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科学の生き残り方 ~「テーマと対象」から「思考枠組みと方法論」へ~

「科学は進化心理学的には不自然な産物」と言われることがある。

近代科学という方法は、伝統、習俗、経験則、宗教、占星術、呪術といった従来の方法と比較して、圧倒的に高い対象の理解可能性、予測可能性、制御可能性、利用可能性、設計・制作可能性を実現する、革新的な方法であった。さらには、この方法は極めて「非」文脈依存的であった。であるがゆえに「進化心理学的に不自然」であろうがどうだろうが、西洋の一部で誕生し、世界中を席巻した(もちろん世界各地に、西洋科学に比肩するものが存在しなかったわけではない)。

しかし、それは、たまたま17世紀から20世紀にかけての社会に適合していただけのことではないのか。人間の「感情」が、真に受け入れることのできるものだったのだろうか。科学のもたらす利得がさほど大きいと感じられなくなれば、それへの信頼はあっという間に消えてしまうような、脆弱な基盤の上に立つものではなかったのだろうか。これまではたまたま、科学のもたらす「利得」を人間の「感情」が支持していただけであり、科学的方法自体が理解され、支持されていたわけではなかったのではないか。そういったことが言われるようになってきた。

トランプが大統領に就任して以来のアメリカがそのことを如実に表している、とも言われる。では、それを踏まえてどうするか。そこで科学リテラシーの啓蒙なのか、科学への興味関心の喚起なのか、科学技術コミュニケーションの出番なのか。ちょっと待ってほしい。

社会が困窮すると科学技術や研究活動に投資する余裕がなくなる。現代の日本はまさにそういった時代である。経済は停滞し、格差は拡大し、国際的な地位は大きく低下し、人口減少、地方の過疎化、少子高齢化は進み、人々は貧困に直面している。経済システムも、社会システムも、大きな綻びに苦しんでいる。そして科学技術、ひいてはアカデミックな研究活動全体が危機に瀕している。科学リテラシーが大事、科学への興味関心を、と言われるが、多くの人々は一日一日を生きていくだけで精一杯なのである。科学どころではない。

前述の状況に向き合うにあたって、こんにちのアカデミズムには、まずは思い切った「諦念」が必要なのではないだろうか。長期的な生き残りを諦めないためにこそ、短期的な目的の達成を諦める必要がある。研究者個人のライフスパンにおける「成功」のために必要な程のリソース獲得はあえて諦めつつ、長期的な持続のための布石を打つことに集中する、ということである。もちろん、それは嫌だ、自分は生きている間に研究者として自分の目的を達成したい、と考えるのは自由である。しかしそれは、「短期的な目的の達成を諦めないことによって、長期的な生き残りを諦める」ことになる。どちらが良い悪いではない。どちらを選ぶかである。

科学技術や研究活動が生き残るには、まず「林業」のように「数世代後の収穫」を覚悟する必要がある。まずは経済システムと社会システムを建て直さなければならない。アカデミズムの発展は、それらに支えられているからである。アカデミズムの知を、まずは専ら、経済システムと社会システムを建て直すために使う。しかし、アカデミズムの知の継承と発展の歴史が「途絶えてしまわない」程度の、ぎりぎりの水準は注意深く維持する。長い道のりになる。

その上で、アカデミズムは、そして一人ひとりの研究者は、基礎科学であろうが応用科学であろうが、最終的に国民一人ひとりの幸福にいかに貢献するか、ということを考えなければならない。

経済はそのための手段に過ぎず、企業の利益もしかり。つまり、産学連携は企業の利益や、対価として得られる大学にとっての「外部資金」がゴールではなく、産学連携によってどのような社会的価値を生み出し、国民一人ひとりの幸福に寄与するか、ということがゴールであるべきである。

産学連携の目的は「外部資金の獲得」「研究が企業の役に立つことの証明」などでは決してありえない。「国民一人ひとりの幸福に寄与すること」である。そのための装置として企業、産業界、経済システムを利用するに過ぎない。

