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女性が持つ「無価値感」は何処から来たのか?

~今現在、「自分には価値が無い」と感じている女性の皆さんへ向けて~

もしもその「自分には価値が無い」という意識が意図的に植え付けられたものだとしたらどうでしょう?

私も過去には同じように「何も出来ないワタシには価値が無い」。そう思っていました。

自分の価値を証明するためにやってきたことは多岐に渡ります。何かが出来る自分を目指して、目に見えるカタチで何かを得ようとしてきました。

それなのに、何を学んでも何を得ても埋まらない心。「何かが違う」と気付き「自分を愛する方法」を知ってからは、幸せになりたい一心で、外側に向けていた意識を自分に戻すことをコツコツ続けてきました。

そうして「自分を大切にすること」を継続する中で現れた意識の変化。それは、

「何も出来なくても、ワタシには価値がある」

心からそう思えるようになったことでした。

ですが私が過去に世界を見渡して感じてきたのは、「いのち」そのものの価値が尊重されているとは思えないことばかり。

私は社会の同調する意識に対して「本当にそうなのか?」という疑問を持ち、自分で学びに行き、そして知りました。

特に女性が自らの「いのち」を尊重出来なくなってしまったのは、歴史的な背景からの影響が強いのだということを。

『月経は穢れていて生殖は恥ずかしいこと。』
『女性は良妻賢母が良く母性を持つのが本能だ。』

これらの意識は全て政治的利用の為に社会が作り上げたことでした。

根拠となる論文についてもまた改めて取り上げ、考察していくとして。

「生理」も「出産」も病気ではありません。

以前も書きましたが、「生理」も「出産」もそれにまつわる女性の心と身体のサイクルも、ごくごく自然な営み。

しかし衛生学では「生理」を「異常」とし、女性は学問や労働に耐えられない劣った存在だとみなし、女性そのものを劣位に位置付ける女性教育がなされてきたという過去があります。
それらは女性自身に、自らの身体を劣等のものとみなす意識を植え付けました。

社会が作り上げた「母性神話」

更に、近代日本において「母性」は、富国強兵策という国策の一つとして近代家族を管理するための社会的観念として女性に割り当てられたにすぎないものでした。

要は戦時中の政治的戦略の為に、社会全体で「良妻賢母」=(ものを考えず、自覚や自主性を持たず、自己を主張しない女性)を良しとして、「女は子を産み育てないと価値が無い」という意識を植え付けたんですね。

「生理は穢れ」「生殖は恥ずかしいもの」「月経の生理的循環の影響を受ける女性の身体は劣っている」「女は母性(お母さん)が本能(そうでないと価値が無い)」「女は子供を持たないと価値が無い」。

私たち女性はそんな風にずっと「そのままのワタシに価値は無い」と、洗脳されてきたのでした。

そりゃあ、私がそう思ってしまっても仕方ない!!

私たち女性にある時期から代々受け継がれてきた意識は、真実ではなく意図的に作られたものでした。

私は「男女平等」をうたう現代の社会でも、未だにそれが根っこに残っているように思えてなりません。

私が何かを目指し、何かを得ようとしていた頃も「何も出来ないワタシには価値が無い」「そのままのワタシでは劣っている」という意識からでした。

得体の知れない無価値感に苛まれ、何をするにも自信が持てない。
心が折れやすく、何かマイナスなことがあればすぐに「自分には生きてる価値が無い」「死んだら楽なのかな」と頭に過ります。
自分の「いのち」を否定して生きることはこんなにも苦しいのかと、その時期に学んだのでした。

けれど全て幻想だったと気が付いた時から、私は変わることが出来ました。
少なくとも私はその経緯を知ることや、私自身が自分を劣った存在として扱わないようにしたことで、変化が現れるまでに時間はかかりませんでした。

