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幻を書き記せ ② スティーヴン・L・シェリー (日本語訳) 



アメリカ、アラバマ州にある
New Hope Revival Ministries の
スティーヴン・シェリー牧師が
1990年代に出版した手記です。

二回目の今回は、
『あなたがそんな環境でも
神に仕えられるのなら、
ぼくだって神に
仕えられるかもしれない』
と他人に言わせた、
彼の壮絶な幼少時代についてです。

『神さまがいなければ、
心を病んでいただろう』
とみずから語る過去は、
ほんとうに心を抉られるような
つらい辛い体験です。

『これらのことを話すのは、
読んでいる人のなかに、
同じような経験をした人がいると
信じるからだ』
と、シェリー牧師は書きます。
それでも神に仕えられるのだと。
いや、それどころか、
だからこそ、彼は神に仕えているのだと。

傷を負った他のひとに、
おなじ痛みを知る立場から
語りかけることが出来るように。 

キリストが、
すべての痛みを
知る方であること、
すべての傷を、
癒してくださることを。





 

 母はとても静かな、バプテスト派の家庭で育った。その結果、ペンテコステ派の教会を死ぬほど怖がるようになった。両親が付き合っていた頃のこと、父が母をリバイバルに連れて行った。

 母は言う、

 「そこではみんな叫んだりわめいたり、とにかく騒がしくって、とても怖かったわ。お父さんが側にいてくれる間は、私も安心できたのよ。でもみんながピアノを弾かせようと、お父さんを連れて行ってしまったの。」

 母は父を見あげて言った、

 「わたしをこんなところに、一人置いていくつもり?」

 しかし父は、ピアノを弾きに行かなくてはならなかった。近くに座っていた人が席から飛び上がったので、母は生きた心地もしないほど怯えてしまった。



 ペンテコステ派に対しての第一印象がこうであったので、母は幼い私を、あまりペンテコステの教会に行かせたがらなかった。ペンテコステ派の父方の祖母は、孫がバプテスト派になるのを良しとせず、ペンテコステ派になって欲しいと思っていた。そういうわけで、バプテスト教会で集会がないときは、集会をやっている教会を見つけては、祖母は私を連れて行った。

 祖母は、子どもは会堂の後ろに座らせるべき、という考えに反対していた。初めて祖母と教会に行ったとき、私はまだそこらじゅう走り回っておしゃべりをする、十八ヶ月の幼児だった。幼心にも、色々言いたいことはあったのだ。成長した今でも、あまり変わらないかもしれない。

 祖母は私を最前列の席に座らせた。祖母は牧師で、私にこう言うのだった。

 「いいかい、お祖母ちゃんはこれから祭壇のところに、祈りに行くからね。いい子で座っているんだよ」

 祈るというのは、真剣な祈りのことだ。これらの聖人たちは、教会が始まる前に祭壇の周りに集って、椅子に身を打ちつけ、嘆き泣きながら、必死になって神に叫び祈るので、私は怖くなってしまうほどだった。しかしたとえ十八ヶ月の幼児でも、祖母が祈りに行くのを見て、何かを感じたのだった。私は席を滑り降りると、祖母の側に行き、真似をして頭を垂れた。

 祖母はよく、祈っていると何かが隣にいるのに気づいた、そのときのことを話したがった。目を開けて見てみると、小さな孫が涙をぼたぼたとこぼして、祈っているのを見つけたのだ。私はそれまで祈ったことも、ペンテコステ派の教会に行ったこともなかった。祖母が驚いたのは、私がいままでそのような経験をしたことがないのを知っていたからだ。祖母は言っていた。

 「耳を寄せて何を言っているのか聞いてみるとね、聞こえてくるのはこれだけ。『かみさま、ぼくのママとパパを、きょうかいにいかせてください』これには心を打たれたね。その時から、神様の御手がお前の上にあることを悟ったよ」

* 

 私が産まれる前に、祖母は預言を受けていた(ペンテコステの時代にだって、神は人々に直接お語りになるのだ)。

 「あなたの義理の娘のお腹にいる子どもは、神が選ばれた子どもである。彼はたくさんの人に福音を伝え、神の御国にたくさんの人を導く。また非常に幼い頃から、活動を始めるだろう」

