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見殺しにはできない (短編)

 《I can't let you die like this》

 
 葉書のうらの小さな地図でたどり着いたのは、まさかこんなところにギャラリーが、というような場末の通りだった。飲み屋の並びにある古いビルの、裏階段から二階に上がった部屋を、もうすぐ閉廊という時間をねらって灯は訪れた。細い路地の直線のような空に月がかかっていて、もうすこしで満ちそうな晩だった。

 灯の姿をみて、ひとりパイプ椅子に腰かけていた彼女は、飛び上がるように驚いた。そこまでは想定内だった。けれど銀色に染めた髪を垂らした彼女が、すこし老けた精巧なビスクドールのような顔に、満面の笑顔を浮かべて、偽物の睫毛をまたたかせながら、灯に抱きつこうとしてきたのには驚いてしまった。

 「うそ! ほんとに来てくれたんだ! ありがとう!」

 抱きしめ返すだけの勇気がなかった灯は、すこし身をそらしながら、それでも彼女の手をとって包んだ。昔から変わらない、なんだか栄養状態の悪そうな、けれどもネイルの完璧に施された偽りの透ける手だった。

 「元気にしてる?」

 そう言いながら、灯は哀しかった。愛おしい、と言ってもよかった。わたしはこのひとが、いつだって哀れでならない。それがなぜなのかはわからないけれど。

 「幸せにしてるよ。今の彼はすっごくやさしいの。この展示も彼がいなかったら出来なかった。今度紹介しよっか?」
 「......いえ、結構よ。お幸せにね」

 そう言って灯は、彼女の作品に目を移した。統一感のない、まとめあげようという気さえ感じられない、極彩色の写真たちが、汚いコンクリートの壁を飾っていた。けれどそれはそれで力があって、乱雑を通り越したどこかに美しさがあった。

 「そうね、なんだか落ち着いてきたみたい。暴力的なものがなくなってる」
 「そうかな、すこし成長したのかもしれない」
 「ええ、安心した。もう自らを破壊すればいいって年齢じゃないもの。千花さんだって」

 そう言って灯は、フラッシュの焚きすぎで白飛びした男の裸体から目を反らした。これがあたらしい彼氏というひとだろうか。慌てて目を移した先には、濃いくれない色をした、はかない芙蓉の写真があった。

 「これなんかとても好き、このフヨウの花。千花さんの撮る花の写真、わたしはいつも好きだった」

 そう言いながら耐え切れなくなった灯は、狭い部屋の入り口に、ふにゃりとした姿勢で立っている千花を振り向いた。

 「......聞かないの?」
 「なにを?」

 あっけらかんとして、千花が言う。

 「あなたの娘のこと、知りたくはない?」
 「......ちゃんと生きてるんでしょ?」

 粉黛にまみれた千花の顔に浮かぶのが、無関心なのか不安なのかさえわからなかった。

 「元気にしてるわ。あなたによく似て、すごい美少女よ。性格は父親似で、繊細で慎重な子だけれど」

 ふうん、と千花が言う。彼女を揺さぶりたい、と思うのは、たぶん幼い頃の自分を重ねてしまっているからだ。

 時計が七時を打って、千花は店じまいを始めた。そんな彼女の腕を無理やりひっぱって、灯は地下鉄の駅の隣にあったファミレスに連れ込んだ。

 「ちゃんと食べてる?」

 あい変わらず不健康にかぼそい千花を見ながら、クスリの噂はほんとうかしら、と灯は闇を覗き込んだような気持ちになる。

 「なんでも食べて。あなたに払わせるはずないじゃない」

 そう言われて、昔から大食いだった千花はビスクソースのスパゲッティとハンバーグを頼んだ。灯がドリンクバーを二人分注文する。目の前の彼女をみていると、なんだか食欲は失せてしまった。

 「灯さんは、昔からわたしに優しくしてくれたよね」

 ほのぼの、と言ったふうに千花が思い返す。

 「わたし、同性の友達ってほとんどいなかったから、灯さんと友達になりたいって思ってた」
 「今のわたしたちの関係は、友達になるには複雑すぎるわ」

 それに、と灯は思う。友達になるには、あまりに対等でなさすぎる。知性も、育ちも、趣味も、すべてが。彼女と友達になるのは、できれば御免被りたい。けれどいまのわたしは、そんな彼女に手を差しのべようとしている。

 「灯さんは、子ども産んだことある?」

 突然千花がはしたないくらいの直球を投げてくる。

 「ないわ。あなたが残していった子どもを育てるので、精一杯だったもの」

 皮肉が通じたのか通じていないのか、千花はまた、ふうんと鈍い声で呟く。

 「赤ちゃんがカラダの中で育ってく感覚は、すごく面白かった。なんだかゲームみたいなかんじ。あのたまごっちってゲーム、覚えてる?」

 そういうと、千花はふらりと立ち上がり、メロンソーダを手に戻ってきた。

 「わたし、メロンソーダっていつも好きだった。子どもの頃、ママによく連れられてファミレスで飲んでたの。ママの彼氏も一緒だった。それも毎回変わるの」

 けらけら、と千花が笑う。灯は目を伏せて、メニューの写真をさ迷った。

 「......信じて貰えないかもしれないけど、わたしもあなたの痛み、少しだけ想像出来ないこともないわ」
 「灯さんは、お金持ちのお嬢さまでしょ? わたしみたいな底辺の人間のこと、分かるはずない」
 「べつにお金持ちでもお嬢さまでもないわ。わたしだって片親育ちよ」

