見出し画像

何からだって学べる


2023年12月26日(火)朝の6:00になりました。

変わっていくこと、それが学ぶということ、知るということです。

どうも、高倉大希です。




何が起こったか。

わたしたちは、できごとばかりに注目しがちです。


よいできごとは、よい。

わるいできごとは、わるい。


できごとそのものに、解釈すらも委ねてしまっています。

本当は、何からだって学べるはずなのにです。


コミュニケーションには、つねにおくり手とうけ手が存在する。情報には、かならずしもおくり手とうけ手があるとはかぎらない。さきに天体をも情報のおくり手であるといったが、正確にいえば、天体が情報をおくりだしているのではない。情報はその天体とともに存在するのである。その情報を情報としてうけとめ、それを解読するのは人間の側の問題である。

梅棹忠夫(1999)「情報の文明学」中央公論新社


芸人さんのラジオを聴いていると、よくこんな話を耳にします。

「どれだけ嫌なことがあっても、ラジオで話せばいいやと思うようになった」


起こったできごとがわるいことだったとしても、ラジオのトークにすればいい。

ここまでくるともはや、わるいできごとをラッキーだと思うようになるそうです。


できごとそのものの、よしあしではありません。

実際に起こったできごとを、どう解釈するかです。


僕らが話をするのを聞いて、どうしてそんなおもしろい経験ばかりしているのだろうと、一般の人は思うかもしれない。けれど、それは違う。僕らだって、普通の人と同じように平凡な普通の毎日を生きている。その日常の中から、素材を見つけ出し、料理しているだけなのだ。

島田紳助、松本人志(2003)「哲学」幻冬舎


できごとに感情が引っ張られてしまう気持ちは、よくわかります。

よいことがあれば嬉しくなって、わるいことがあれば悲しくなります。


ただ、そんなできごとに振り回されていてはキリがありません。

できごとはつねに、自分の外で発生するものだからです。


外で起こるできごとを、自分でコントロールすることはできません。

コントロールできないものに委ねると、すべてが運任せになってしまいます。


美術評論家的な人がゴッホの絵について「ゴッホはこういうふうに見えていたんですね」なんて言うけどもね、そんなはずはないよ、あんなふうに見てたら危なくて道を歩けないよ。絵の具があんなにゾロゾロしてるような道なわけないじゃない。ゴッホがそういうふうに「描きたかった」だけの話で、そういうふうに「見えていた」わけじゃないんですよ。

横尾忠則(2021)「YOKOO LIFE」ほぼ日


何が起こったかではありません。

起こったことをどう解釈するかです。


それはすなわち、君たちはどう生きるかです。

できごとに委ねてはなりません。


僕たちは、自分で自分を決定する力をもっている。

本当ならば、何からだって学べるはずなのです。






サポートしたあなたには幸せが訪れます。