 *
 

 こんな出来事を覚えている。二歳くらいだったある夜、教会に行ったときのことだ。

 「さあ、みんなで歌いましょう。合唱隊の方たちは、こちらに来てください」 

 誰かが言った。背の高いアップライトピアノの前に、大してピアノの上手くない、地味なお団子頭の女性が座っていた。男性たちはピアノの片側に、女性たちはもう片側に立って、歌い始めた。

 突然彼らの表情が変わったのに、とても観察深い二歳児である私は気付いた。どういうことかはわからなかったが、その表情の変化は明らかだった。彼らはもうただ歌っているのではなく、歌の意味を感じ始めていたのだ。まもなくヘアピンが落ちる音がし始めた。女性達は叫びながら、主を賛美していた。ヘアピンが雨のように髪から振り落ち、音をたてて手すりに転がった。



 祖母はまた、私が一歳の誕生日に、初めてのピアノを貰ったときの話をした。ピアノの椅子に跪いて祈ってから、座りなおしてピアノを弾いて歌った。母が扉のところに立って、私を眺めていた。私は立ち上がると、ピアノの上に本を置いて説教をし始めた。

 母は言う、

 「一歳になってすぐ、あなたは自分が説教者なんだって、言い出したの。こっちを見て静かにこう言うの、『ぼくはせっきょうしゃになるんだよ』って」



 ある日、私は祖母に言った。

 「おばあちゃん、ぼくはせっきょうしゃになるんだよ」
 「おお、そうかい。大きくなったら説教者になるんだね。」
 「ちがうよ。ぼくはもうせっきょうしゃなんだよ」
 「あらら。これから説教者になるんじゃないのかい。」
 「おばあちゃん、ちがうんだ。ぼくはせっきょうしゃなんだよ」



 私は三歳のとき、高い熱を出して生死を彷徨った。医者も匙を投げた。私はピアノの椅子を部屋の真ん中に引き出すと、そこに跪いて、主に癒しを求め祈った。その時、母は神に仕えてはいなかった。

 母は義母に電話して言った、

 「シェリー夫人、あの子ったら見てられませんわ。部屋の真ん中にピアノ椅子を出してきて、跪いて祈るんです。今じゃ熱も下がって遊んでいますわ」

 これは神が母にむけて送った証しだったのだろう。


 父が私を、祖母の家に連れて行った日のことを覚えている。私はとても小さかった。父が言った。

 「母さん。スティーブンは、ホーリネスの説教者になるんじゃないかと思うよ」 
 
 父は背信者で、神から離れていた。祖母が言った、

「いったい、なんでそんなことを思うんだい?」

「この子は、普通の子どもじゃないんだ。他の子どもとは、全然違うんだよ。遊びの時間になると、ピアノの側で祈っては、説教をするまねをして遊ぶんだ。ぼくに聖霊ってどんなものかって聞くんだけど、なんて答えたらいいのかわからない。母さん、教えてやってくれる?」

 私はその時の祖母の答えが忘れられない。祖母は、幼い子どももその小さな頭で理解できるように、聖霊について説明してくれた。

 その頃は、両親は仲良く幸せにやっているように見えた。父は狩猟が好きで、家を空けることが多かった。そのせいであまり息子との時間を取れなかった。これは正しいことではない、私はそう信じている。



 三歳のときのある夜、ベッドで寝ていた私は、部屋で何かの気配を感じた。怯えて振り返ると、そこには主イエスがおられた。それがイエス様だった筈がないと言う人がいるが、私は本当にイエス様だったと信じている。

 (こういった主からの奇蹟の体験をすると、九十年後でも八十年後になったとしても、決して忘れるものではない)

 私は白く輝く衣を着た方を見た。その顔は影になっていて見えなかった。影といっても、黒かったり暗くなっていたりではなく、他の部分よりも光っていないだけだった。その方は肩までの髪をしていた。三歳児の私は怖くなって、体を丸めて顔を隠した。

 次の瞬間、足音が聞こえた。イエス様はずっと扉のところで宙を浮いていたのが、いま足音が聞こえるようになった。私のベッドに向かって歩いてくる。子どもの私は怯えて震えていた。それから私の首の後ろに、イエス様が手を伸ばして触れられた。