そのために基礎科学には何ができるか、ということを、基礎科学の研究者は考えなければならない。もしも「世代を超えた長期的な生き残り」を諦めないのであれば。

基礎科学の成果は直接産業応用できるようなものではないし、直接国民の生活を豊かにしたり問題を解決したりするものではない、と言われる。それはその通りである。よく、基礎科学の成果は応用科学を促進する、とも言われるが、それも本当かどうか怪しい。そういう言い訳や言い逃れはもうどうでもいいのだ。

基礎科学の「具体的成果」に注目しすぎるからこんなことになるのだ。全く違う考え方が必要である。基礎科学であろうと何であろうと、ある対象を理解したり予測可能にしたり操作可能にしたり設計可能にしたりするために、様々な手法を用いる。より抽象的に言えば、「特定の対象に特定の変換を施すことに依って、特定の利用を可能にする」ことが、基礎科学であろうがなんであろうが、学問がやっていることである。

この「特定の対象に特定の変換を施すことに依って、特定の利用を可能にする」というプロセスを築き上げていく過程で得られた様々な「発見手法」「観察手法」「測定手法」「データ収集手法」「データ分析手法」「解釈手法」といったものを因数分解してできるだけ抽象的で、普遍的で、汎化可能性の高い形で抽出することに依って、様々な社会課題の解決や個々人の幸福に資するような「手段」を得ることができるはずである。

それらを積極的に様々な社会課題の解決や個々人の幸福に活用し(もちろんその手法だけではダメで、他の様々な学問領域から持ち寄った手法群、そしてアカデミズムの外の知見やリソースを組み合わせることに依って)、何らかの結果を出す。この積み重ねによって経済を、社会を、そして個人の幸福を支える。そこで生み出された「余裕」こそが、未来の科学を、アカデミズムを支える。

さらに言えば、この考え方は、たとえば大学院時代(場合によっては学部時代)から意識的に実行してもらう機会を作っておくと、実はかなりの教育効果があるのではないだろうか。

日頃から自らが活用し、日々その質を向上させている「思考の枠組み」や「方法論」に対して、こういった方法を通じて自覚的になることで、仮にその学生が結果としてアカデミズムに残らず、民間企業や行政、非営利セクターなどに就職し、たとえ仕事上の「テーマ」「対象」が全く異なったとしても、学生時代に獲得した「思考の枠組み」や「方法論」を別のドメインで活用するにあたって非常に効果的なのではないかと思う。また、それを証明することができるならば、高等教育を受けた者のキャリアデザインにおいて大きな意味を持つであろう。

この観点からすると、通常のアウトリーチや「社会的責任論」はぬるい。科学は人々を「わくわくさせる」ことができる、という主張も弱い。多くの人々はわくわくする以前に日々の生活を営む収入が欲しいのであり、それがなければわくわくする前に死んでしまう。わくわくする余裕もない。今の科学技術コミュニケーションはそういう意味で、総じて圧倒的に不十分。少なくとも「本丸」ではない。

もちろんそれを目指す人もいてもよいし、得意不得意にもよる。全員が同じ方向を向けと言っているのではない。しかし一定割合のアカデミシャンは、前述のプロセスにコミットすることに依っていかに「国民一人ひとりの幸福に寄与するか」ということを考え、活動しなければならない。そうでなければ、科学技術、ひいては「研究」という活動、そしてアカデミズムは滅びる。

私は別に科学を擁護しない。科学の、アカデミズムの優れた特質については非常に強い関心を持っているが、しかし、その永続を無条件に支持するつもりはない。存在し続けるものは存在し続ける。消え去るものは消え去る。そこには何の崇高な意味も理想もない。冒頭の話に戻れば、それが「進化」というものである。それにあえて抗うのは、良くも悪くも人の業である。

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