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小説「哀しみのメトロポリス」#6

#創作大賞2024 #ミステリー小説部門 #六本木

(十五)
 
 店を閉めたインド料理屋の前に、古いBMWが停まっていた。丸目の四灯、中央には豚の鼻に似たグリル。車内に人はいなかった。日曜の早朝三時、外苑西通り。
 地下への階段を降り、扉を開く。暗い店内に、坂本龍一の映画音楽が薄く流れていた。原曲はシンセサイザーだったはずだが、聴こえているのはピアノの音と、チェロかバイオリンか、何か弦楽器のそれだった。俺の知っている『Merry Christmas Mr.Lawrence』とは別の音源であるらしい。
 カウンターの中でマスターが、いつものように感情のない眼でこちらを一瞥し、また手元へと視線を戻した。氷でも砕いているらしい。アイスピックを握る手が、カウンターの地平線から見え隠れしている。その日は「いらっしゃい」の一言もなかった。
 カウンターの椅子で独り、黒髪を撫で付けたスーツの男がその後頭部と背中をこちらへ向けていた。頭から背中、スツール、その下に見える革製であるらしい靴の裏と、暗い間接照明のせいもあるのか、全てが黒く見えた。
「来たよ」
 視線を手元に落としたまま、マスターが呟く。男のスーツの背中が動きを見せた。
「どこの何て奴だったかな」
 男が背を捻りつつ、いう。俺は名乗り、男を見つめた。
「六本木、客引き、真山」
 黒い髪をオールバックに撫でつけ、表情は柔らかだが、眉の下についた二つの眼は堅気のそれではない。目尻、そして鼻の両脇から延びる皺を見る限り、歳は四十代の半ば当たりか。そして、肌の色が病的に白い。しゃぶ中だろうか。
「ずいぶん若いな。幾つだ」
「三十六」
 オールバックがマスターに向き直り、いった。
「見た目ほど若かあないですね」
 オールバックは笑っていたが、マスターはいつもの通り、無表情のままだ。
「まあ座んなよ、真山、といったか」
 無言のままカウンターへ歩み寄り、椅子に腰かけた。
「何、飲むんだ」
 オールバックが訊く。
「ジンジャーエールを」
 マスターがアイスピックを置き、小型の冷蔵庫を開いた。ウィルキンソンの瓶を取り出し、栓を抜く。濃いブラウンの王冠。ウィルキンソンの辛口だった。
「宮家さん」
 この壮年のオールバックが何者なのか訊こうとした。
「カン」
 再びアイスピックを手に取り、手元に視線を戻しつつ、マスターがそういう。
「カン・・・?」
 隣のオールバックが、黒い背広の内ポケットに手を差し込み、アルミで出来た名刺入れを取り出した。蓋を開き、一枚をカウンターに置く。麻布飲食店エリア開発㈱代表取締役、管英二。カンというのは人名、この男の名であるらしい。
「使える男だよ」
 アイスピックを振りながら、マスターがいう。
「宮家さんには昔、世話になった。脚を洗う時も」
 管という名のオールバックがいい、グラスを握った。グラスには琥珀色の液体が、淵から零れそうなほど注がれている。管はそれを、一息でグラスの半分ほども空けた。
「やくざに無茶振りされて困ってるのがいるってんで、宮家さんから頼まれた」
 マスターがアイスピックを置き、俺の眼を見た。右手の人差し指を頬に当て、斜めに滑らせる。そして、閉じた口の片方を吊りあげて見せた。笑ったつもりらしい。
「よして下さいよ宮家さん、今は堅気で通ってんだから」
 マスターの仕草に、管が笑う。
「表のBMWは」
 グラスを摑み、訊いた。
「俺のだよ。二十年乗ってる。年式はもっと古いがな」
「買い換えればいいのにね」
 マスターがいう。その台詞に、管は笑ってみせた。どこか、陰のある笑いだ。
「さ、そいつを片付けたらいくぜ」
 管がこちらへ半身になった。
「どこへ?」
 訊いた。
「現場だよ。そのバカガキ共が葉っぱ卸してるっていう」
 展開の早い話だった。何をそんなに急いているのか。
