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はじめての上高地





 「聖書を持ってこなかったね」

 上高地の夕ぐれ、梓川のほとりに座って、わずかに雪の残る穂高と、まだらな西の光に照らされた明神の山を眺めていたとき、そう叱られた、きがした。



 八度めの松本にして、はじめての上高地。クマが出るというキャンプ場。熊鈴はキャビンに忘れた。赤いショルダーバッグに入っているのは、サン=テグジュペリの「闘う操縦士」と、アン・モロウ・リンドバーグの「海の贈り物」。どちらも鉛筆で、めちゃめちゃに線が引かれている。

 山に登るような体力も、海で泳ぐような能力も、どちらも備わっていないので、大自然にはあまり足を踏み入れたことがない。馴染みがあるのは、小自然とでもいうか、家の裏山や、近くの浜辺くらい。家のそとの木々を眺めつ、本を読みながら暮らしている。



 だから河童橋と小梨平キャンプ場のあいだを、行き来するくらいが、ちいさな子を連れたわれわれのヤマだった。キャンプ場のはずれ、川の畔のベンチに座って、いつまでも山を眺めた。なにも知らないせいで、目の前に見えるのが、きっとかの有名な涸沢カールだと思ってた。違ったのですね、さっき検索してわかりました。

 地獄みたいな国道158号線を通り、アルピコのバスに揺られて来るだけで、神さまの世界の断面図をみせていただけるなんて、すごいなあ、と北アルプスの山を眺めていた。海を眺めているときと、山を眺めているとき、どちらの方が、神と対話しやすいだろうか、なんて思い比べながら。山そのものが、神だと思うのにはすこし違和感があって、山にかかっている白い霧のうごきを見ているときに、わたしはいちばん神と話せるようなきがした。



 そういうときに、手に取りたくなったのは、結局持ってきた文庫本ではなかった。わたしは神と、話しあいたかった。だから直接、聖書をひらいて、あのかたの言葉を読みたかった。重いからって、置いてきたのは失策だったなあ。わたしは頭のなかに残っている、みことばをめくった。いま、あなたはわたしに、なんとお言いになりたいのでしょう?

 「山はうつり、丘は揺らごうとも、わが愛はあなたからうつらず、わが平和の約束は揺らぐことがない」

 ほうほう。

 「わたしは目をあげて山をみる。わが助けはいずこより来たるか。わが助けは、主から来る。天と地をつくられたお方」 

 ふむふむ。



 いえ、その日わたしのにぶい心に触れたのは、もっとみじかくて、単純なことば。かんたんな、神さまからの指示だった。

 「穏やかに、信頼しているならば、救われる」

 おだやかに、信頼しているなら。ただじいっと、山にかかる霧を眺めていた。尖った頂きが隠れたり、あらわれたりして、霧は降下し、上昇して、次第にあかるくなっていく。青い山にかかる霧が、たまらなく好き。わたしは海辺に住んでいるけれど、祖母の生まれた村は標高千メートルだった。



 あの日、神さまはわたしたちを、熊から守ってくださった。宿泊当日、キャンプ場で熊が目撃された。わたしたちのキャビンはいちばん安いやつで、トイレがついていなかった。屋外トイレの先には、黄色い規制線が張ってあって、熊用の罠が仕掛けられていた。よなか、義母を起こして、いっしょにトイレに行ったけれど、なにごとも起こらなかった。

 べつに、熊のことだけじゃないんだけど。でも熊から、獅子から、ダビデを守ってくださった神さまは、ダビデが巨人ゴリアテと戦うときにも、やはりおなじように、彼を守って、勝利をあたえてくださった。おだやかに、信頼しているならば。わたしはなんども、そうじぶんに言い聞かせた。

 




 

 

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