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小説「哀しみのメトロポリス」#1

#創作大賞2024 #ミステリー小説部門 #六本木

—あらすじ—
夜の六本木で客を引くキャッチの真山は、沖縄からこの街へとやってきた若い二人の男女と出会う。男は陸自上がりの青年である康佑、その恋人はカナといった。
二人は夜の街で知り合った悪い仲間とつるむようになり、ある夜カナは仲間たちに康佑の眼の前で輪姦されてしまう。
都会の非情さと過酷さに打ちのめされた康佑だが、カナを輪姦した連中を許してはおけず、復讐のために動き始める。
一方、真山は街を治める暴力団幹部より非正規のルートで流れ込んでくる違法薬物とその関係者を捜すよう命じられ、調査の過程で浮かび上がったのが、カナを輪姦した不良外国人の一味だった。—

(一)
 
 夜中の二時を過ぎると、街から人の姿が減り始めた。平日の夜だ。元々、人の数は多くない。空車のタクシーが群れを成し、片側三車線もある広い道路を埋め尽くしている。
 日付が変わるまでに何組かの客をキャバクラに入れた。うち一組は「女の身体に触りたい」といい、俺はお触り有りの店に連れていった。一時間で一人につき一万三千円、店の女の子のドリンク代は別料金だ。
 客を一人連れていけば、その客の使った金額の一割ほどがバックとして俺の懐に入る。値の張るシャンパンのボトルでも空けてくれれば儲けものだが、このご時勢、そんな羽振りのいい客は決して多くない。
 街から酔客の姿が消えてゆき、渋滞するタクシーのヘッドライトと店のネオンで、ただ通りだけが虚しく明るい。そしてぽつりぽつりと、そのネオンも消える。警察の手入れ対策としてビルの前にしきてんを立たせていたキャバクラが営業を終え、看板の照明を落とす。俺たちキャッチにバックが支払われるのは、それぞれの店が看板を畳んでからだった。
「キャバクラは」
 歩道を歩く男に声をかけた。まだ営っている店もいくらかある。
「まだ営ってますよ、あちこち」
 茶色く染めた髪に、サロンででも焼いたのか、肌も髪と似たような色をしている。今ではあまり見なくなったが、ガングロ、というやつだ。左耳のピアスが茶髪の隙間からちらちらと覗き、夜の街の明かりを反射していた。
 ガングロが一瞬足を止めたが、何か小さく呟き、また歩き出した。「いや、でもな・・・」とそれは聞こえた。酔っている風ではない。
「どんなのお探しですか」
 歩くガングロの背中に声をかける。
「キャバクラ、まだ営ってますよ。セクシー系も」
「・・・セクシー系?」
 ガングロが足を止め、訊き返した。
「お触り有りです。服の上からですけどね」
「お触りかあ・・・」
 ガングロがいい、また歩き出した。
「抜きはないの?」
「抜き、ですか・・・」
 六本木に性風俗店はほとんどない。射精したければ、クラブで乱痴気騒ぎをしている女たちに声をかけホテルに連れ込むか、タクシーで西麻布を超え、渋谷まで走るかだ。
「六本木には抜きの店ってあまりないんですよ。セクシー系をお探しですか」
 交差点へと歩きながら、声をかけ続ける。
「AVキャバとかはどうですか。キャストは全員AV女優です」
 退き時が近い。UFJ銀行を超えると、六本木交差点に面した交番がある。
客引きは犯罪だ。都の条例にひっかかる。現場を押さえられれば、その場で逮捕される。だが、もう少しで落ちそうだ。遊び足りないでいる。
「AVキャバって、相場はいくらくらいかな」
 ガングロが歩調を緩め、訊いた。
「インディーズなら安いですよ」
 そういい、黙った。UFJ銀行を過ぎ、右手に交番が見える。ガングロが含みを残したまま、歩き続けていた。
 すると突然、ガングロが無言のまま振り返り、俺の肩を摑んだ。重心を奪われる。一瞬だった。素人の動きではない。俺は咄嗟に腰を落としたが、すでに横へと身体が流れていた。
 煉瓦敷きの地面に片手をつき、もう片方の手でガングロの胸倉を摑んだ。胸ポケットに放り込んでいた煙草の箱とオイルライターが、音を立てて転がった。
 交番の前だった。物音を聞きつけたのか、二人の警官が飛び出してくる。加勢してくれるだろう。これ以上の荒事にはならずに済みそうだ。
