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わたしの仲間たち



 上手く書けるだろうか。ずっと書きたいと思っていたこと、わたしの仲間たちについて。書きたいと思いながら、なにか良い構想でも浮かべばいいと思って、ずっと書けなかった。だからまっすぐに書こう。これは、わたしたちの証しです。


 いとおしい、仲間たちがいる。そのひとりひとりを思うだけで、こころに喜びが溢れるような。お互いの背中を預かりあっている、仲間たち。わたしが間違えていれば、彼らはやさしく指摘してくれるだろう。喜んでいるときは、いっしょに喜んでくれる。

 わたしたちに、ほとんど共通点はないのだ。国籍も違えば、母国語も違う。違う国で生まれて、いまなぜかこの日本で、神さまに生かされている。そんな仲間たちなのに、わたしたちはまるで、なにかが繋がっているような感覚がする。 

 わたしたちは知っている。おなじキリストの霊に生かされているひとを。言い表すことはできないけれど、あの霊に満たされた瞬間に、わたしたちが消えて、キリストが浮かびあがる瞬間に、あ、このひとも同じなんだ、と、分かる。

 ではだれは同じで、だれは違うのか、というようなことは、あまり突き詰めて考えない方がいい。同じこころのひとは、分かる。わたしたちはいつも忙しくて、あまり深い話をしている暇がない。けれど、いっしょに卵の殻剥きをしている瞬間に、ほんの一瞬交わしたほほえみに、ちょっとした心遣いに、わたしは心を満たされて、このひとたちと一緒なら、まだ進んでいける、と思う。
 
 ほんとうに、わたしたちは忙しすぎる。教会に来たら、ここを掃除して、あれを買ってきて、料理を温めて、洗濯機を回して、子どもの面倒を見て、プロジェクターの操作をして、ピアノを弾いて、通訳をして、おもてなしをしたり、わたしたちはあちらこちらで精一杯だから、ゆっくり話し合うような時間は、滅多にやってこない。

 時間があったとしても、わたしたちは照れてしまって、ほんとうに深い話をするまでに、時間がかかるかもしれない。でもときどき、そんな瞬間がやってくる。宝石みたいな、瞬間が。宣教旅行の帰りみち、闇になずんだ車のなかで、二列目の席から後ろに振り返って、ナイジェリア人の兄弟が、キリストの囚人になることについて、わたしに語ってくれた、あの瞬間のように。

 「パウロが、わたしはキリストの囚人です、といったのは、すごいよね。じぶんの意思で、神の愛の足枷を嵌められたんだ。もうじぶんの人生は、なんの意味も持たない。生きているのは、もはや彼でなく、キリストなんだ」

 わたしたちは、砕かれることについて語った。仕えることについて。みずからを費やして、他者のために生きることについて。彼は年下だというのに、わたしは少し背伸びしているような気分で、暗闇に輝く瞳を見つめた。主と彼との親しさが、ふれられるくらいの密度で、その言葉のなかに詰まっていた。その一端を、明かしてもらえる嬉しさに、あの一瞬は、鉱物のように、わたしのなかで結晶して、いまも残っている。

 この領域において、外側の年齢は、その霊的な成熟度を保証するものではない。時として、内なるひとがもっとも大人なひとが、いちばん年少だったりもする。わたしたちは、外側ではなく、その内なるひとを見る。そのひとの年齢や、社会的地位ではなく、内なるひとを。

 出産したばかりの頃、わたしは世間に、ママ友をつくれ、としきりに言われた。けれどスクールカーストの延長線上みたいな世界に親しめる気がしなくて、馴染めずにいたわたしに、神さまがくださった友だちは、牧師夫人だった。ママ友とは、呼びたくない。わたしたちは、苦しいときも、大変なときも、いっしょに支えあってきた、ほんとうの仲間だから。彼女のことを思うとき、沁みでるように愛おしい気持ちが、心に溢れる。わたしは日本人で、彼女はフィリピン人。だけどわたしたちは、同じキリストのために生きている。

  そして、ネパール人の友だち。彼女に子どもが出来るまで、同じ教会にいれど、わたしたちはあまり関わりがなかった。ちょうどうちの子どもが0歳のとき、夜も眠れず、オムツを替えて、授乳するだけの暮らしをしていたときに、彼女は婚約したばかりだった。そのロミオとジュリエットのようなラブストーリーは、どこか遠い世界の話に聞こえた。あの頃のわたしは、そういえばじぶんたち夫婦にも物語があったことさえ、忘れてしまうくらいに余裕がなかった。

  けれどそれから何年も経って、いまのわたしたちは、口にしなくても、お互いの苦労を読むことができる。わたしたちは、日曜日のごとにふたりで、子ども部屋で起こる幾多のカオスな事件に頭を抱えている。あれは子ども部屋などと呼ぶべきではない、サファリと呼ぶべきだ。お願いだから、部屋のなかにダンゴムシを持ち込まないで欲しい。

 それから、牧師。彼は良い羊飼いだ。それは彼が謙虚なひとだから、心の砕かれたひとで、いまも日々、砕かれ続けているひとだから、なのだと思う。何年も前、わたしは神さまから、苦しみにいきなさい、と言われて、この教会に通いはじめた。わたしはまだ未熟で、頭でっかちの、小娘でしかなかった。牧師だって、わたしより6つ年上なだけで、若いこと、日本人ではないこと、いろいろなことで、さぞかし辛かっただろう。

 彼が苦しむのを、泣くことさえできないほどの痛みに喘ぐのを、わたしたちは傍で見てきた。それでも彼は、キリストに従い続けた。諦めなかったし、投げ出さなかった。いつも、いつも、教会を続けた。羊たちを、投げ出すことなく、じぶんの思いではなく、キリストの思いに、日々、身を委ねて。

 そういうひとたちのあいだに、身を置いて、わたしは変わっていった。わたしの心に宿っている聖霊は、すこしずつすこしずつ、わたしを覆い、飲み干していく。わたしは、まだまだ完全な身の丈とは言えない。でもわたしは歩いている。同じ道をゆく、仲間がいるから。わたしはキリストを裏切ることはできないし、彼らを裏切ることもできない。この戦いにおいて、わたしたちは、お互いの背中を預かりあっている。いっしょに、戦う仲間たち。いとおしい、いとおしい、仲間たち。

 
 
 
 
 

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