見出し画像

小説「哀しみのメトロポリス」#5

#創作大賞2024 #ミステリー小説部門 #六本木

(十三)
 
 三丁目の交差点に面した四隅の一角に、スティーブはいた。いつもの場所だ。奴はいつもこの場所で客を引いている。店の専属ではない。侠撰会の息はかかっておらず、金を納めてもいないが、スティーブは俺と同じく、フリーのキャッチだ。違うのは、俺の案内する店の大半がキャバクラやホステスのいるクラブであることに対し、スティーブのそれは踊るクラブやバーといったものであり、そして経営者やスタッフ、また客の多くもが外国人や混血児である店という点だ。
「ディスコディスコ、クラブ、コロナ五百イェンヨ」
 水曜の夜だった。いつもの通り、歩く人間の数は多くない。少ない通行人達はスティーブの差し出すチケットを受け取ることなく素通りしてゆく。
「ディスコディスコ」
「スティーブ」
 背後から声をかけた。スティーブが振り向く。驚いたのか、一瞬眼を丸くしたが、すぐにその表情を消した。
「話がある。顔を貸せ」
「ナイヨ、話」
「あるんだ」
「ワタシ今シゴト。忙シイ」
 動く気はないようだ。
「ビールを奢ってやる。一杯飲らんか」
「イラナイ。ワタシ忙シイ」
 瞬間的に右腕を伸ばした。髪を摑む。力一杯握り締めたが、スティーブが頭を退き、髪は指の間から抜けた。短く刈り上げた縮れ毛は、摑むには長さが足りない。
「何スルノ!真山サン!」
 ポロシャツの襟を摑んだ。スティーブが身を捩る。離さなかった。
「乱暴ヤメテヨ!真山サン!!」
 眼と鼻の先に、一階にケバブ屋の入ったビルがあった。五階か六階に、ジャマイカン・バーが入っていたはずだ。喚くスティーブを力づくで引き摺り、ビルのエントランスへと歩いた。
 エレベーターの上昇ボタンを押す。箱は一階にいたらしく、扉はすぐに開いた。スティーブを押し込み、俺も乗った。扉を閉めるボタンを押し、スティーブの襟を摑む手を緩めた。壁に寄りかかっていたスティーブが慌ただしく佇まいを正し、そこだけ異様に白い眼に力を込めて、俺を見ていた。
「何ナノ、真山サン」
 扉が閉まる。スティーブの寄りかかっていた壁に、入居しているテナントが記されていた。六階。ジャマイカン・バー、『キングストン』。六階のボタンを親指で突く。箱が上昇を始めた。
 大きく息をつき、スティーブがいう。
「乱暴イヤヨ」
「俺もだ」
 スティーブが肩を竦め、小さく溜息をついた。
 六階。扉が開き、暗い店内から低音の効いたレゲエが雪崩れ込んできた。
「一杯付き合え」
 声を張り上げたが、聞こえてはいないだろう。店内の音量が大きすぎる。
 客は数えるほどしかいなかった。カウンターに二人、フロアに三人。
カウンターに近づき、スティーブと似たような体型をした女のバーテンダーにハイネケンを二つ註文した。リキュールの類が並ぶ棚の隣に置かれた業務用の冷蔵庫から緑色の瓶が二つ取り出され、その太った女が栓を抜き、カウンターに置いた。スラックスから財布を取り出し、紙幣を二枚置く。釣りはいい、と俺は手を振って見せた。
 スティーブの脇腹を小突き、注意を惹いた。外階段に通じる非常口を指で示す。ハイネケンを一本突き出すと、スティーブはそれを受け取った。
 スティーブを促し、フロアを歩く。非常口の鉄扉を開き、外階段に出た。扉を閉める。店内の重低音に鉄の扉が共鳴し、小刻みに震えていた。
「ナニ、話ッテ」
