読書について

今回は、読書について考えていきたいと思う。僕にとって読書とは趣味であり、人生であり、心の拠り所である。とは言いつつ、読書の効果は何かと聞かれると、はっきりとは答えにくい。強いて言うなれば、「自分の世界は変えられないけど、自分の世界の見方を変えることができる」これに尽きる。

そもそも読書とは、「過酷」なものである。なぜなら、誰かが書いた文章を延々と読み続ける作業だからである。しかし、突如としてその「過酷」な作業は、「娯楽」へと変わっていく瞬間がある。そこまで至るには、様々な本を読み漁り、ある程度の知識を蓄える必要がある。僕の子ども時代の話をしよう。僕は、小学生の頃、学校の図書室にある本を全て読みたいと思った。だから、端っこから順番に読み始めた。本当にその本が読みたいかどうかは二の次だった。全然読めなかった。9割は「興味がない」、1割は「言葉が理解できない」からだった。しかし、どうしても図書室の本を読みたかった僕は、意地になって、1割の方に目を向けた。「言葉が理解できない」とは、つまり「知識がない」と同義である。知識をつけるにはどうしたら良いか。国語辞典で調べるしかない。当時は、スマホのような便利なものはなかった。簡単にググるなんてできなかった。だから、読んでいる本の横に、必ず国語辞典を置いた。一文を読む度に、国語辞典を引いた。1ページを読み終わる頃には、夕焼け空になっていたこともしばしばであった。国語辞典はすぐにボロボロになった。「この言葉、確か前も調べたじゃん」ってことも多かった。途中から、国語辞典で調べた言葉に、マーカーを引くようになった。すぐに色だらけになった。図書室にある本の3割ほど読み終えたあたりから、国語辞典を引く頻度が下がってきた。知っている言葉が増えたことと、知らない言葉であっても、ある程度類推できるようになってきたからだ。その頃には、1冊を読むのに数時間で済むようになってきていた。と、同時に、読みたいと思える本も現れはじめてきた。

まずは、ミステリー系だ。ミステリーは、読みながら、同時進行で、犯行のトリックや犯人の動機を考えることができる。ただ読んで終わるよりも、「何かを考える」時間が大好きだった。登場人物の動きや発言、ちょっとした息遣いなど、本を読んでいるはずなのに、まるで臨場感を味わっているかのような錯覚を起こしてくれるのが楽しかった。心臓が高鳴るのが分かる。そして、最後には真相が分かる。正しかった時は勿論嬉しいし、間違っていたとしても納得を得られる。ミステリーは読み終わることに意味がある。読み終わらないと真相が分からないからだ。要はクイズそのものだ。しかし、クイズのように単純なものでもない。物語の流れ、登場人物の言動、環境や設定等、非常に多面的な状況の中で考えていく必要がある。一言一句、一場面一場面、決して逃してはいけない。そこには、緊張感とワクワクとドキドキが身を潜めている。だから、ミステリー系にどっぷりハマった。特にアガサ・クリスティーやアーサー・コナン・ドイル、バークリー、ヴァン・ダイン、エラリー・クイーン等の作品が好きだった。その頃になんとなく気づいていたことがある。先ほども書いたが、ただ読んで終わるではなく、「何かを考える」ことが好きだということ。つまり、ただ読むのではなく、他に何かを行うことができると、読書は楽しいんだと気づいたのである。ただ、その時は、それが「何かを考える」だったというだけなのだ。