「管さん、『カサブランカ』って映画知ってるか」
「知ってるよ。お前さんの方こそ、よくそんな古い映画知ってるな」
「何度か見たが、結局何を伝えたい映画なのか、俺にはよくわからん。展開が早すぎるんだ。話の流れが早すぎてついていけない。昔の映画は皆ああなのかね。おまけに字幕だしな。字幕を追っかけてる間にシーンが変わっていって、気がつくとエンドロールだ」
 管が笑っていた。
「それで、それがどうだってんだ?」
「あんたを見て、その映画を思い出した」
 管はまだ笑っている。
「おもしろい男ですね、宮家さん」
 マスターは無言だ。何も反応を示さず、ただアイスピックを振っている。
 
 氷しか残っていないグラスをカウンターに置くより早く、管が扉を押して店を出てゆく。マスターはやはり、こちらを見ていない。管に続き、俺も店を出た。地上への階段を昇る。
 何か小さな金属片が、上から降ってきた。咄嗟に右手で摑む。
「たまには助手席がいいな。持ってんだろう、免許」
 管が階段を昇りつつ顔をこちらへ向け、笑みを見せていた。回転する航空機のプロペラを模したシンボルマーク。それが記された革のホルダーに、二本のキーがついている。
 ビルの側へと向いた運転席のドアを開けた。管は助手席だ。左ハンドル、フロアシフトの五速。車のステアリングを握るのは、ずいぶん久しぶりだ。
「おいおい、まさかオートマ限定なんていうんじゃねえだろうな」
 ブレーキ、クラッチ。踏み込む。キーをイグニションに挿し、捻った。セルが回り、エンジンが自転を始める。
「マニュアルだよ。多少は腕にも覚えがある」
「ほう。レースでもやってたのか?」
 ギアを入れた。ウィンカーを出す。この時間、外苑西通りを走る車は他にいない。
「レースごっこだね。田舎にいた頃だよ」
 ステアリングを右に切った。思いの他それは軽く回り、アイドルが上昇した。パワーステアリングが付いているようだ。
「出身は?」
「田舎だよ」
 クラッチを繋いだ。他に車のいない外苑西通りに、骨董品のようなBMWが滑り出した。
 西麻布交差点、右折レーンへと入る。信号は赤だった。ウィンカーを出し、ブレーキをかける。よく調教されている車らしい。制動のかかる感覚はスムーズで、停止する直前、気持ちブレーキを抜くと、小さなショックもなく車は停まる。アイドリングの回転数を示す赤い針は、一千回転の少し下辺りでピタリと動きを止めていた。
「今は何を?」
「飲食店のプロデュース業だな」
「へえ」
 煙草を咥え、オイルライターを取り出した。
「よせよ、禁煙車だ」
 ライターの蓋を閉じ、ジャケットに収めた。
「喫わないのか、管さん」
「やめた」
 信号機の下で、右折を示す矢印が緑色に光った。クラッチを繋ぐ。
「癌なんだ」
 ひと気のない西麻布交差点を右折し、六本木通りに乗る。いくらか上まで引っ張り、二速に入れた。アクセル。古いBMWは、口笛でも吹くような軽快さで加速した。
「治療中ってことか」
 三速。次の信号は青だ。
「やめた」
 助手席に顔をやる。管を見た。やめた、とは。
「一度やったんだ。癌を。散々な目にあった。肝臓を半分取っ払ってな」
 前方に視線を戻す。クラッチを切った。四速。
「切り傷をホチキスみてえな針で乱暴に塞がれた挙句、今度は抗癌剤だ。髪は皆抜け落ちるわ、飯も喰えねえでゲーゲー吐いてばかりだわ、ろくなもんじゃなかった。それでも一度は治ったがな」
 二つ先の信号が赤く光るのが見えた。三速。エンジンブレーキで車速を殺す。
「なんだか身体の具合が悪いってんで、また病院に行ったんだ。転移してやがった。今度は肺だとよ。それも片方取っちまった。右側だ」
 管はいい、右手で胸の片側を叩いて見せた。
「癌治療ほどキツイものはねえな。もう御免だ。髪だってやっと生えてきたってのに。それでやめた。病院にいくのをな」
 車が停止する前に、信号が青に変わった。六本木ヒルズ森タワーの前だ。ギアは二速に落ちていた。
「今は薬か何かが効いてんのか?」