 不貞腐れたようにいい、スティーブがハイネケンを呷った。階段の手摺に肩肘を付き、軽く曲げた片足を軸足に交差させている。
「とぼけるなよ」
 ハイネケンのバックラベルに眼をやる。輸入業者の名は記されていない。英文が綴られているだけだ。これも例の不正輸入された物だろう。瓶の肉厚は薄く、力を込めて握れば割れてしまいそうな造りだった。
「こいつと一緒に大麻を運んでるだろう」
 スティーブが首を少し傾げた。
「タイマ?」
「大麻だ。マリファナ、ガンジャ、ハシシ」
「知ラナイ」
 首を摑み、押した。スティーブの手からハイネケンが落ち、鉄の階段で音を立てた。
「毎度それだな。シラナイ、シラナイ、だ」
 前方に力を込めた。
「真山サン!ヤメテ!!」
 スティーブの背中が手摺に乗った。その向こうは空中だ。ポロシャツの背が手摺の上を滑る。
「ヤメテ!真山サン!!」
 スティーブが懇願した。
「毎週日曜の昼、トラックに載せて酒と大麻を運んでるんだろう。裏は取ってある」
「知ラナイヨ!!」
 ハイネケンを放り、空いた右手でスティーブの股間を摑み、持ち上げた。手摺の向こう側へと力を込める。スティーブが手摺を後ろ手に摑み、抵抗した。
「ヤメテ!真山サン!!落チルヨ!!!」
「死にはしない。車椅子なら買ってやる」
「ヤメテヨ!落チル!!」
 力を込めたまま、いった。
「スティーブ。あのクソガキどもを俺に差し向けただろう。おかげで酷い目に遭った。俺にはお前をこうしてぶちのめす理由があるんだ」
「知ラナイヨ!ワタシ報告シタダケ!!落チル!!!」
「トラックはどこから来る?吐け」
「ワタシ知ラナイ!ホントニ知ラナイヨ!!」
 白い眼が大きく見開かれていた。スティーブの声は、もはや悲鳴に近い。
「俺が襲われた件については不問に伏してもいい。だがそれは俺の質問に答えることが条件だ」
 全身でスティーブを押した。腰から頭にかけてが、すでに手摺の外側へと飛び出している。
「シブヤ!渋谷カラ来ル!!」
「渋谷?渋谷のどこだ」
「ジャック!クラブ!!」
「渋谷の『ジャック』ってクラブだな」
「ヤメテ真山サン!ワタシモウ話シタヨ!!」
 スティーブの身体を手前に引き、両手を離した。手摺の下にへたり込み、スティーブは頭皮から大量の汗を流しながら、荒い呼吸を繰り返した。
「警察沙汰にはできないんだ。俺も裏で動いてる」
 荒い息をしたまま、スティーブが俺を見上げる。
「また連中を俺の所へ寄越すか」
「ワタシ、報告、シタ、ダケ」
 乱れた呼吸のまま、途切れ途切れにスティーブが答えた。
「スティーブ。お前、この件に関してどう噛んでる?」
 片手で汗を拭い、諦めたようにスティーブが答える。
「紹介シタダケ。プッシャーヲ」
 プッシャー。売人のことか。
「ヴェクターとは?」
 その名を出すと、一瞬、スティーブはまた眼を見開いた。
「トモダチ」
 眼を逸らしたまま、スティーブが呟く。
「スティーブ、もうこの件からは手を退け。俺にも連中を噛み付かせるなよ。でなけりゃ」
 階段に二つ転がっているハイネケンを一つだけ拾い上げ、手摺の向こう側へと放った。ハイネケンの瓶は泡を噴きながら隣のビルの外壁に一度ぶつかり、落下した。店内から鉄扉を通して微かに響くレゲエに、地上のアスファルトで破裂する瓶の音が一瞬、重なった。
「こうだ」
 俺はそういい残し、外階段を一段一段、ゆっくりと、スティーブにその足音を聴かせるように、降りていった。
 
