見出し画像

ワーママ、仕事でミスをする

先日、仕事で大きなミスをした。
具代的な内容を書くことはできないのだけど、簡単に言えば、私の確認ミスで、多大なる人に迷惑をかけてしまったのである。

数カ月前の、1通のメールの見落としが原因だった。たった1通。されど1通。誓って、数カ月前のその時期、私が仕事に怠慢だったわけではない。ただ、一瞬の気の緩みというか、大切なことを見逃さないために必要な目のかすみというか、疲労というか、そんなことが重なったのだと思う。

ミスが判明したとき、私の目の前は暗転した。かすむどころか、視界が歪んでほとんど何も見えなくなった。終わったーー。というのが真っ先に浮かんだ感情で、それからすぐ、後悔の念と罪悪感、申し訳なさが胸をギリギリとかきむしった。さらに経つと、そこに恥ずかしさなんかも加わってくる。

自分のことを評価してくれていた上司、慕ってくれている後輩の目が気になってくるのだ。この期に及んで「人からどう見られているか」を気にする自分にも反吐が出た。

まるで定型文のような謝罪の言葉を各所に発信しながら、私の胸はどんどん締め付けられていった。せめて自分自身にはと、心の中でどんなに言い訳を考えたところで、どう考えても私のせいで、猛省するしか他に選択肢はなかった。

「仕事の評価とその人自身の価値は関係ない」
「自分を責めるのをやめよう」
「他人軸でなく、自分軸で生きよう」

仕事では日頃から自己啓発系の記事を作っている。だからこそ、なんとかポジティブになろうと、これまでに培ってきた知識を総動員してあがいてみるものの、うまくいかない。人って、自分のことになると、本当に弱い。自戒もこめて書くと、他人事になると強い人ほど、当事者になると途端に弱くなるのかもしれない。

そんなわけだから、当然、ごはんもおいしくないし、夜もうまく寝つけない。「なんてことをしてしまったんだ」という思考が頭の中をぐるぐる回り、関係者の方々の顔が浮かんでは消えるを繰り返していた。自分でもずるいなぁと思いながら、仕事でこんなことがあったと夫に泣きついてみるものの、慰められたところで到底開き直れるわけもなく・・・・・・。むしろ自己嫌悪に陥って、負のループ。

4歳になる息子が、七夕に向けた制作課題を保育園から持ち帰ったのは、そんなときだった。課題といっても、そんな大層なものではなく、折り紙を半分に切って作られた短冊が2枚渡され、そこに親子で協力して願い事を書いてきてください、というもの。これは息子が保育園に通い始めてからは毎年恒例の課題で、園に隣接しているショッピングセンターの屋内エントランスに、笹にぶらさげて展示されるのだ。

ショッピングセンターに大々的に置かれることを知らなかった(課題提出後、きちんと説明があった記憶)0歳児クラスのときは、息子がまだクレヨンを渡しても口に入れるような月齢だったこともあり、私が「家族がみんな健康でありますように」という、いわば定番の願い事をボールペンでササッと書いて提出していたけれど、それから数年を経た今年は違う。私たちが日常的に通りがかる(つまり、息子が自分の短冊を見るたびにうれしくなる)場所に展示されることを、私も夫も知っているし、何より、息子はクレヨンで上手に絵を描ける。自然と、息子から短冊を受け取る手に気合いが入った。

いくら仕事で落ち込む出来事があったとしても、日々の育児は続いていく。「ちょっと待ってよ」と思っても、残酷なくらい待ってくれないのが、子育てというもの。保育園にお迎えに行き、教室を出た途端、お友達と猛ダッシュされると、物理的にも待ったなしなのだ。大切な我が子が怪我をしないよう、大声で注意喚起しながら、ひたすら追いかける。(ここで無視できないのは、何事も性別で決めつけるのはナンセンスだと思うから個人差だと信じたいけれど、脇目も振らず猛ダッシュしているのは男の子ばかりという現実)

