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どんな「当たり前」に囲まれて過ごすか


2024年3月31日(日)朝の6:00になりました。

いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向うに行ってしまおう。

どうも、高倉大希です。




わたしたちは、身のまわりの「当たり前」と共に暮らしています。

そんな「当たり前」とのギャップによって、悩んだり苦しんだりします。


海外に行けば「当たり前」が、まるで違うことに気がつきます。

歴史を遡れば「当たり前」が、まるで違うことに気がつきます。


それでもやはり、もっとも影響を与えるのは身のまわりの「当たり前」です。

どんな「当たり前」に囲まれて過ごすかで、暮らしは大きく変わるのです。


「収入が高くて困っている」とか「自分の異性が好きなんだけど、どうしよう」と悩む人がいてもよさそうなのに、見当たらないのはどうしてでしょうか?それは僕たちが生きる社会には無数の「当たり前」があり、そこから外れる人が悩んでいるのです。

深井龍之介(2022)「歴史思考」ダイヤモンド社


いわゆる進学校では、大学受験をすることが「当たり前」とされています。

まわりが必死に勉強しているものだから、自分も当然のように勉強します。


いわゆる会社では、スーツを着て仕事をすることが「当たり前」とされています。

まわりが着ているものだから、自分も当然のようにスーツを着ます。


良いか悪いかは、また別の話です。

大切なのは、偏った「当たり前」に影響されていると自覚しておくことです。


諸子百家から歌比丘尼、坊さんから先生、新聞人からラジオのプロデューサーまでをつらねて、そのすべてに共通する点は、かれらがみんなシンボル操作の熟練者であるという点である。

梅棹忠夫(1999)「情報の文明学」中央公論新社


変な「当たり前」に苦しんだとき、ただ文句を言っても仕方がありません。

わたしたちが進む道は、次のふたつのいずれかです。


1.その「当たり前」の中でうまくやっていく。

2.その「当たり前」を変えるために働きかける。


もしかしたら、他の「当たり前」に移動するという手もあるのかもしれません。

しかし多くの場合においては、移動したとしても結局は同じ壁にぶつかります。


世の中のほうは、私のためにあるわけじゃありません。私たちが生まれてくる以前から世の中は先にあります。私の好き嫌いとは関係なく、すでに世の中は存在している。だったら、とりあえず受け入れるしかありません。それが大前提です。

養老孟司(2023)「ものがわかるということ」祥伝社


変えた方がよさそうに見える「当たり前」なんて、この世にいくらでもあります。

しかし、すべての「当たり前」を変えられるほどの時間は残されていません。


だからこそ、選択が必要になります。

どの「当たり前」を変えることに、注力するのかという選択です。


それ以外はいかに、その「当たり前」の中でうまくやっていくかです。

近くに見えるものにいちいち反応いていたら、簡単に日が沈みます。






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