着いたのか、パールは化粧をし着飾りハワードに"愛を求める"のだ。しかし、ハワードはとある持病の為、それに応えることが出来ない。拠り所を失ったパールの"愛"を鎮めることが出来ず、その矛先がマキシーンらに向くのだ。まさに"愛"と"憎悪"は、表裏一体というわけだ。

パールは、その宗教的倫理観から愛なきセックスを憎悪するわけだが、マキシーンだけは「特別だ」と考えている。映画のタイトル”X(エックス)”とは、ウェインが度々口にする「マキシーンは、X factor=未知の才能、特別な才能」だと言っていることから、マキシーンのことだと分かる。実際にX factorかどうかは、かなりウェインのフィルターがかかっていると思われるが、パールも同様にマキシーンは何か特別なものを感じ取っていた。そして、かつてダンサーとして活躍することを夢見ていた自らの過去をマキシーンに投影するのだ。しかし、それはマキシーンの”女優としての姿”を目の当たりにし、そこに映る愛に対する倫理観、価値観の不一致をマキシーンの裏切りだと一方的に思い込むことになる。ちなみにマキシーンとパールは、ミア・ゴスが一人二役を演じている(言われるまで全然分からない)。

この拠り所を失った愛や愛の不一致が物語を進展させるトリガーとなり血みどろの展開となるのだが、血みどろ以降は、スプラッター映画につきものの爆笑必至シーンが盛り沢山である。ネタバレを回避する為に具体的には何ともといったところだが、やはりそこも見所の一つだと断言できる。

先に述べた通り劇中テレビ伝道師の説教が、かなりの頻度で登場するのだが、その内容と今目の前で起きている事象がリンクしていることに注目して観ると面白いかもしれない。例えば、とあるミラクルが起こるシーンでは、テレビ伝道師は”奇跡”について語っている。

あとは、これまでの数々のホラー映画へのオマージュシーンを確認するのもシネフィルにとってはグッとくる作業の一つだろう。

愛と憎悪と血みどろと、そして爆笑を生み出すギャグの数々と監督タイ・ウェストのホラー映画”愛”がびんびんに溢れまくったX(エックス)は、2022年ベスト級確定!すでに発表されている次作”パール”も超絶期待!

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