 俺はそう思ったが、どういうわけか二人の警官はガングロに加勢し、三人がかりで俺を交番の中へとぶち込んだ。アルミ製の引き戸のレールを超え、四人で縺れながら中へと転がり込む。スラックスの膝が地面に擦れ、穴が開いた。二人が俺をうつ伏せに抑え、両手を背中で固めているのはガングロか。
 中にいた警官の一人が俺の名を呼んだ。
「なんだ、真山さんか・・・」
 首を捻り、顔を上げる。顔見知りの警官がそこにいた。
「なんだよ、これは・・・」
 ふたりの体重で肺が圧迫され、思うように声が出ない。
「運が悪かったなあ、真山さん」
 中田、という万年巡査だった。麻布署地域課の制服警官だ。
「午前二時三十四分、都市条例違反行為!」
 背中の誰かが叫び、手錠の架せられる感触があった。
 後ろからワイシャツの襟を摑まれ、力づくで立たされる。ガングロが俺を見ていたが、すぐに視線を逸らし、他の警官と何か小声で話し始めた。
「おいおい、ありゃ警官か!?」
 俺は驚きつつ訊いた。茶髪にピアス、日焼けした肌。こんな私服警官がいるものか。
 ガングロがこちらを向く。俺はその日焼けした顔をまじまじと観察した。麻布署地域課に籍を置く警官の顔は頭に叩き込んである。だが、見覚えのない顔だった。麻布署の警官ではない。
「どこから引っ張ってきたんだ、このガングロを?」
 俺はガングロに眼をやったまま、中田に訊いた。ガングロがまた俺から視線を逸らし、奥の部屋へと消える。
「いえないんだけどね、ホントは。真山さんならしょうがないね。湾岸署だよ」
 入口に眼をやると、赤色灯を点滅させたパトカーがいつの間にか交番の前に着けていた。サイレンは鳴らしていない。助手席のドアが開き、警官が交番に足を踏み入れた。中にいた警官数人と敬礼を交わし、俺を見る。
「逮捕の事実がありましたんで、署に連行します。誰か」
 警官がお供を募った。
「じゃあ私が」
 中田がいい、手錠を架せられた俺の両手を後ろで摑んだ。
 交番からパトカーへと歩道を横切る。警官が後部座席のドアを開き、乗り込んだ。
 中田が俺の背中を押した。腰をかがめ、乗り込む。続いて中田。
 運転席の警官がバックミラー越しに俺を見ていた。中田が内側からドアを閉める。
「いきましょうか」
 中田がいうと、運転席の警官がギアをドライブに入れた。
 タクシーの群れが道を塞いでいる。運転席の警官が左手で何かを操作し、サイレンを鳴らした。
「えー、六本木交差点内、駐停車禁止です。タクシーの運転手さん、ただちに移動してください」
 パトカーの拡声器越しに、助手席の警官が命じた。
 
 免許証やカード類の入った財布、名刺入れ、スマートフォン、煙草、ライター、そして部屋の鍵。光沢のないくすんだステンレスのトレイにそれらが並べられた。
「返却される持ち物に間違いがなければサインを」
 会話のために無数の穴が空けられた強化ガラス越しに、係員の男がいった。
 窓のない、閉鎖感に満ちた部屋を出る。
 調書を取られるために麻布署から護送されたこの霞が関にある東京地検まで、真紀が身柄の引き受けに来ていた。
 俺が姿を見せると、真紀は振り向きもせず建物の外へと歩き、車へ向かった。
 外来者用の駐車スペースに、深い緑色のゴルフが停まっている。互いに無言のまま俺が助手席に乗り込むと、運転席の真紀がキーを捻った。セルが回り、エンジンに火が入る。
「車、どうしたんだ?」
 俺は訊いた。
「林くんに借りたの」
 林は真紀の店のバーテンダーだ。かつては下北沢の辺りでバンドを組んでいたが、今は町田の外れに居を移し、職場のある六本木に通っている。
 霞が関から下道で六本木へ。週末の夕方。どこも道は混んでいる。ペーパードライバーである真紀の運転はおっかなかった。
 東京タワーをバックに、外苑東通りを六本木交差点方面へと走る。交差点のいくらか手前で路地へと折れると、有料のパーキングがあるはずだった。その路地への入り口を、客待ちの個人タクシーが塞いでいる。
 俺は運転席へと腕を伸ばし、クラクションを鳴らした。
「ちょっと・・・」
 真紀が何かいいかけた。
「いいんだよ。こうでもしなけりゃ連中は退かない」