それどころか、見える世界は今でも顕著に変わってきています。

「自分を大切にしよう」と決めてから、いちばん身近である「生理」について学び、自分の為に「心地よい生理期間」を過ごさせてあげることから始めました。

それをきっかけに芋づる式に知識や気付きを得て、真実が見えてきたのです。
そして今では「いのち」を慈しみ愉しめるようになりました。そんなマイナスだった全てがプラスに変わった私の意識の変化をお話させてください。

「生理」は楽しい♩

それまでは「厄介なもの」「鬱陶しいもの」という認識から、「楽しいもの」とまで思うようになりました。
実際に布ナプキンに変えてから、あっという間に楽になっていく自分の身体の変化に驚きを隠せませんでした。今では生理痛も皆無。
可愛い布ナプキンを楽しむことが出来たり、リラックスして自分を慈しめるデトックス期間に充てています。
それから経血を自分で洗うことで内側で起きている身体の神秘に感謝が溢れ、ますます自分を愛しく感じることが出来るように。

それに最近はオーガニックコットンの使い捨てナプキンがドラッグストアでも手に入ったり、月経カップやナプキン一体型ショーツなど、一般にも生理を快適に過ごせるアイテムの選択肢は拡がりを見せています。

「性へのタブー意識」からの脱却

私は過去の学びの中で、「性へのタブー意識」すらも歴史的に刷り込まれてきたことだったと知りました。
私たち全ての人間は、「性交」から誕生しているのは言わずもがな。
それにも関わらず「性交」をタブー視して「いやらしいもの、汚らわしいもの、恥ずかしいもの」とする意識は、私たちの「いのち」そのものに対して否定的な感情を芽生えさせる元凶に思えてならないのは私だけでしょうか。

私は「いのちを大切に扱う」という論点からの「性教育」が為されるべきで、現代に至ってもそれを施さないことがいじめや自殺へと繋がっている可能性も否めないのではないかと考えています。

というのも実は私も18歳の時に、手首を切って自殺を図ったことがありました。
きっかけは今思うと些細なことでしたが、何だかその出来事によって自分の全てを否定されたように感じたのです。
「いのち(自分)の価値」というのは、考えるまでもなくぶれないもの。そんな認識が根っこにあれば、人は何があっても前向きに自分の人生を切り開き強く生きていけるように思います。

そして私は今、自らの体験を通して様々な角度で「いのち」を伝えることをライフワークとしています。

女性は「いのちのリズム」を感じられる尊い存在である。

そもそもその昔、女性の月の廻りは生命を司どる神聖なものとしてリスペクトをもって受け止められていました。
女性が敏感なのは、なにも月経の生理的循環にだけではありません。香りに敏感だったり、「女の感は鋭い」なんて言われるくらい嘘を見抜く力にも優れている。
女性の感受性の高さは周知の事実では無いでしょうか。
私はそれらは全て繋がっていることで、女性が自らの変動に敏感な感覚は、即ち「自然を感じる力」であり、「いのちを感じられる優れた力」であると思うのです。
「幸せを感じられる力」と言い換えても良いかもしれません。
そして実はそれこそが女性の本来のパワーだとも感じています。
それを「病気」だとか「異常」だと教えられ、女性自らも男性化社会の中で「鬱陶しいもの」「不利なもの」と思うようになっていきました。

そうして女性たち自身で「感じる力」を閉ざしてしまうのは、とても勿体ないこと。それどころか、女性がいのちそのものを見失ってしまう原因なのではないかとさえ思います。

私はこれからも自分の感覚に従い、そこで「見えてきた世界」を表現していくことが自分が成すべき使命だとも感じているのです。

「母性神話」の呪縛から逃れる
母性神話」とは?
母親は自分のことはさておき、子どもに尽くすことが母親の愛(母性愛)であり、女性にはそんな「母性本能」が備わっているという言説。