「効いてる。効いてる間はシャキっとすんだ。寝る時ゃ、痛み止め打って寝る。どの道、長かあねえ」
 タクシーの数が増えてきた。六本木が近い。
「宮家さんから大体のことは聞いてる」
「そうかい」
 三速。右車線。前方のタクシーにパッシングをくれた。タクシーが左へ寄る。
「新宿じゃ、ずいぶんやってたんだろう」
 六本木交差点が見えてきた。対向車線を挟んだ右手に青山ブックセンター、左手には幸楽園。
右折レーンに入った。ピラーの先を覗き込むと、外苑東通りには、まだタクシーの群が残っていた。腕時計に眼をやる。午前三時半を少し回ったところだった。
「やくざから脚を洗ったのは」
 赤く光る信号を見ながら、管に訊いた。交差点の周りには、酔っ払った連中が海月のようにふらふらと浮いている。日本人と外国人、そして混血。反吐を吐いている者もいる。
「子供が死んだ。これだ」
 管がスーツの胸元から、首飾りのような何かを摘み上げた。銀色の細い鎖の中央に、白い象牙色の球が付いている。
「骨だよ。まだ七つだった。白血病だったらしい。逃げた女房から骨が一つ送られてきた。形見分けだとよ」
 矢印が灯った。ギアを入れ、クラッチを繋ぐ。ステアリングを切りつつ交差点を右折したが、外苑東通りを横切る横断歩道の手前で、タクシーの群に先を阻まれた。バックミラーに眼をやる。後続の右折車が二台か三台、このBMWと同じく交差点の中央で往生していた。
「いかしてるだろ。最近はこうやって、形見をアクセサリーに出来んだ。あんな小さな骨の欠片じゃ、俺みてえなやつはすぐ失くしちまうからな。こうしときゃ、失くすことはねえ」
「よく喋るやくざだよ」
 前方のタクシーが、少し前を詰めた。それに倣い、こちらも前を詰める。横断歩道のど真ん中で、BMWは停止した。横断者用の信号は青だ。BMWの前や後ろを、酔っ払い達がつたない足取りで行き来する。
「よせよ、今は堅気だ。それに、根掘り葉掘り訊いたのはお前だぜ」
 緑、黄、黒、白、様々な色をしたタクシーが、前方で列を成している。例の不良外人たちがこの数時間後に荷卸する三丁目の吹き溜まりには、しばらく辿り着けそうにない。
 
 屍体が発見されたのは、俺と管の乗るBMWが吹き溜まりの辺りに辿り着き、酒と大麻を運んでくるトラックが来るのを待っている時だった。
 吹き溜まりの少し先、老舗の和菓子屋の前に車を止め、トラックがやってくるという昼頃まで仮眠を取るつもりで俺はシートを倒し、管はサイドミラーを自分が後方を見るために角度を改め、シートに腰を沈めていた。「薬が効いていれば、二日か三日は起きていられる」と管はいった。
「あんた、ずいぶん飲んでただろう」
 半分も切り取られた肝臓。なみなみと注がれた琥珀色の液体。それを管が呷っていたのは、ものの数時間前だ。
「ありゃあな」
 管はいい、げらげらと笑い出した。
「麦茶だ」
 しばらくの間、管は笑い続けた。
「麦茶だよ、ありゃあ。俺だってそんなにタフじゃねえや」
 俺は半ば呆れ、シートを倒したのだった。
 夜が明けた頃、携帯電話が鳴った。江だ。回線を繋ぎ、耳に当てる。
「真山くん、どこ?」
 いくらかカタコトな、江の日本語だった。
「六本木だ。吹き溜まりの辺り」
「なら近いね」
 傍らの管が、訝しげに俺を見る。
「人が死んでるって。お墓で」
 苦笑しながら答えた。
「江、墓で人が死んでるのは当たり前だ」
 電話の向こうで、江も半ば笑いながらいった。
「真山くん、屍体だよ、屍体。発見されたの、今」
 現場は六本木墓苑。俺と管のいるBMWから、眼と鼻の先だった。
 少し出る、と助手席の管にいい残し、俺は車を降りた。
 吹き溜まりにはいつもの通り、酔いつぶれた外国人や混血児達がゴロゴロと転がっていた。飲み棄てられた空き瓶、ケバブを覆っていた紙袋、反吐。ゴミの類が散乱している。
 六本木墓苑は、その吹き溜まりを抜けた先にあった。大昔には五つか六つかの寺がこの界隈にはあったそうだが、戦後の道路拡張工事でこの場所へと集約され、そこには幕末期の力士や、徳川家の誰かが眠ると聞いたことがある。