 クラクションを鳴らし続けた。途切れさせず、ステアリング中央のホーンボタンを押しっぱなしだ。だが、タクシーは退く気配を見せず、ただそこに居座っている。
 俺は車を降りた。タクシーに近づいてゆく。サイドミラーでも蹴っ飛ばしてやれば道を空けるだろう。
 ミラーでこちらの動きを視認したのか、リバースランプが一瞬灯った。オートマチックのギアをドライブに入れたようだ。タクシーが群れを作るには、まだ早い時間だった。他の車線は空いている。運転手が焦った様子でステアリングをこねくり回し、タクシーは右の車線へと移った。
 真紀がゴルフの尻をパーキングの白枠に押し込み、車を降りた。パーキングから路地を挟み、差し向いに建っているビルの四階に、真紀の店はある。
 六本木で二十年かそこら続いている狭いショットバーだった。真紀はこの店の雇われ店長を務めており、俺とはもう二年になる。十代の終わりからこの店に勤め、六年目である去年、長く店長を兼ねていたオーナーが他の事業に着手するか何かでこの店を任された。店を仕切るには若すぎるように思うが、なんとかやっているらしい。俺は三十の半ばを過ぎているが、真紀はまだ二十五だ。
 エレベーターが四階まで昇り、扉が開いた。狭い踊り場に、営業中はビルの前に立てておく蛍光式の看板が置いてあった。
 エレベーターを降りて左手に、鉄の扉がある。ノブを握り、真紀が扉を開いた。
「いらっしゃいませ」
 カウンターの中から、林がいった。長身に、トレッドの長髪。ハードロックを演るバンドマンがそのままジレベストを着ているように見えるが、職業柄、言葉は丁寧だ。
「着替えてくるね」
 真紀がいい、店の奥へと消えた。店を開ける時間が近い。真紀はブラウスに、レディスジーンズのままだった。
「何か飲みますか」
 青を基調とした店内の照明が、林の肌をその色に薄く染めていた。窓の外には、夕暮れの外苑東通りが見下ろせる。まだ人出は多くなかった。週末の夜だ。ものの数時間で、通りは人と車で埋め尽くされる。
「ラフロイグ」
 いいつつ、煙草に火を着けた。
「ダブルですね」
 棚に並べられた瓶に、林が手を伸ばす。
林がアイスピックで氷塊を砕き始める。開店前、まだBGMも鳴っていない店内に、その音だけが響く。角の削られた氷がロックグラスに放り込まれ、林は手を伸ばし、棚からカウンターへと移されたラフロイグの瓶を再び摑んだ。
 ウエストの絞られたメジャーカップがカウンターに並んでいたが、林はそれを使わず、瓶から直接、グラスにウィスキーを注ぐ。
 ラフロイグを浴びた氷に罅の入る音が鳴り、コースターが置かれる。
「お待たせしました」
 林がいい、コースターの上にロックグラスを置いた。
 麻布署の留置場へぶち込まれ、翌日には検察へ。検事と接見し、調書を取られた。ゴネればそうするだけ、留置期間が延びる。はい、はい、と俺は首を縦にだけ振り、最短で出てきた。この街でキャッチ—客引きの俗称だ―を始めて何年になるだろうか。捕まるのは初めてだ。
「災難でしたね」
 林がいう。
 逮捕されてから、数日ぶりに飲む酒だ。
「車、出してくれたんだってな」
 含んだウィスキーを口の中で転がし、飲み下すと、俺はいった。
「礼をする。何か飲んでくれ」
 カウンター越しに林が両掌を胸の前に開き、答えた。
「いえ、そんな。大したことじゃないんです」
「いいから何か飲んでくれ」
 林が少し困ったように笑い、いった。
「では、ビールをいただきます」
 カウンターの向こうに、ビールサーバのノズルが突き出ている。林はそこからグラスにビールを注ぎ、グラスを掲げた。
「いただきます」
 俺が頷くと、林は一気にグラスを空けた。バンドを演っていた頃は、とんでもない大酒飲みだったといつか聞いたことがある。ひと息つき、林が再びグラスを掲げ、礼をいった。
「ご馳走さまです」
 美味そうに笑って見せる。
 不意に、店内に薄くBGMが鳴り出した。どこかで聴いた曲だ。古い。イントロが終わり、気付いた。ダリル・ホール&ジョン・オーツの「Private Eyes」だ。