ワーママ歴、3年とちょっと、考える暇なく頭の中を仕事のことから家庭のことに切り替えて息子と接することには、もはや慣れている。

だからその日も「よっしゃ書くぞ」と、私は夕食後、保育園帰りには少々グズっていたものの、空腹が満たされてすっかりご機嫌になった息子に、元気よく向き合った。から元気といえばそれまでだけど、だからといってすごく無理をしているという感じでもなく、もうこれは、育児をしながら働いている人に埋め込まれていく機械的な癖というか、なんだかそんな感じ。慣れさえすれば、ビジネスマンとしての顔と、親としての顔って、案外自然に使い分けられるものなのだ。

さて、いざ、何を書くかという話になり、ダイニングテーブルを囲んで家族3人、うーむと唸った。テーブルの上では薄紫と黄色の短冊が、仲良く二つ並んでいる。息子はまだ字を書けないので、字は親が書いて、その周りに息子がお絵描きをすればいいということになり、まずは息子に願い事をヒアリングするところから始まったのだけど、このヒアリングが大変だったのだ。

というのも、息子は「願い事」という単語を知らなかった。「お願いします!」とか「お願いね」とかは日常的によく使うので、当たり前に知っていると思っていたけれど、それは大人の思い込みというもの。たしかに、普段の会話で出てくる「お願い」と、七夕で空に向かって祈る「願い事」はニュアンスが若干違う。
息子の疑問ももっともだ。かしこまって「願い事ってなに」と訊かれて、どう説明したらよいものか、夫と二人、一瞬言葉に詰まってしまった。

「・・・・・・ほしいものを書いたら?」と言う夫に、「プレゼントをねだるのもどうなん? 将来どうなりたい、とかは?」と反論する私。「将来ってなに」と息子。「大人になるころってことかな」と答えると、息子は頭を抱えて「うー! それは、難しい!」となってしまった。そりゃそうだよな。大人でも夢や目標がわからなくなるくらいだもの。

視点を変えて、「会いたい人とか、いる? ウルトラマンとか、エルサとか」と、息子が大好きなキャラクターを例に挙げてみたのだが、「え〜それは、別に。ほんとにいたら怖い」と息子。そこは大人っぽい考え方するんかい・・・・・・。

「やりたいこと、したいことを書くのはどう?」と夫が言ったので、「それはいいね!」と私も賛同し、息子の答えを待った。ただ、ここまで、あまりに色々と考えすぎて頭が混乱していた息子は、長々とよくわからないこと、つまり、短冊という限られたスペースに綴るのが難しいことを主張しはじめた。その時点で息子が疲れてきていることがわかり、先に絵を描かせることに。とりあえず絵を描いてから、考えよう!

保育園の先生からも「製作(工作)がすごく好きですね」と言われる息子は、クレヨンを手にした途端、いきいきと2枚の紙に絵を描きはじめた。
目玉焼きと、ベッドと、地図。
息子の絵はいつだって自由だ。

描き終えたころ、ふと聞いてみる。
「お星様にお願いしときたいこと、ある?」
息子はすんなり、こう答えた。
「お花をよしよししておいてください」

やさしい彼の、とっておきの願い事だった。
そうだね、願い事って、自分や家族に関わることだけじゃなくても、いいだもんね。願い事も、もっと自由であるべきだよね。そこでやっと、自分がいつしか、息子にも定型文じみたことを言わせようと躍起になっていたことに気づいたのだった。定型文は、謝罪の言葉だけで充分なのに。

ああもう、自分が嫌になる。

いつもは「やっちまった〜!」くらいで笑って流せることも、仕事上のあれやこれやがあったからか、私を落ち込ませるのには充分な要素になってしまった。うまく切り替えできていると思っていたけれど、完璧な切り替えなんて、いくら親であっても、できるわけなかったのだ。何をどうあがこうと、私の心は一つしかないのだから。新しいものと取り替えっこは、できない。つながっている時間の中で、その時々に合わせて色は変わるかもしれないけれど、私の心はずっと私の中にある、ただ一つの大事な塊のようなものなのだ。