 潰せ。
 阿南はそういった。
 無茶な話だ。一介のキャッチでしかないこの俺に、一体何をどうしろというのか。
 スティーブはもう動かないはずだった。あれほど脅したのだ。もしこれ以上動くとしたら、やつはそれを最後に姿を消すだろう。仕事場としての六本木を棄てるということだ。
 恭選会の市場を荒らし、別のルートで大麻を捌く若い外国人集団。不正に輸入された酒類と共に大麻を載せた、渋谷からのトラック。相手は複数だ。組織化している。
「すみません、お先、失礼します」
 午前三時、料理の達者なバーテンダーがタイムカードを押し、仕事をあがった。
「お疲れ」
 俺はいい、カウンターでその日何杯目かのラフロイグを呷った。土曜日の深夜、西麻布の『MIST』。客は俺の他にカップルが一組、奥のボックス席に居るだけだ。
 カウンターの端に、二十四インチの薄い液晶テレビが置いてある。モノクロームの映画が映されていた。『ローマの休日』だ。若き日のオードリー・ヘップバーン。これで容姿に悩んでいたというから贅沢な話だ。相手役である記者を演じたのは誰だっただろうか。カウンターに肩肘を付き、しばらく考え込んだが、思い出せなかった。音声は消してある。液晶の中を音もなく、男女がべスパを乗り回していた。店内にはうっすらとデヴィッド・ボウイのカバーした『Wild Is The Wind』が流れ、奥のボックス席から、男と女が唇を吸い合う音が聞こえている。
 三時半になり、特に不機嫌というわけではないようだが、マスターが仏頂面のまま奥のボックス席へと歩き、ラストオーダーを取りにいった。追加の注文はないらしい。少しすると男女は勘定を済ませ、店を出ていった。
「ラストオーダーだよ」
 マスターが映画に眼をやったまま、告げた。いつもの通り、その眼には感情がない。俺は氷だけになったロックグラスを手に取り、カウンターの上を滑らせた。
「ラフロイグ。ダブルで三つください」
 ロックグラスが新たに三つカウンターに置かれ、マスターが続けざまにラフロイグを注いだ。続いてアイスペール。氷が山盛りになっている。
「氷は自分でやって」
 ぶっきらぼうにいい、マスターは三つのグラスとアイスペールを俺の前に置いた。
 カウンターの中央に置かれたヒュミドールから、マスターが葉巻を一本取り出した。それ用のカッターで先端を切る。口に咥え、見慣れないライターで火を着けた。
「ずいぶん飲むね」
 カウンターの中でマスターがいう。もう何杯飲んだか憶えていないラフロイグの酔いの中で、俺は少し驚いていた。マスターが話しかけてくることなど、客がカウンターに独り切りだとしても稀なことだ。
「考えてるんですよ」
 アイスペールから氷を一片、手で摑み、ロックグラスに放り込んだ。
「彼女?」
「いえ」
 液晶の中で、何人かの男達が海か池か、水の中に落ちた。飛沫があがり、板の上のヘップバーンが掌で口を抑えている。
「薬の類です」
 マスターは黙ったまま、相変わらずローマの街に眼をやったままだ。
「六本木の不良外人どもが薬を卸してて。それを潰せと恭選会がいうんです」
 グラスを摑み、ダブルを一息で空けた。氷はほとんど溶けていない。喉が焼け、胸が焼け、胃が焼けた。
「あの辺りは恭選会の島でしょう。外人や混血達に荒らされてるようで。それを潰せと、なぜか俺に話が来て」
 酔いのせいか、俺はそんなことをぺらぺらと喋っていた。
「連中は組織化してるようです。俺ひとりじゃ、何をどうしていいか解らない」
「ふうん」
 気もなく返事をし、マスターがカウンターの下からミネラルウォーターの瓶を摑みだした。グラスに注ぎ、一口含む。そしてまた、葉巻を咥えた。
「危ないの?」
 煙を吐きつつ、マスター訊く。
「安全ではないでしょうね」
 二つ目のロックグラスに、氷を放り込んだ。物に当たりでもするように、一息で干す。氷を入れる意味などない。考え、悩み、そして今度は腹が立ってくる。何故俺にそれをやらせるのか。冗談ではなかった。
 三つ目のグラスに手を伸ばす。氷を入れる必要はない。グラスを摑むと、その上からマスターの大きな掌が降下し、グラスの口を塞いだ。
「今日は帰ろう。そのくらいで」
 マスターがいう。感情のない、死んだ魚のようなその眼が、俺を見詰めていた。
 グラスから手を離し、スツールに深く坐り直す。
「来週のこの日、この時間、またおいで」
 棒読みのような台詞が、マスターの口から出ていた。
「探しておくから。退屈してるのを」
 カウンターの上のリモコンを手に取り、マスターがボタンを押した。
 二十四インチの液晶の中、こちらを振り向いたヘップバーンが突然、姿を消した。
 