 煙草を喫い、その火種を灰皿に押し付けた頃、着替えを終えた真紀が店の奥から現れた。白いワイシャツにワインレッドのネクタイ、黒いジレベスト、腰から下はバーテンダー用の黒い前掛けを巻いている。バーテンダーの正装だ。
「自分、看板を出してきます」
 場を離れる素振りを見せ、林がいった。
「うん、お願い」
 真紀が応え、林が店を出てゆく。鉄の扉が閉められ、看板を支えるキャスターの転がる音が微かに聞こえた。
「あのね」
 咎めるような口調で真紀が続けた。
「林くんが勧めたんだろうけどさ、営業始める前からお酒なんて飲まないでくれる?」
 二本目の煙草を咥え、俺はいった。
「車の礼だよ。きみも何か飲んでくれ」
 真紀が少し笑みを浮かべ、溜息をついた。
「じゃあいただく。でも、あとでね」
 咥えた煙草に火を着け、氷の溶けかかったラフロイグを口に運んだ。
「コオさんに聞いたの」
 真紀がいいつつ、並べられたグラスを磨き始めた。
「江に?」
「そう、捕まった、って」
 江は俺と仲のいいキャッチの一人だ。前々から真紀とも面識がある。見た目は日本人だが、本人は確か、台湾人だといっていた。
「携帯にかけてもあんた全然出ないし、朝になっても連絡つかないし。どうしたんだろ、なんて思ってたら、閉める直前にコオさん、お店に来たの。真山くんが捕まった、って」
 磨き終えたグラスをクロスの上に伏せ、真紀は次のグラスを手に取り、また磨き始めた。
「何があったの?」
 煙草の灰が伸びていた。灰を落とし、火を消さぬまま、灰皿の淵に置く。
「なんで捕まっちゃったの?これまでそんなことなかったじゃん」
「もう一杯くれ」
 ロックグラスを差し出した。受け取った真紀がそれをカウンターに置き、小さく溜息をつきながら、アイスピックで氷を砕き始める。手早く氷の形を整え、それをグラスに放り込み、林と同じく、緑色の瓶から直接、ラフロイグを注いだ。
「声をかけたら警官だった。ガングロに茶髪。耳にはピアスがついていたよ」
 真紀がコースターの上にグラスを置いた。
「顔でわからなかったの?警官だ、って」
 グラスを手に取り、口に運んだ。スリーフィンガー。なみなみと注がれている。砕いたばかりの氷だ。酒は濃く、正露丸の香りがした。
「麻布署の警官じゃなかった。訊くと、湾岸署から連れてきたそうだ。手の込んだことをしやがるね」
 これまでにない、新たな摘発の手法だった。こういった例は、これから増えてゆくのかも知れない。俺の逮捕を知り、江は動いたのだろう。横に繋がりのあるキャッチ連中に、注意を喚起したはずだ。
林が店内へと戻ってきた。ビルの外に蛍光式の看板を立て、外壁に設置されたコンセントに看板の電源を繋いできたようだ。看板に記された店の名は『L』という。
「今夜はどうするんですか、お仕事」
 林が訊く。
「こいつを干したら、今日は帰るよ。街には立たない」
 仕事をする気にはなれなかった。何日も酒を飲めず、煙草も喫えず、風呂にもろくに入れない。朝から晩まで、連日取り調べられ、硬い寝床で何日も過ごしたのだ。
「ゆっくりしたら?今日くらい」
 真紀がグラスを磨きながらいう。
 窓の外を眺めた。陽は落ちているが、街は明るい。照らしているのは、街を彩るネオンサインと街灯だ。いつの間にか人出は増え、外苑東通りの左車線も、客待ちのタクシーで埋まっている。
「そろそろいくか」
 俺は腰を上げ、膝に穴の空いたままのスラックスから財布を取り出した。
「七千二百円になりまーす」
 真紀がいった。俺の飲んだラフロイグ、林のビール、何を飲むのか知らないが、真紀の一杯。そしてチャージまでしっかり取るつもりのようだ。
「釣りはいい」
 俺は財布から万札を抜き、カウンターに置いた。
「いえ、そういうわけには・・・」
 林がいう。
「また来る」
 俺はいい残し、店を辞した。
 
 黒人がカップ焼きそばの湯を切り、逆手に握った割り箸でそれをつつき始めた。ふた口、三口と啜り、首を傾げている。湯を切る前にソースを入れてしまったのか、味が薄いようだ。黒人は啜るのをやめ、それをコンビニのゴミ箱へと捨てた。
「おかえり、真山くん」
 歩道に立っていた江が俺にいう。週の明けた月曜の午後九時。人の数は多くない。
「さっさと出てきたよ」
「そうみたいだね」