本当は、心に切り替えスイッチなんてないのかもしれない。仕事中の私も、母親としての私も、ぜんぶ、ただの私。

そんなことを思いながら、息子に言われた通りの文面を、私は短冊の余白に書き記した。もう一枚の短冊には、こちらも息子の指定で、「ガチャガチャがたくさんあるところで、子供向けのガチャガチャをしたいです」と書いた。これは息子自身がやりたいこと。自分のことを願うこともまた、すばらしいことだ。バタバタする平日に、結構な時間をかけて作業をしたぶん、正直なところ「したいことあるんじゃん! 早く言ってよ」とならないこともなかったが、最後にきちんと自分の願望を導き出せた彼には拍手を送りたい。

無事、二枚の短冊をクリアファイルに入れ、忘れないよう夜のうちに登園用のリュックに詰め込んだ。しばらくは親子共々、達成感に浸っていた。

まだ保育園だから年に数回しか「おうち課題」はないけれど、小学校にあがればきっと、毎日のように宿題が出て、その中には親が手伝わなければいけないことも、少なからずあると思う。そんなとき、おそらく未来でもあくせく共働きをしている私と夫は、顔をしかめることだろう。ただでさえ忙しい平日の学童お迎え帰りに、宿題なんて。親子の談話や睡眠時間を削ってまでやる価値のあることなのか? と。保護者懇談や進路面談が平日の昼間にしか実施されないとも、聞いたことがある。全てではないにしても、目立った改革もなく、専業主婦や近所の人や近くに住む親戚が子供のめんどうを見てくれるような深めのご近所付き合いが当たり前だった時代のルールのまま、小中学校が動いていることには疑問を感じる。だから未来で顔をしかめる自分たちを責めるつもりはさらさらないけれど、ただ、この日、短冊を完成させてリュックに入れたときに感じた、幸せな達成感だけは覚えておきたいなと強く思った。

次の日の朝、登園リュックを背負った息子とスーツ姿の夫を玄関で見送っていたとき、家を出ようとした息子が私を振り返った。

「ママ、間違えたら消しゴムで消してね!」

たぶん、深い意味はない。息子はお絵描きするとき、クレヨンをメインで使うので、まだ消しゴムというものを使ったことがない。保育園か絵本かテレビか、どこかで知ったのだろう。消しゴムは、間違って書いてしまった字を消すものだと。前日にお絵描きをしたものだから、覚えたての言葉が喚起されたのかもしれなかった。

息子はそのまま、「行ってきます!」と、はじけるような笑顔で走り去った。

私はといえば、息子と夫に「いってらっしゃい」と手を振ったままの格好で、その場に立ち尽くしていた。ここ数日、私の体の中を覆い尽くしていた灰色の霧が晴れたような、そんな感覚だった。

そうだ、間違えたら、消しゴムで消せばいいんだ。そして何度でも、書き直せばいい。間違えないに越したことはないけれど、間違えても、ちゃんとそれを消す道具があるのだから、使えばいい。消しゴムがダメなら修正ペンだってある。よりよいものを書き込むために、よりよい明日を描くために、それらを使うことは、決して恥ずべきことではない。

仕事のミスも、反省したあとはきちんと修正して、次のよりよい仕事につなげていけばいい。そう思えたとき、私のたった一つの心は救われた。

「人とのご縁」とはよく言うけれど、人だけでなく、言葉にも「ご縁」ってあると思う。
そのとき、その場所で、出合うべくして出合う言葉。驚くようなタイミングでやってきて、自分を救ってくれたり、背中を押してくれたりする言葉。あまりにも自然に現れることがあるから気づかないことも多いけれど、その時々の自分に必要な言葉は、身近な人との会話や、ふと耳にした音楽、街で見かけるキャッチコピーなどに潜んでいる。本をよく読むからとか、人脈が幅広いからとか、言葉を扱う仕事をしているからとか、そういうのは関係ない。ただ、日々の生活の中で、自分に訪れる言葉とのご縁に気づくためのアンテナを張っているかどうかが重要なのだ。

子育てをしながら仕事をしていると、大変な面ばかりに目がいきがちだけど、時には子供が、ビジネスマンとしての私を救ってくれることもある。だからこそ、踏んだり蹴ったりの毎日を、なんだかんだ楽しく生きていられるのだ。息子がくれた言葉を胸に、私は今日も仕事に向かう。

励みになります。