 警官が集まり始めていた。交番巡査である中田の姿もある。
 墓苑はその敷地全体が窪地だ。周囲を錆びたフェンスが囲っている。墓苑への入り口はすでに警察によって封鎖されていたが、窪地が故、周囲からはフェンス越しにその様が丸見えだった。
 墓石と墓石の間に、烏が群がっていた。閉鎖された入り口から数人の警官が敷地へと入り、烏を追い払うのが見えた。黒い翼をばたつかせ、数羽の烏が空中へ舞い、消えた。
 人間の屍体が、仰向けに転がっていた。色彩の大半を灰色が占める墓苑に、白いTシャツが映えて見える。下半身には何も着けていなかった。浅黒い肌の色の中、下腹から延びた陰毛がさらに黒い。両の眼が赤黒かった。軟らかい部分から烏に突かれたのだろう。
 屍体の傍で片膝を付いた警官が周囲を見回し、何か叫んでいた。見世物にするな。そう聞こえた。屍体の周りをブルーシートで囲んだところで、窪地になった墓苑の敷地など、周囲からはフェンス越しに丸見えだ。
 警官が集まり、野次馬も集まってきていた。フェンスに顔を押し付け、大騒ぎをしている。嬌声をあげ、フェンスによじ登る外人もいた。警官がその服を摑み、フェンスから引き摺り下ろす。他の警官が数人、フェンスの周りを歩きながら、下がってください、と大声で野次馬を散らそうと奮闘していた。
「下がってください!下がって!!」
 奮闘する警官の中に、中田の姿がある。
「中田」
 声をかけた。
「真山さん」
 険しい眼をしていた。用があるなら早くいえ。眼がそういっていた。
「死んでるのは誰だ」
「わかりません。自分達もまだ知らされてなくて」
 煙草を咥え、火を着けた。
「それじゃ、真山さん」
 それだけいい残し、中田は職務に戻っていった。
 吹き溜まりへ向けて踵を返すと、江が立っていた。
「久しぶり、真山くん」
 挨拶は無視し、訊いた。
「死んだのは誰だ?」
「わかんない。見てない。怖いし」
 溜息をついた。
「レイプしようとしたんじゃない?下半身裸だって聞いた」
「そうらしい。下には何も着けちゃいなかったな」
「それで反撃されて死んだとかかな」
 そんなところか。しかし一々、何か起こると俺に知らせる。江も変わった男だ。
「退屈しないね、六本木は」
 やはりいくらかカタコトの日本語でいい、江は背中を見せた。
 吹き溜まりへ戻ると、すでに報道関係者までもが集まっていた。ルーフにパラボラアンテナを載せたワゴン車が数台、テレビカメラや集音器を担いだスタッフ。手鏡というには大きすぎる鏡で化粧や服を点検するレポーターと思しき女も数人いる。
吹き溜まりの角にあるコンビニで、ハムを挟んだパンと缶コーヒーを二つずつ買い、車に戻った。午前五時。トラックの来る昼までは、まだかなりの時間がある。
「なんだって?」
 運転席に乗り込むと、管が訊いた。
「人が死んでる。墓地で」
 いいつつ、食い物とコーヒーを渡した。
「面白れえな。墓地で人が死んでる、か。運ぶ手間が省けてよかったじゃねえか」
 管が笑いながら、パンの封を切った。
 
 右肘を小突かれる感覚があり、夢から醒めた。
「おい」
 管の声。
「来たぞ」
 眼を開き、ステアリングを左手で握る。力を込め、倒したシートから身体を起こした。
「消防車か?」
 中型か大型か、ミラーの中で、赤い車の顔面が少しずつ大きくなる。
「馬鹿いえ。梯子なんぞ載っけちゃいねえよ」
 腕時計を見る。昼の一時を過ぎたところだ。雨は降っていないが、空は雲で覆われ、辺りはどこか薄暗い。
 赤い貨物車がウィンカーを出した。ドン・キホーテの辺りだ。吹き溜まりへと入る気らしい。フロントタイヤに蛇角が付き、赤い車体の背中に載った銀色のコンテナが覗いた。
「入れるのか?」
 サイドミラーを睨んだまま、管がいう。同時に、貨物車が急停止するのが見えた。エアの抜ける音が、微かに聞こえる。速度は出ていないが、車重のせいだろう、急制動の反動で、車体全体が揺れていた。ウィンカーは瞬いたままだ。