ある程度、ミステリー系を読んでみると、次はファンタジー系やディストピア系にハマった。例えば、『指輪物語』や『グイン・サーガ』、『ナルニア国物語』、『1984年』、『華氏451度』等だ。こちらは、どちらかというと現実と比較をすることで、それとの違いや同じところを思案するのが好きだった。本当には無い話なのだが、突然明日から変わってしまうんじゃ無いかと緊張感を持って読み進めていたと思う。意外とファンタジー系は、現実に置き換えやすかったりして面白いんです。普段の何気ない日常は、いわばファンタジーと一緒なんです。例えば、嫌な上司は、次の町の敵と考える。いかに自分の能力や資質を駆使して、嫌な上司を振り向かせる。みたいな。ディストピア系は、視えなかった視点を捉えることに役立ったりします。ほとんどのディストピア系は、「○○が過剰に発生したら」という構成となっています。些細なことでも、しっかりとその中身を覗くことで、大きな問題になることを未然に防いだり、逆に大きな影響を与えるきっかけになったりもする。視点が広がれば、また感じることや思うことの幅も広がってきた。

次にはハマったのは、恋愛系だった。中学生や高校生の時で、実際に恋愛をし始めた頃だったので、余計に興味があったんだと思う。恋愛系の本は、多種多様だ。同じ恋愛など無い。なぜなら、恋愛とは、その二人だけの形なのだから。初恋は小学生の頃だったが、その頃はまだまだ自分でもよく分からない状態だった。隣にいるだけで、なぜか緊張して、声もかけられない。目を合わせようものなら、すぐに目を逸らしてしまいたくなる。何も喋っていないのに、すぐに声は枯れ、よく分からない言語を放つ。「これが好きなのか」と頭で考えようとしても、理由よりも彼女の顔や声ばかりが頭の中を侵食する。恋愛小説を読めばきっと、その理由が分かるかもしれない。そう思って読み始めたが、いつまで経っても理解できなかった。自分の気持ちが分からなかった。それ以上に相手の気持ちなんか、もっと分からなかった。だから、諦めて恋愛を沢山し、実際に経験を積んでみようと思った。そして、いくつかの恋をしていった。少しずつでも、文章の意図や女性の思いが気付きやすくなってきたと思っている。が、完璧ではなく、まだまだ五分五分ってところなので、相手とのコミュニケーションの中で築いていけるように心掛けられるようになったと思う。そして結局のところ、人間って人によって全然違うので、どんだけ知識や経験があっても役に立たないことが多いことも分かった。唯一効果があるとしたら、「違う」ということが分かった上で、「相手と話す」ことができると実感できたことかな。まあこれは、女性に限ったことではなく、男性だろうが誰だろうが、人間であれば、みんなそうなんだが。正直、コーチングよりも人間関係を円滑にしてくれる要素は大きいと思われる。それに、コーチングの要素も入れば、そりゃもっと人間関係良くなるでしょ理論ですね。勿論、コーチングと交わる部分も多いと思うが。

ミステリーもファンタジーも恋愛も、結局のところゴールなんて無かった。読めば読むほど、ゴールなんか見えなくなる。むしろ、それぞれの規模の大きさをジワジワ知っていく恐怖がある。少しずつ円が広くなっていくイメージ。なんだけど、興味が尽きることは今のところ無い。そこが今でも不思議なところ。答えを求めて走り出したのに、どんなに走ってもゴールは見えず、ビッグバンのようにどんどん遠ざかっていく。ずっと走り続ければ疲れるし、もう辞めようかと思ってもいいはずなのに、その兆しは現れてこない。だから、いつまでも読み続けられるのだろうし、どんどん読みたいジャンルも増えていくんだと思う。まさに円が大きく広がっていくような感じで。そして、その円は、点でも平面なんかでもない。幾重にも広がりを持っている。つまり、一つの事象から複数の広がりの可能性を抱いている。子どもの頃に読んでいた本を大人になって読んでみると新しい発見がある、というのが分かりやすい例であろう。そして、その広がりは、本というより、人間そのものだと言っていい。前述したように、人間は人によって全然違う。十人十色なのだ。他人と話したり、本を読むことで、その広がりは大きくなり、奥行きも出てくる。それが、おそらく人間性といわれるものなんだろうと思う。だとしたら、読書への興味が尽きない理由は、他者への興味が尽きないということでもあるのだ。