 それから声がして言った、

 「おちびちゃん、静かに」

 それからまた言われた。

 「静かにするんだよ、おちびちゃん」

 私は起き上がってベッドの横に立っておられる方を見た。イエス様がその時におっしゃった言葉の一部がこれだ。

 「君のお父さんとお母さんは、別れることになる」

 それは思っても見ないことだった。そんなことは考えたことさえなかった。しかしイエス様はおっしゃった、

 「君のお父さんとお母さんは、別れることになる。君は神のために説教するようになる。君の人生は平凡なものにはならない。同じ年頃のほかの男の子達とは、まったく違ったものになるだろう。人生の中で、たくさんのひとが君に言うだろう、

 『あなたがそんな環境でも神に仕えられるのなら、ぼくだって神に仕えられるかもしれない』と。」

 来た時のようにすばやく、主は去られた。

 私は途端にベッドから起きた。母によれば、私はイエス様に言われたことを全て残らず母に伝えたのだそうだ。二年も経たないうちに、主がおっしゃった通り、父が母のもとを去った。その時のことを少しだけ覚えている。同じ苦しみにあった多くの若者が、私に癒しの祈りを求めてやってくる。若い人や小さな子ども、十代の子どもや、時に私と同じ年頃のひとまで。

 「シェリー兄弟、祈ってくださいますか。両親が離婚して、ぼくの心に苦い痛みがあるんです」

 後ろに母親が付いているのに、こんなことを言う人もいる。

 「母に対して恨む気持ちがあるんです。祈ってくれますか」

 こんな話しをするのは、私もその痛みを理解できると伝えたいからだ。私も同じところを通ってきた。


 ある日私を膝の上に乗せて、父が言った、

 「スティーブ、もう父さんは、君の母さんを愛していないんだ」

 それは聞くに耐えない言葉だった。訳がわからなかった。父はすこしの間家を出て、戻ってきてから仲直りしてすべてが上手くいっているように見えた。しかしそうではなかった。誰か女の人がいたのだ。他の子どもたちと同じように、私にもその辛い記憶がある。記憶の中の私は、父の足にしがみ付いて、いかないでと縋った。

 父は言った、

「でも行かなきゃいけない」

 私は全力で父にしがみ付いた。

 「父さん、行っちゃだめ。お願い、行かないで。お願いだから置いていかないで」

 あまりにも辛い経験をしたので、私達若者は、神様が慈しんでくださらないかぎり、一生涯深い心の傷を負っていくことになるだろう。私だってそうなっていたかもしれない。もし神様がいなければ、私は心を病んでいただろうと、本当に思っている。


 母はすこしの間独り身で過ごした。母はまだ結婚して十年ばかりの若い婦人だったので、再婚をした。この話は母にとっても、私にとっても辛い話だ。二度目の結婚によくあるように、愛のために結婚するのだと思っていた二人は、本当は淋しさのために結婚した。

 結婚するまで、彼はとても母に優しかった。彼は私がいままで知らなかったようなお父さんを務めてくれた。私は彼を愛していたし、多分母もそうだろう。彼は私達親子が、世界で一番大切な人であるかのように接してくれた、結婚するまでは。結婚してからは、すべてが一転した。ほとんど毎日、彼は母を情け容赦なく打った。病院沙汰になることもあった。

 何故母が、訳もなく自分を打つ男と一緒に暮らすのか、わからなかった。それは彼に憑いていたサタンの霊だったのだ。どうして母は「でも愛しているから」なんて言い、そこに留まったのだろうか。後にそれが分かった。それは愛ではなく、取り付いている悪霊なのだ。サタンの霊が、平手打ちや鞭打ちよりもひどい暴力にもかかわらず、女性を男のもとに留まらせるのだ。彼の暴力はひどく、母は私をひっつかんで命のために逃げなくてはならないほどだった。それでも母は彼から離れられなかった。あの男の問題は、霊的なものだった。母はそれから逃れられなかったのだ。

