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白い猫と妻の失踪17、エリック 戻ってきた妻との生活について 2022

 空白の3年の後、戻ってきた妻と、このようにしてしばらく以前と同じように生活を続けた。私は、この静かな暮らしが続いて欲しい。と、それだけを願っていた。

 妻はその後精密検査を受け、特にこれといった異常は見つからなかった。記憶喪失について、脳に何が起こっているのかは、医者にも正確にはわからないのだそうだ。薬は処方されているけれど、果たしてそれを飲んだからといって、記憶が戻るという保証もない。医学的にはスキャンなどを見る限り、脳にも何も問題がなさそうだった。
 警察には連絡したけれど、特に事件性があるとも思えないということで、ある意味でただの家出の捜索願届けを取り下げただけで終わってしまった。

 彼女はただ3年分の記憶がないという以外、いたって健康だった。家の中のことや、二人の暮らしに関して、記憶にも全く問題がなかった。

 こんな状況で、何とのんきな。と言われてしまうことを承知で認めてしまうと、私は何も知らなくても構わないという気持ちだった。ただ単純に、彼女が家にいることで、久しぶり故郷に帰ったような、暖かいふわふわしたベッドに包まれているような安心感と幸福感だけがそこにあった。自分の中に毎日、飛び上がったり、走り回ってはしゃぎたいような元気さが戻ってきた。

「そういえば・・・猫がおかしなことを言っていたんだ。」
「ん?猫がどうしたの?」

「日本に行く1ヶ月くらい前にここにいた猫がね・・・。」
「ええ、猫をしばらく飼っていたのよね。」

「そうだ。迷い猫だ。急に僕の生活の中に飛び込んできた。ある日、あの海に続いている道で猫が観光客のイギリス人の車にぶつかって、足の怪我をした。それで、病院に連れて行って、とりあえず僕が保護することになった。真っ白い猫でね。尻尾の先だけ、まるで筆のように黒いシミがついている。」
「先っぽだけ黒いのね。まるでお習字の筆のように。」

「画家にぴったりの猫だろう。」
「尻尾で墨絵が描けそうな。」

「そうだ。その猫と出会って、しばらくしたら・・・そのお・・・言いにくいんだけど。猫が人間の言葉を喋ったんだ。」
「・・・人の言葉をしゃべる猫がここにいたのね。」

「うん。信じられないかもしれないけれど。僕の眼の前で、本当に猫が喋ったんだ。きっと一種のテレパシーか、何かなんだろうけど。僕には猫の声が聞こえたんだ。ちゃんと会話が成立していた。寂しさでちょっと頭がおかしくなっていた可能性は、大いにあるけどね。」と一応言葉を濁してみたけれど、妻はさほど驚かなかった。

「テレパシーで喋る猫ね・・・。まあ、それが事実かどうかはさておき。その猫は何を言っていたの?」
「猫は、僕に向かって医者に連れて行ったりしたお礼を言ってから、こういったんだ。『奥さんは生きている。灯台の明かりの近くにいる』って。」

「白い猫が私のことを知っていたの?」と、妻はしばらく考え込んでいた。

「ポンポンとは、短時間しか話していない。会話をしたのは、たったの一回だけだ。そして、その後で気になって、僕はグラン・ヴィル灯台まで行ってみた。君が知らない間にたどり着いていたというあの灯台だ。君が立っていたという日の2週間くらい前のことだ。でも、僕は君を探しに、あそこに行ったんだ。あのベンチに座って、君のことを考えた。そして、そこに座っていた元灯台守りのおじいさんと知り合ったんだ。

「へえ。珍しいわね。灯台守りなんて。もうそんな仕事ないと思っていたわ。」
「もう引退しているけれど8年もブルターニュの灯台に暮らしていたそうだ。一人きりで。」
「まあ、そんなに長く?」
「そうなんだ。そして、彼に偶然、白い猫の話をしたら、まるで彼はその猫を知っているような口ぶりだった。そして、猫が話すことも。」

「その灯台守りさんは、どこに住んでいるの?」
「グランヴィルの老人ホームさ。マルシェがある日には、ジュルヴィルのカジノのテラスでカフェを飲む習慣がある。その時間にテラスで2回ほど、話をした。」