 日曜の昼、六本木。いつもなら、誰もいないはずだ。だがこの日は朝から墓苑で屍体が発見されたことで、吹き溜まりには報道車両が数台停まり、この時刻になると野次馬の類は退いたようだが、まだ大勢の報道関係者が動き回っていた。
 ウィンカーが消え、助手席側のドアが開き、肌の黒い若者が一人、降り立った。足早に吹き溜まりへと消える。貨物車は吹き溜まりに入れるのを諦めたのか、三丁目の交差点を直進し、俺と管の乗るBMWへと寄ってきた。
 BMWの傍らを貨物車がそろそろと徐行し、通り抜ける。BMWを追い越した少し先、時間貸しの狭いパーキングの辺りで、貨物車は停止し、ハザードを焚いた。曇り空の下、刻みの付いた銀色の貨物コンテナが鈍く光る。
「出てきたのは斥候だな」
 管がいい、シートを思い切り後方へと下げ、脚を組んだ。
 積んできた酒と大麻を降ろすつもりが、現地ではこの騒ぎだ。助手席から降りた若い黒人は、現場の様子でも見にいったのだろう。
 ワンノッチだけキーを捻った。セルは回さない。使うのは電気系統だけだ。
 センターパネルの下に、カーラジオが着いていた。スイッチを入れる。デジタルのそれではなく、摘みで周波数を合わせるタイプだ。計器の中で、赤い針が左右に動く。ボリュームを上げると、ノイズが聴こえた。摘みを捻り、どこかの放送局へ周波数を合わせる。
「ラジオなんて聴く趣味あんのか」
 脚を組んだまま、管が訊いた。
「ニュースだよ。この騒ぎだ」
 ノイズの中に、音楽が微かに聴こえた。
 それでは、ニュースとお天気です。ニュースルームの・・・。DJがいう。何かの番組の途中らしい。声の主が代わる。 
今朝四時五十分頃、東京都港区六本木の六本木墓苑で、若い男性の遺体が見つかりました。遺体には鋭利な刃物で刺されたような傷、そして右手人差し指には欠損があり、警察では殺人事件と見て調べています。
 BMWの傍らを、若い黒人が後方から走り抜けた。前方の貨物車へと走り、乗り込む。
 エアの抜ける音。貨物車のブレーキランプが灯った。
「動くぞ」
 貨物車がエンジンの回転を上げ、その場で転回し始めた。
 運転席に座るのは誰か。眼を凝らしたが、フロントガラスが薄い陽の光を鈍く反射し、顔までは見て取れない。ステアリングを回す二本の腕が見えただけだ。
 赤いトラックが転回を終え、そのまま外苑東通りを青山通り方面へと走り出す。
 キーを捻った。カーラジオが一瞬黙り、セルが回る。
「さあ、追っかけっこだ」
 管がいう。
 俺はギアを一速に叩き込み、ステアリングを右に切りつつ、強引にクラッチを繋いだ。リアタイヤが軽く悲鳴を挙げ、BMWが転回する。
 トラックは六本木交差点を直進し、乃木坂を越え、青山通りに乗った。走る車の数が増えてくる。間に二台挟み、俺はトラックを尾けた。
「菅さん、俺にはわからんよ」
 青山一丁目、と記されたバス停を過ぎる。
「あんたは何故この話に乗り気なんだ、そんなに」
 トラックが赤信号に引っかかり、停止した。トラックの尻。二台挟んだ向こうに、横浜ナンバーがぶら下がっている。
「真山、金借りたことあるか」
 質問の意味がわからない。
「多少の額なら」
 ギアを入れた。前方の二台が進む。
「例えばだ。金を借りたら、その金額を返せば済むよな。ついたって、せいぜい利息だ」
 クラッチを繋いだ。
「ところが、恩ってのはそうもいかねんだ」
 二速。三速。
「返そうったって、そうもいかねえ。返し切れねんだよ、恩ってのは」
 表参道交差点。右折すれば原宿、左折すると西麻布、直進は渋谷方面。交差点の角に、小さな交番が見えた。
「あの人にゃ恩がある。一生かかっても返しきれねえ恩がな」
 助手席を垣間見た。管の眼が遠い。あの人というのは、『MIST』のマスターか。
「どの道、長かねえ。それで俺をお前さんのとこに寄越したんだよ」
 カーラジオを消した。渋谷が近い。
「最後のチャンスだ。俺にとっちゃ。恩を返す、な」