読書は、「過酷」なものだと言ったが、人と付き合うのも「過酷」である。特に、日本人は、相手のことを考え、思い遣り過ぎてしまう傾向がある。それ自体は悪いことではなく、大変素晴らしいことなのではあるが、それ故に自分への労りの気持ちが減少してしまう。それによって、他者を上にしてしまい、自分との差や違いにばかり目がいってしまう。全てがネガティブな方向にいってしまう。これらは、全て他者のせいでない。全部自分のせいなのである。だから、余計に自分を苦しめてしまう。人間は、みな全員「違う」のである。それを読書は教えてくれた。対等に人と話す土俵を築いてくれた。何事も適度が肝心なのであり、ネガティブになり過ぎては自分が保たないし、ポジティブになり過ぎても浮かれてしまう。常にフラットな感覚で物事をキャッチできるようになったのは、読書そのものに他ならない。だからといって、ある程度の感情の起伏を忘れないように、人付き合いが増えたのは良かったと思う。同じことなのだが、何か一つのことばかりに固執してはいけない。固執は、全てのことを固執させてしまう。カチカチの人間になってしまうのだ。まあ、本は様々なジャンルがあるので、そういう意味では固執しずらいが、文字ばかり見ていると、本当に喋れなくなってしまう。

実際に、そんなことがあった。口から言葉が出てこないのだ。口が話すことを忘れてしまっているのだ。喉元には、言いたいことが出かかっているのに、音として発現することができない。その時は、本当に苦しかった。人が嫌いな時期だったので、余計に遠ざけてしまっていたのだ。そんなことでは、経験も何もできない。今の僕からは全く想像も付かないと思うのだが、まさに地獄そのものであった。その頃を思えば、さっきから書いている「過酷」なんて、大した苦労でも何でもないのだと気付く。ある意味、それらも知識なのだろう。そんな経験を経て、気付いたら「過酷」から「娯楽」に変わっていった。もうこれだけのことだけでも、十分に自分の世界への見方は、変わったと思う。「娯楽」に変わってきてから、その「世界」は更に変容していった。自分が何色なのかも忘れてしまった。ただ分かっていることは、現在進行形で自分の色が変わっているということだ。僕は、子どもの頃、自分の色つまり自分自身というものが大人になることで固定化されると思っていた。大人という特殊な通過儀礼を乗り越えることで、僕というものが100%分かるものだと考えていた。でも違った。いつまで経っても、僕は何かに落ち着かず、昨日と今日で少し変わっていったりする。だからといって、自分のことを全然掴めないわけでもなく、現状の自分自身なら8割方は分かるようにはなった。(と思っている)という始末。そう、大人になっても、常に成長し続けているのだ。先輩や後輩から学ばせていただくこともあれば、子どもから学ぶことも未だに多い。そんな日常。そして、新しい本もどんどん出版され続けている。どこまで成長し続けるかは分からない。だけれども、自分でピリオドを打つ必要もなくなった。ただ、貪欲に成長し続けるだけ。そこに、「読書」は欠かせないものなのである。

読書のことについて僕が思うことを、つらつらと書いてきたが、結局取り留めもない感じになってしまった気がする。しかし同時に、やはり読書とは、僕にとって人生そのものだということを改めて分かった。たった一人の人間でさえ、その半生を簡単に説明することはできない。名刺に書いてあることは、ただの肩書きに過ぎず、そこには書かれていないものが、その人の中に息づいている。そのちょっとした出来事を本で追体験できる装置は、まさに本の素晴らしいところであり、そこから自分なりに解釈を加えることもできる。読書とは、自分を彩っていく材料の一つなのである。だから、僕は、本を読むことをこれからも辞めないだろう。そして、僕自身の人生を更により良いものに変えていくだろうと信じている。自分という、変わり続けている輝かしい色を持ち続けながら。

「空の色」をただ嘆き 「道の険しさ」を憂いたが
問題は空の下 道の上にいる「人間」の方だと気付く

色に理由などはなく 険しさに意味などはないが
歩くという行為に意味を含ませてゆくのは 自分自身だと気付く

Aqua Timezより『歩み』

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?