 日本語は流暢な方だが、やはりどこかイントネーションに癖がある。
 江は元々、この街にあった外国人クラブの黒服だった。あるとき、不法に滞在している外国人の一斉摘発があり、店に勤めていた女の大半が引っ張られた。やがて店の経営が傾き、給料も出なくなったという。江が店を辞め、キャッチへと転身した数週間後、その店は潰れた。ナイジェリア出身の経営者は借金も何もかも放り出し、この街から消えたと聞いている。
「礼をいう。真紀に知らせてくれたみたいだな」
「見ていたよ、真山くんが捕まるところ」
「そうか」
 助けるわけにはいかないだろう。公務執行妨害で助けた方も引っ張られる。
「汚いことするよね、警察も」
 江の携帯が鳴った。取り出し、耳に当てている。
「どうもどうも、今どこですか」
 馴染みの客か。
「そうですか。案内しますよ。お安くできます。はい、はい。では」
 通話を切り、江がいう。
「仕事が入っちゃったから、いくよ」
 江が背中を見せ、歩き去った。
 金曜の夜になれば、一週間の仕事を終えた勤め人で街は賑わい、土曜になれば、若い外国人や混血児たちが街中のクラブを巡り、大騒ぎをする。だが、平日の夜は静かだ。
 最盛期はやはり、バブルの頃だったという。八十年代の後半辺りか。ジュリアナ東京、お立ち台。毎夜毎夜お祭り騒ぎだったそうだが、当時の六本木を俺は知らない。
 当時から外国人は多かったらしいが、やがてバブルが終わり、歌舞伎町にいた俺が知り合いのやくざの口利きでキャッチを始めた頃、世間はすでに不景気の底にあった。店が出来ては潰れ、出来ては潰れ、さらに新型コロナウィルスの大流行だ。営業を自粛した多くの店に助成金も出たそうだが、体力のない飲食店は片っ端から淘汰され、今も相変わらずなのは、客待ち渋滞を作るタクシーの群れだけだ。
 十分ほどで、江が交差点に戻ってきた。江も俺も、月にいくらか納めている指定暴力団、侠撰会から、六本木交差点の四隅を持ち場として与えられている。
 江がスーツ姿の男をひとり連れていた。ブラウンの革靴に、革の鞄。ネクタイは緩めていない。
「真山くん」
 男を連れた江が俺を呼んだ。
「そっちは?」
「お客さん」
 江がいうと、男は軽く頭を下げた。線の細い男だ。
「お店、探してるんだって」
 クラクションが鳴った。運転手がタクシーを降り、別のタクシーへと近づいてゆく。何か運転手同士で諍いが起きたようだ。
「連れていけよ。あんたの客だ」
 月曜の夜だ。人は少なく、客も少ない。
「でも真山くん、ちょっとね、様子が違う」
 江がいった。俺は少し首を傾げ、江を見た。
「お茶を飲みたいんだって。キャッチと」
 俺から眼を離した江が男を見る。男が口を開いた。
「今日じゃなくてもいいんです。明日でも、明後日でも」
 江が俺に眼を戻し、少し困ったような表情を見せた。妙なことをいう客だ。
 俺はいった。
「何を企んでいるのか知らんが、俺たちは客引きだ。客を店に入れるのが仕事でね。客と茶を飲んだところで稼ぎにはならないんだよ」
 路肩でタクシーの運転手同士が罵り合っていた。交差点に怒号が響く。
「じゃあ、お店にいきます。何でもいいですよ、キャバクラでも何でも。その代わり、近いうちにお話をしたい」
「話っていうと?」
 訊いた。
「なんというか、まあ取材のようなものですよ」
 俺は江に眼をやった。一瞬、江と眼が合ったが、江はすぐに視線を逸らした。
「話せることもあるし、話せないこともある」
「わかっています」
「こっちも一応、非合法な商売でね」
 はい、と男は答え、また頭を下げた。
「予算は」
 話を仕事に戻した。男が答える。
「二万か、三万くらいですか」
「充分遊べるよ、それだけ出せば」
 俺は続けた。
「どんなのがいいんだ?」
 業種を訊いた。キャバクラ、セクキャバ、ガールズバー。金になるのはその類だが、本格的なワインバーも、創作料理の店もある。
「何でもいいんです。お任せしますよ」
 二人の警官が横断歩道を小走りで渡り、二台のタクシーに駆け寄っていった。騒ぎを聞きつけたらしい。 

#2に続く

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