 長い坂を下る。入れ違いはあったが、間には二台挟んだままだ。
 六本木とは違い、渋谷にまで来ると、人も車も多かった。やがて道玄坂へと至る。
道玄坂を登りきった所で、トラックが右にウィンカーを出した。あの大きな車体で、路地へと入るつもりなのか。
「降りたほうがよさそうだ」
 俺はいい、左へウィンカーを出した。路地にまで入られると、もう車は挟めない。BMWを路肩へ寄せ、停めた。
「俺は待ってるよ。ミドリムシがうるせえからな」
 管がいい、シートで伸びをした。
「ミドリムシ?」
「駐車監視員だよ。あの緑の服着た」
 キーを挿したままエンジンを切らず、俺は車を降りた。
 道玄坂を横断し、トラックの消えた路地へと入る。
 『ジャック』の場所は調べてあった。渋谷でも指折りの大箱だ。トラックの消えたこの辺りが、その住所に近い。
 路地を歩く。通行人は少なかった。いくらか先に、トラックの背中に載った銀色のコンテナが見えた。エアの抜ける音。路地の脇に立つ電信柱に身を寄せ、様子を窺った。
 トラックが停止したのは、『ジャック』の裏にある搬入口であるらしい。助手席から、先ほどの若い黒人が降り立つ。
 運転席のドアが開く。肌の白い若者が降り立った。
 ヴェクターだ。間違いない。
 搬入口から、ワイシャツとスラックスの男が一人出てきた。
 肥えた身体。童顔。そしてあの特徴的な頭。
 山崎だった。
 甲高い声が、搬入口に反響した。ヴェクターが何かいい返している。
若い黒人がトラックの後方に周り、コンテナの観音扉を開いた。左側にギネス、右側にはレッドストライプの箱が積み重ねられている。
「場所変えて降ろしてくりゃいいだろう!?」
 子供が癇癪を起こすような声で、山崎が喚く。
「あそこ以外はやばい!今日はダメだ!」
 いくらか掠れた声で、ヴェクターが反論していた。
「じゃあどーすんだよ、この量!?」
 俺は踵を返し、道玄坂へ向けて路地を歩いた。煙草を咥え、火を着ける。
道玄坂へと戻ると、BMWがアイドルしていた。運転席に乗り込み、サイドブレーキを下ろす。
「待ってくれ」
 管がいい、スーツのポケットから革の財布を出した。
「薬が切れてきやがった」
 財布から千円札を一枚と、透明なナイロンで出来た小さな袋を出す。袋には、白い細かな結晶が二つか三つ、入っていた。管が袋を開け、結晶を紙幣に乗せる。そしてスラックスのポケットから、ジッポを取り出した。
「ジッポが、似合う歳でも、ねえ、けどな」
 眼が半分も開いていなかった。呂律も回っていない。管が紙幣で結晶を挟み、ダッシュボードに乗せた。その上からジッポの尻で紙幣越しに結晶を擦る。粉末にでもするらしい。スーツの胸ポケットから、細いストローを摘み出し、管はそれを片側の鼻腔に差込み、紙幣の上の粉を吸った。
「ああ・・・」
 射精でもしたような声を漏らす。同時に、閉じかかっていた眼が大きく開いた。
「どうだった?」
 渋谷の人出。日曜の昼間だ。こんな所で堂々としゃぶを食う。アイドルするBMWの脇を、大勢の人間が行き来していた。
「眠るときは痛み止めを打つっていってたな」
 俺はいいつつクラッチを切り、ギアを入れた。
「ああ。それがどうした」
 ウィンカーを出す。サイドミラー。
「そのときはモルヒネでも打つのか?」
 クラッチを繋ぎ、車を車線に乗せた。助手席では、管がくくくと笑っている。
 
(十六)
 
 月曜の夜が明け、タクシーの群が捌けた。六本木三丁目、外苑東通り。
「どうしたの、真山くん。怖い顔して」
 仕事を終え、バックを受け取り、あとは家路に着くだけの江が寄ってくる。
「阿南の旦那に用がある」
 阿南とその子分達が乗るセルシオは、この時間にここを通るはずだ。俺は外苑東通りの歩道に立ち、その姿が現れるのを待っていた。
「山崎はどうした」
 通りの先に眼をやりながら、訊いた。
「もう帰ったよ。今日も坊主だったみたい」