 彼は私達を連れて、ジョージア州の海岸の沖にある小島に引っ越した。家族の監視の目の届かないところだ。私は教会に行けないのが淋しくて仕方なかった。物事がより一層ひどくなったのはそれからだった。そこで何が起きているか、誰も見張る人がいなかった。彼は母を、激しく虐待した。私は教会に行くのを許されなかった。日曜日の朝に窓から、日曜学校のバスが子どもたちを拾っていくのを見ながら泣いた。夜にベッドに跪いて祈った。

 「神様、ぼくを殺してください。死んで神様のもとにいけるようにしてください。」

 これらのことを話すのは、読んでいる人のなかに、同じような経験をした人がいると信じるからだ。

 夜ベッドに横になって、母の悲鳴を聞くのは辛かった。幾晩も目の前で暴力が繰り広げられた。母は彼から逃れようと私の部屋に逃げ込んできたが、それは上手くいかなかった。彼がガラス瓶を割り、その欠片を母の喉もとに突きつけるのを、私は見た。私は、彼が母を床に倒し、母の喉に肉用ナイフを当てながら、「こいつを殺してやる!」と叫ぶのも見た。

 私の中には、こういう辛い記憶がある。これらのことを話すのは、私が死にそうな気がしたからだ。気が狂うかと思った。これ以上耐えられそうになかった。それでも祖母がしていたのを思い出しながら、夜ベッドに跪き、早く朝が来て暴力が止むようにと祈った。私は祈った、

 「おお、神様、母さんを生かしてください。母さんを生かしてください。」

 これらの祈りは母を力づけた。

* 

 父は離婚が決定した数週間後に、再婚した。私は父と母のもとを行ったり来たりしなくてはならなかった。知っている人もいるだろう、これは楽しいことではない。私は母のもとで多くの時間を過ごし、父のもとでも多くの時間を過ごした。それが私の生活だった。

 父の新しい妻が、私をジープに乗せて連れ出したことがあった。林のなか、彼女とふたりきりになると、私は怖くて仕方なかった。彼女は、父は息子を愛していない、父の愛は彼女だけのものなのだと、私に言い聞かせた。精神的に成熟した大人はだれも、夫婦の愛と親子の愛の違いを知っている。彼女は私によって試される気持ちになったのだ。私は常に、怯えながら暮らしていた。

 主にある兄弟たちよ、私の証は、神に麻薬から救ってもらったなどという類ではない。いままで酒を飲んだことも、煙草を吸ったことも、性的な不道徳に陥ったこともないからだ。これらのことから救われたというような証は出来ない。

 それでも、イエス・キリストに守られるのがどういうことか、証しできる。イエス様は少年の私をいつも守ってくださった。人生が滅茶苦茶になったときも、私は賛美の歌を歌っていた。神様は私の素晴らしい話し相手であり、友だちだった。

 「イエスさま、いまこんなことが起きているんです」

 まるで子どものように神に祈るのだ。私は神様に、どうやって自分の状態を話せばいいのかを知っている。神様はすべてわかってくださると信じている。


 暴力はどんどん酷くなり、ついに母が言った、「逃げましょう」。母はあまりに酷く打たれたので、病院に行かなくてはならなかった。私は祖母に電話して、なにが起きているかを伝えた。祖母がそれを知って、どれだけ苦しい思いをしたことか。祖母は母のことを、実の娘のように愛していた。母が離婚したときに祖母が言った、

 「息子と一緒に暮らしていようがいまいが、あなたを私の娘としたからには、あなたはいつまでも私の娘よ」

 離婚も、ふたりの間を引き裂きはしなかった。それどころか離婚が複雑になってきたとき、母を支え、慰めたのは祖母だった。

 ついに母が、ここを去る決意をした。私達は、車に荷物を積んで出発した。マクドナルドで朝食をとった。母が言った、

 「スティーブ、私、やっぱり戻ろうと思う」

 私はこれ以上耐えられる気がしなかった。そして言った、

 「ママ、もしあそこに戻るのだとしたら、ぼくを死なせてもらえるよう、神様に祈るよ。もし教会に行けなくて、お祖母ちゃんのそばにもいられなくて、神様につかえることもできないなら、生きている意味なんてないもん」

 神様は母の心を捉えられた。それきり母はそれに関して口を噤み、どこに行くかも言わなかった。出発後しばらくして、車が来た道を戻るのではなく、家に向かって走っているのを知った。なんて嬉しい帰郷だったことか。



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