(十四)
 
 枕元で携帯電話の呼び出し音が鳴り、眼を覚ました。電子音が耳に障る。上体を起こすと、頭痛と喉の渇きを感じた。二日酔いだった。まるで麦茶でも飲むように、ラフロイグを何杯も呷ったせいだ。
 一度起こした上体を再びベッドの上に倒し、片手で電話を取った。液晶には十一桁の番号が表示されている。
「もしもし」
 回線の繋がった携帯電話を耳に当て、眼を閉じた。喋るのも億劫だ。そのまま眠り込んでしまいたい。
「真山さん・・・?」
 カナの声が聞こえる。あの夜、クラブのVIPルームから康佑と共に店から引き摺り出してから、一月か一月半か、いくらかの時間が経っていた。
「ごめんなさい、寝てました?」
 部屋に置時計はない。時間が知りたければ、スマートフォンの液晶に表示される時刻を見るか、テーブルに放り出した腕時計を見るかだ。夜明けに西麻布からタクシーで戻り、風呂にも入らずベッドへ潜り込んだ。
「ごめんなさい、お休みのところ」
 申し訳なさそうにカナがいう。眼を薄く開けた。カーテンの隙間から、赤みを帯びた陽が差し込んでいる。もう夕方であるらしい。
 再び上体を起こす。頭痛。完全に飲み過ぎだ。蒸留酒は残らない、というのを昔見るか聞くか読むかした。あれは嘘だろう。飲み過ぎれば、それが酒でなくとも身体には悪い。船から投げ出された漁師が海水を飲み過ぎて死ぬことだってある。
「どうした」
 片手で側頭部をさすりつつ、訊いた。続けて、両の目頭を指で強く押さえる。眼の奥の辺りにも、鈍い痛みがあった。
「いえ、最近見かけないから」
 首を左右に捻り、関節を鳴らした。
「客引きはしばらく休業してる。見かけないのはそのせいだ」
 また仰向けに倒れこんだ。しばらく寝ていたほうが良さそうだ。
「そうですか・・・」
「用はそれだけか。また妙な連中にやられたのかと思ったが」
 カナが少し黙り、そしていった。
「会えませんか。ちょっとお話したくて・・・」
「話?」
「はい・・・」
 また、カナが黙った。待ったが、続きは出てこない。
「今日か?」
「できれば、早いほうがいいです」
 溜息をつき、俺はいった。
「アマンドの先に本屋があるだろう」
「先、ですか」
「六本木交差点から渋谷方面に向いて、すぐそこだ」
 地理を思い出しているのか、いくらか間があった。
「はい。あったかも」
「あるんだ。その二階に喫茶店がある。店の名前は忘れたが」
「はい」
「そこにおいで。一時間後だ」
「はい。あの・・・」
 カナが何かいいかけた。待ったが、先が続かない。
「どうした」
「あの、ごめんなさい、無理をいって・・・」
 苦笑し、答えた。
「いや、構わんよ。じゃあ一時間後」
 通話を切り、携帯電話を枕元に置いた。眼を閉じる。しばらくそうしていた。
 そして熱いシャワーを浴び、身支度をする。スラックスにワイシャツ、持ち物は携帯電話と財布、煙草とオイルライターだけだ。冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、アスピリンの錠剤を流し込む。痛み止めはあれこれと試してみたが、最も安価で効き目が強いのは、この古典的な鎮痛剤だった。
 マンションから六本木交差点まで、徒歩で十五分ほどしかかからない。消防署の前を歩き、檜町公園脇の坂を昇る。ビルとビルの隙間から、夕陽を乱反射する六本木ヒルズの森タワーが見え隠れしていた。
 日曜の夕方だ。人も車もまばらな六本木通りを歩く。交差点を渡り、アマンドの前を通り過ぎ、マツモトキヨシを左手に覗きつつ足を進めると、目的地はすぐそこだ。一階に花屋と本屋、そして二階には美容院と喫茶店が入っている。看板が視界に入り、その喫茶店の名を思い出した。『喫茶室・シュモア』だった。これまで使ったことはない。カナとの待ち合わせにこの店を指定したのも、ほとんど思いつきに近かった。
 狭い店だった。カウンターにスツールが六脚、テーブル席は四つ。客は一人しか入っていない。奥のテーブル席に着いている若い女の客が、その一人だった。