 江が消え、十分ほど待つと、ミッドナイトブルーのセルシオが路地から現れ、外苑東通りへと乗った。近づいてくる。俺はガードレールを乗り越え、車線の中央に立った。
 徐行という程度の速度だったが、セルシオはさらに速度を落とし、車線に立つ俺の一メートルほど手前で停止した。クラクション。短く二度、鳴った。
 窓に貼られたスモークで車内は伺い知れないが、運転席にうっすらと白いワイシャツが見えた。助手席は空だ。三度目のクラクション。今度はいくらか長かった。俺は動かず、セルシオも動かない。煙草を取り出し、咥える。火を着けた。
パワーウィンドウの下がる音。運転席だ。鼻の下にうっすらと髭を生やした若いちんぴらが顔を出した。
「何してんだ。邪魔だよ」
 声変わりをしてからさほど間も経っていないような声で、ちんぴらが喚く。
「車を降りろ。阿南の旦那と話がある」
「何いってんだ、お前」
 サイドウィンドウから出たちんぴらの顔に、火の着いたままの煙草を弾き飛ばした。
「てめえ、調子に乗ってんじゃねえぞ!阿南さんの知り合いだからってなあ!!」
 運転席のドアが開き、ちんぴらが降りてきた。
「やっと降りたか。聞き分けの悪いガキだ」
「んだと?この野郎!!」
 ちんぴらが俺の胸倉を摑んだ。
「失せろ、ちんぴら」
 手首を摑み、捻り上げる。肘の関節までもが決まり、ちんぴらが半ば背中を見せた。ワイシャツのボタンが二つ三つ弾け飛び、散らばった。
「やめろ」
 後部座席のドアが開き、声がした。丸刈りの頭、レンズに薄く色の入った眼鏡、安物のスーツ。阿南だ。レンズの奥にある両の眼が、やはりちんぴらとは違った。
「ほらっ!いってんだろ!阿南さんが」
 ちんぴらが喚いた。
「お前にいったんだ、地崎」
 ちんぴらの名らしい。
「何でもかんでも突っかかるのはやめろ、地崎」
「すんません・・・」
 手首を捻られ、肘が決まり、腰を曲げたままこちらに背中を見せるという無様な格好のまま、地崎が詫びた。俺は地崎の手首から力を抜き、それを放した。
「乗ってくれ。阿南さん」
 俺が促すと、阿南は黙ったまま再び後部座席へと納まり、ドアを閉じた。
 こちらも運転席に座り、ドアを閉じる。後部座席のパワーウィンドウが降り、阿南が顔を出す気配があった。
「歩いて帰ってこい、地崎。わかったな」
 ブレーキを踏む。オートマチックのギアはパーキングに入っていた。サイドブレーキはかかっていない。ギアをドライブに入れる。他に車のいない外苑東通りを、俺はセルシオで流した。
「なんだってんだ」
 後部座席で阿南がいう。
「あまりびびらせないでくれ、若いのを」
「悪かったよ」
 三丁目の交差点まで、信号は一つもない。交差点に差しかかり、吹き溜まりを左手に眺めつつ、麻布十番方面へと右折した。型は遅れているものの、良い乗り心地だ。
「話とは何だ」
 阿南が訊く。
「経過報告だよ」
 信号が赤く光っていた。横断歩道を渡る者はいない。
「聞こうか」
「毎週かどうかはわからんが、日曜の昼だ。さっきの吹き溜まりがあったろう。連中は渋谷の『ジャック』ってクラブから四トントラックでやってきて、そこで酒類を卸してる」
「酒類?」
「酒だ。主にビールの類らしい。ギネス、レッドストライプ、コロナ、ハイネケン、そんなとこだろう。あんたのいう大麻ってのも、それらと一緒に運んでいるらしい」
 バックミラーに眼をやる。阿南は下ろしたままのサイドウィンドウから、流れる外の風景を見ていた。
「運んでるのは六本木で遊んでる若い外人や混血児どもだ。頭は、それが上の名か下の名か知らんが、ヴェクターっていう白い混血。若い奴だよ」
「ヴェクター」
「さらに追っかけてると、奴にいき当たった」
「奴?」
 バックミラー。阿南が色の入ったレンズ越しに、ステアリングを握る俺を見ていた。
「山崎だよ」
 短い坂を下り、テレビ朝日の方角へと折れた。信号は青だ。
「阿南さん、あんた知ってたんじゃないのか?」
 六本木通りの地下を抜けるトンネルに入った。そして、阿南が認める。
「薄々、感づいてはいた」