 家に残してきた娘にみずからの過去を重ね合わせてしまって、灯は押し潰されたような気になる。

 「自分が産んだわけでもない、あなたの娘を育てているのもね、あの子の抱えているものが、わたしにも痛いくらいに感じられるからかもしれない。わたしにはわかるのよ、すみれがあなたを思う気持ちも、憎む気持ちもすべて」

 返事など期待せずに、灯は窓の外をみはるかした。心のなかで、そっと千花のために祈る。

 「あの子は、まだ見ぬあなたに焦がれる思いと、じぶんの血のなかに潜むあなたを怖れる思いとに、苛まれてるの。すみれのためにも、あなたがもっと自分を大切にしてくれればいいんだけど」

 「まあ、難しいわよね。わたしも昔、ひとに言われたわ。もっと自分を大切にしろ、って。けれどもその頃のわたしは、ほんとうに大切なものから逃げていたから、そんな助言聞こうとも思わなかった。あなたも同じなんでしょうね」

 ほとんど自分に語っているような言葉の、その一部分に千花は反応した。

 「ほんとうに大切なものって?」

 両手でホットコーヒーを包みながら、灯はそっと息を吐くように言った。

 「わたしのことをずっと呼んでくれていた、イエスキリストのことよ」
 「そっか、灯さんはクリスチャンだったっけ」
  
 「ええ。でも若い頃は、神から逃げていたの。わたしは外面はまともに見えたかもしれないけど、中身は千花さんと大して変わらないくらい、ぐちゃぐちゃだったのよ」

 「それでも、灯さんは違う人種だな、っていつも思ってたよ。すみれも、灯さんに育ててもらって幸せだよね」
 「そうでしょうね」

 灯は力強い視線で、一瞬千花を見据える。

 「それでもすみれは、産みの母親についての葛藤をせずにはいられないのよね」

 「どうしてそんなに難しく考えるかなあ。それって田口さんの血だよね。あのひとは小難しいひとだった。変なの、たった一回のことで、人間が出来ちゃうんだもん」

 「ふふ、その小難しい男と暮らしているわたしからすれば、あまり聞きたくないような言葉だわ」

 無理して口角を弛めながら、灯はそれ以上の暴露を封じるように言葉を重ねる。

 「わたしも千花さんも田口も、みんな変わらないのよ。みんなどうしようもない罪人。わたしや田口は、その罪から救いだしてくれる人を見つけたってだけの違いだわ」

 灯は目の前の女性をもういちど眺めた。滅びに向かっているような、自堕落なひと。でも底抜けに明るくて、哀れでならないこのひとを、灯は救うことができない。アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。

 「千花さんも、このまま滅んでいかなくたっていいんだわ。キリストが死んだのは、千花さんみたいなひとの為だったんだもの。だれよりも助けを必要としているのに、そんな千花さんを助けられる人間なんて存在しないんだもの」

 「わたしには何もできない。お金を渡したって、それがどのくらい千花さんの為になるのか分かりやしない。わたしには何もできない。けれどわたしは、溺れて死にかけている千花さんを、救いだしてくれるひとを知っているわ。図々しいと思われようが、そのひとを千花さんに教えてあげないなら、わたしはあなたを見殺しにしたことになる」

 いつのまにか灯はちいさな涙を流していた。そんな灯を、千花があっけにとられたように見つめている。

 「灯さんがわたしのために泣いてくれるなんて思わなかった」

 灯はすこし息をついて、コーヒーを啜った。その仕草で、この話題は終わりだと無言で示す。

 「あの芙蓉の写真、売ってくれる?」
 「いいよ? 三千円くらい?」
 「まさか。三万円くらいでもいい?」

 灯は財布を取り出した。これから取りに戻って、今日のうちに持っていっちゃってもいいよ、と千花。郵送の手間を考えて、灯はその言葉に甘えることにした。

 「あのね、春になったらスミレの花を撮って欲しいわ。そうしたらそれも買いたいわ」

 千花はにこっと笑った。それを潮時に、灯が伝票を手に立ち上がると、千花もそれに続いた。

 千花から買った写真は、額装もマットも施されていない、ぺらぺらしたA4のプリントだった。それを印刷紙のダンボールに入れてもらい、胸にかかえて海辺の家に帰った。明日にでも世界堂にいって、額を作ってもらおう、と思いながら、寝静まった娘の部屋を覗いた。壁にはちょうど良さそうな広さの空白があった。

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