 木製の枠にガラスのはめ殺された扉を押した。扉の上部には鈴がぶら下がり、それが鳴ることで来客を告げていた。
「いらっしゃいませ。お一人様?」
 店主かパートか、五十代と思しき太い女が訊く。
 待ち合わせだ、と俺は告げ、店の奥に眼をやった。テーブル席にカナが独りで着いている。白い小さな鞄を一つと、何か紙袋のようなものを膝の上に置いていた。ワイシャツの袖をまくり、腕時計を見る。カナとの電話から、丁度一時間が経っていた。
「すみません、無理いっちゃって」
 カナが再び詫びる。
 女が註文を取りにきた。
「何を飲む」
「あ、何でも・・・」
 ブレンドを二つ。書き留める必要もなかったのか、女は手にしたメモにペンを走らせることなく引っ込んだ。
「あの、まず、これ」
 眼を合わさぬままカナがいい、紙袋を両手で差し出す。受け取り、中を検めた。いつか半裸のカナに着させたジャケットだ。
「あの、ありがとうございました。なんか・・・」
「いや」
「クリーニングもしてあるんで、あの」
 これを返すために呼んだわけではない。他に何か、本題がありそうだった。
「話とは?」
 単刀直入に訊いた。太い女がコーヒーを二つ運んでくる。ごゆっくりどうぞ、といい残し、下がった。
「あの・・・」
「何だ?」
 俯いたまま、カナは言い淀んでいる。
「話さなきゃわからんぞ」
 促した。
 俯いたままのカナが、眼から涙を零し始める。わけがわからない。一体なんだというのだ。
「妊娠してるんです」
 呟き、カナが眼を閉じた。目蓋に追いやられた涙が、さらに溢れ出した。
「誰の子だ?」
 カナが首を横に振る。わからない、ということか。
「確かか、それは」
 一度しゃくりあげ、カナが答える。
「何度も試したんです。妊娠検査薬で・・・」
「あの時の、子か」
 カナが、小さく頷いた。
「康佑には?」
 首を横に振る。
「康佑の子ってわけじゃないのか」
 カナが始めて、涙を拭った。
「違います」
 俺は溜息をつき、天井を仰いだ。
「ごめんなさい。でも、真山さんしか相談できる人いなくて・・・」
 またしゃくりあげ、カナが啜り泣いた。掌を口に当て、声を押し殺し、カナは泣いた。
 どうするんだ、という言葉が口から出かかったが、やめにした。カナはそれを訊きに来たのだ。輪姦され、孕まされ、それをどうするべきか。
コーヒーカップを摑み、一気に飲み干した。
「沖縄に帰ろうって、康佑はいってます。あれからずっと。お金を貯めて帰ろうって」
 コースターにカップを置く。カナのコーヒーは、まだ手付かずのままだ。
「こんなこと、康佑にいえなくて。どうしたらいいか・・・」
 そこまでいうと、またカナは声を殺して泣いた。
 テーブルの灰皿を引き寄せ、煙草を咥えた。スラックスから取り出したジッポに火を灯したが、少し考え、蓋をした。真鍮の擦れ合う音が、店内に鳴る。妊婦の前で紫煙をあげるのは気が引けた。だが、カナにとっては望まない妊娠だ。誰のそれかわからない胎児が、その腹に宿っている。肌の色は。眼の色は。子に罪は何一つとしてないが、その子が康佑の子として産まれ、育つことは出来ない。そして、康佑にこの悲惨な事態を知られぬまま、何も起こらなかったものとして事を済ますなら。
「堕ろすのなら、早いほうがいい」
 咥えた煙草を箱に仕舞い、続けた。
「腕のいい医者なら、母体へのダメージを最小限に抑えて子供を堕ろせる。康佑に知られたくないなら、書類には俺がサインしてもいい」
 テーブルに置かれた伝票を手に取り、席を立った。
「金なら貸してやる。ある時払いの催促なしだ。考えがまとまったら電話をくれ」
 勘定を済ませ、店を出た。
 俺にしてやれるのは、それくらいが限界なようだった。

#6につづく


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?