 トンネルを抜けた。しばらく走ると、赤信号に引っかかった。
「山崎は西和から預けに出されてるんだろう。西和といえば、おたくら恭撰会と同じく西からやってきた『大手』の傘下にある」
 神戸に総本山を置く『大手』は、この三十年で大きく東京へと進出した。かつては「箱根の山は越えない」などといわれていたが、それも昔の話だ。山崎が籍を置く横浜の西和共同組合はとうに傘下へと収められ、阿南のいる恭撰会が『大手』の二次団体になったのは、ほんの十五年前のことだ。
「うちも西和も、一応は同じく傘下にある。それでいながら、向こうはこちらの島を荒らしにかかった。組ぐるみでやっているのか山崎だけが動いているのか、どちらにせよ、内輪での大っぴらなシェア争いは不味いんだ、真山」
「わかるよ、阿南さん。だからあんたは俺を動かした。水面下で事を治めさせようってな。仮に俺がしくじっても、あんたにバツは付かない」
 しばしの沈黙があり、阿南がいう。
「そういうことだ」
 信号が青く点った。俺はステアリングを左へと切り、ヘアピン状に曲がる坂を登った。登った先はT字路だ。左へ折れれば、乃木坂トンネルに飛び込む。
「事が上手く治まれば、あんたに貸し一つってことでいいのか」
 トンネルに入った。
「かまわん」
 阿南がそういったように聞こえたが、トンネル内で反響する走行音で、よく聞き取れない。トンネルを抜ける直前で、信号が赤く光っていた。
「一昨日の殺人事件、何か聞いてるか、阿南さん」
 話を変えた。大麻の一件は、阿南にも心苦しい所だろう。
「墓で人が死んでたって話か」
 信号が青に変わる。傍らの電信柱に、赤坂通り、と記されていた。阿南が続ける。
「殺されたのはボクサーだ」
「ボクサー?」
 バックミラーを見た。阿南はこちらを見ていない。
「ムハマド、武井、なんとかといったな。混血児だ。普段は六本木のクラブで働いてるが、一応はプロのボクサーらしい」
 自動的にギアが切り替わってゆく。スムーズではあるが、操る面白みはない。さらに阿南が語る。
「両の目玉がなかった。抉り取られたか、カラスに突かれたか」
「カラスに眼を突かれているのは俺も見た」
「右手の人差し指が欠損していたそうだ」
 阿南がいい、聞いたことのない出版社のビルが、右手を後方へと流れてゆく。
「あれはひょっとすると、俺がやった傷かも知れん」
「何?」
「わからんがね。少し前、やんちゃな連中に襲われたって話をしたことがあったろう」
 バックミラーを見るまでもなく、阿南がいくらか身を乗り出しているのがわかった。
「『何を嗅ぎまわってる』なんていいながら、連中は俺の頭に被せたポリ袋を突き破って口に指を入れてきやがった」
「喰いちぎったのか」
「そうだ」
「鮫みてえな奴だな、お前。傷はまだ新しかったそうだ」
「なら決まりだ。俺を襲った連中の一人だよ。今どき指詰めなんて、あんたらやくざでもしないだろう」
 阿南が深く座り直す気配がある。そして告げ口でもするように声を潜め、いった。
「警察はまだ伏せてるがな、屍体にはアレがなかった」
「アレとは?」
「性器だよ。それが睾丸ごと、刃物か何かで抉り取られてたらしい」
 屍体が下半身に何も着けていない様は俺も見ていた。だがまさか、性器が抉り取られていたとは。
「死ぬ前か後かはよくわからんが、警察じゃ猟奇殺人ってことで調べてる。殺り方が殺り方だからな」
 角に交番のある狭い交差点を右に折れた。俺の暮らすマンションが近い。
「大麻の一件と何か関係あるのか、真山」
 赤信号。右手に大きなマンションが見える。
「わからんね、まだ」
 消防署を過ぎ、マンションの前でセルシオを停めた。ギアをパーキングに入れ、サイドを引き上げる。
「じゃあな。また連絡を入れる」
 俺はいい残し、運転席を降りた。そして振り返らず、マンションの階段を登った。

#7につづく


 

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