因みに「3歳児神話」というのもあります。
3歳までは母のもとで育てるのが一番という考え方。科学的な根拠は全く無い。

私が経験して思うに、母性は元々備わっているというより、子供との関わりの中で育まれるもの。
そもそも母親が自分のいのちを蔑ろにしている状態で感じられるものでは無いと思います。
むしろそんな「母は子供を愛するのが当然だ」という概念に苦しめられているお母さんが育児不安に陥っていると言います。

だから私は、「子供よりまずはお母さん優先」で良いと思うのです。お母さんが自己犠牲に走れば走る程、母子共に不健全な状態になっていくのが安易に想像が出来るから。

私も子供は確かに愛しいです。けど自分のことも大切なので、常に自分にとってベストな「折り合い」を考えるようにしています。
まだまだ試行錯誤ですし、それは都度考えていく必要がありますが、上手くいった時は「私もハッピーで娘もご機嫌」が叶えられます♩

ワタシはワタシの人生を生きる。

女性はなにも「出産」をしなくても、出産に値するもしくはそれ以上のクリエイティビティーを秘めている存在であるという確信を感じるようにもなりました。
実際に自分自身からアイデアが絶え間なく溢れてくることもそうですし、私の周りの素敵な女神たちを見てもそう思わざるを得ません。

過去には女性が「女は良妻賢母が良く、子を産み育てなければ妻や母としての地位も築けない」という社会全体に刷り込まれてきた意識に支配され、型にはめられた「女の幸せ」(おそらくおじさんが言い出した)という言葉が台頭しました。
今もその時の洗脳が色濃く残っていることから、女性はまだまだ妻や母という役割に封じられている場面が多いように思います。

しかし私は妻であっても母であっても、女性だって大いにやりたいことをやるのが本来だと思うのです。
家庭によっては女性が稼いで旦那さんが主夫をやったって良い。

そもそもひとりひとりの幸せなんて千差万別で型なんてありません。
女性の方から自由に生きることを始められます。私は自分の人生を選択しない言い訳に、無価値感や役割を使わないで欲しいと思うのです。

そう、今回は歴史的な背景から「女性が無価値感を持つひとつの理由」を述べてきましたが、最もお伝えしたいのは、それを「自分を生きない理由」にしないで欲しいということ。

無価値が問題だと思う意識から必死に価値を見い出そうとする。

これまで分かりやすいように価値が無いとかあるとかいう書き方をしてきましたが、本当のことを言うと今の私はそんなことはどうでも良いとすら思っています。

無価値で良いじゃん。

一周して「いのちはいのち」なのだという感覚を得たら、そうも感じるようになったから。
そうすると出来ない自分も持ってない自分も、何も問題では無くなったんですね。

自分に価値を見出だすことに一生懸命になること自体が的外れだった。

何をしても何を持ってもどうせ私なのだから、やりたいことを全部やろう!持つということにもチャレンジしてみよう!と思えるように。

それからいちいちマイナスな出来事や自分の失敗を「自分の価値」に結びつけることが無くなっていることに気付きます。

「無価値感」を持っているのは、全てがあなたのせいではありません。

そう思っても仕方がなかったんです。そんな歴史だって、広い視点から見つめれば必要な出来事だったのかもしれません。
だから自分を無価値だと思う自分の気持ちすら、まずは認めてあげましょう。

何を隠そう私もそれが自分の内側を向く第一歩でした。そうすると段々それが何か問題あるのかな?(やりたいことをやらない理由にはならない)と思うようになって、外側の価値観より内側の価値観に耳を傾ける癖が付きました。

小手先で人生を思い通りに動かそうとすることより、もっと大事なこと。
まずは「何にも出来ない(ように思える)自分」「何にも持たない(ように思える)自分」を、マルにすることから。
それは「外側に比べて優れている自分」を探すのではなくて、「自分のいのち」をただ内側からフラットに見つめ感じること。

それが人が「いのちを輝かせて生きる」、本当のスタートでは無いのかと思うのです。

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