「そう。じゃあ、明日も会えるかもしれないわね。私も会ってみたいわ。」と、妻は言った。

「その猫は一体どこから来たのかしら。それに、私のことを知っているなんて、不思議ね。まあ、もちろん話すことも奇妙だけれど。それ以上にどこから来て、どうして消えてしまったかの方が気になるわね。猫のお皿が無くなることはあるかもしれないけれど。泥棒が入ったにしては、おかしな話だし。窓に猫のための出入り口を作ったのに、無くなっているのよね?それが一番おかしいわね。」

「ああ、そうなんだよ。日本から戻ったら君が帰ってきた。それは最高に嬉しい出来事だけど。まるで、別の世界に紛れ込んだような不思議な気持ちなんだ。それとも、この3年間別の世界に行っていたのが、僕の方なんじゃないかとさえ、思えてきたよ・・・・。」

「まさか!そんなはずないわよねえ。それにしても、どうしちゃったのかしらねえ。私の記憶も。その猫ちゃんも。」と、妻はとても気軽な調子で歌うように言いながら、テキパキと片付けを始めた。
この妻の切り替えのよさと明るさは、もともとの気質で、私はいつも驚かされ助けられている。

 翌朝、私たちは二人でジュルヴィルのマルシェに出かけた。久しぶりの二人での食材の買い出しは、楽しかった。人ごみをかき分けて、一緒にいつもの魚屋さんに行く。ただそれだけのことなのに、私はとてもとてもウキウキと楽しい気持ちになった。

 魚屋では、ヒラメ、スズキ、ホタテ貝を買った。それぞれ、スズキはオーブン焼き、ヒラメはムニエル、帆立貝は、クリームと一緒にグラタンのように料理する予定だった。どれも、妻と私の好物だ。

 そして、オーガニックの野菜の店では、店主の老人はち切れんばかりの笑顔で迎えてくれた。妻が来たのは久しぶりだったが、何も聞かずに、まるで昨日会ったみたいに接してくれるのもきっと優しさなのだろう。本当にいい人たちなのだ。

「今日の、お勧めは?」と聞けば、「今日は、アスパラ、ブロッコリー、キャベツもいいのが入ってるよ。」と、教えてくれる。
「じゃあそれを全部と、いつものようにジャガイモ、ニンジン、玉ねぎ。ラディッシュ、レタス、アボガド。パセリ、セロリ、トマトも頼むよ。」
「ああ、任せてくれ。」と、特に新鮮な野菜を選んで、渡してくれるのがわかる。

 そのあと、別の店でフルーツを5種類、イチゴ、キウイ、オレンジ、レモン、洋梨を買ってから、そば粉のガレットでソーセージ巻きとフリット、デザートにクレープのセットを昼食用に買った。

 私はたくさんの食品を入れたショッピングカートを引き、妻はいちごと卵を入れたカゴを持って朝市の喧騒から逃れた。いつものカジノのテラスに二人で向かう。残念ながら、灯台守りは来ていなかった。二人で腰かけて、飲み物を頼む。海の目の前のテラスは、素晴らしい景色だった。
毎週2回、マルシェの後はここに座って海を眺めるのが、私たち夫婦の日課だった。

「また二人でここに来られて、嬉しいよ。」と私が言うと、妻は、無言で微笑み頷いた。
 妻を混乱させたくなくて、あまり難しい話はしないように気をつけていた。仕事の復帰は、妻は望んでいたけれど、まだ時期が早すぎるだろうと医者の判断でストップしたままになっている。焦るのはやめよう。妻はこんなに元気そうなのだから。きっと、以前の生活に戻れる。

「今日は灯台守りさんは来ないみたいね。」
「そうだね。紹介できなくて残念だ。さあ、海を見ながら歩いて帰ろう。」

「ええ、帰ってお庭でランチにしましょう。美味しい紅茶を淹れるわね。今日は暑いから、午後は泳げるんじゃないかしら。」と、二人で海風を浴びながら、ゆっくり歩き始めた。

 それにしても、何かが以前と違うような気がしてならなかった。妻がいるのだから、それ以外のことはさほど気にならない。でも、何となく孤独の生活の中に猫がいた少し前の世界と、今の世界に、何かしらの大きな違いがあるような気がしてならなかった。もしかすると、自分の光の感じ方や五感が変化しているのかもしれない。もう一つ考えられることは、私を取り巻いている世界そのものが変化しているということだ。

 それが、どのくらい微細なことなのかわからないし、勘違いかもしれない。でも、画家の勘のようなもので、色や光や空気感がなにかしら変わった。ということだけは、はっきりとわかった。


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