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小説「哀しみのメトロポリス」#7

#創作大賞2024 #ミステリー小説部門 #六本木

(十七)
 
 BMWは、三丁目の六本木通りに面した時間貸しのパーキングに突っ込んであった。駐車監視員は昼夜を問わず繁華街をうろついている。
 路上に駐車していても、中に人間が乗っているか、傍に持ち主がいるかすれば、切符を切られることはない。事実、夜の六本木は路上駐車だらけだ。タクシーやキャバクラ嬢の送りの車で、六本木通り、それに交差する外苑東通り、それらから細部へと入り組む路地に至るまで、駐車車両で溢れかえっている。
 山崎と話をする必要があった。BMWはどこか路地にでも停め、管を残しておけばいい。
「俺はな、真山。お前のボディーガードも兼ねてんだよ」
 山崎と話をする旨を俺が告げると、助手席の管はそう応えた。
「お前がやくざに無茶振りされて危ないヤマ踏むからってんで、俺にお声がかかったんだ」
 午後十時、六本木通り。その日の営業を終えた不動産屋の前だった。
「相手はやくざなんだろう」
 イグニションに挿さったキーに右手をやっていたが、エンジンはアイドルしたままだ。平日だった。六本木通りを走る車は多くない。時折、傍をタクシーが通り抜けてゆくだけだ。だが前方に眼をやると、無数のテールランプが点ったままでいる。六本木交差点付近では、やはり渋滞が起きているようだった。
「お前に傷の一つでも付いたら、俺の顔が立たねえ。宮家さんにな」
 好きにすりゃいい。俺は呟き、BMWをパーキングに入れたのだった。
 街に人は少なかった。店も、キャッチも、警官も、タクシーの運転手も、皆が暇を持て余している。
「あいつか、西和から来たデブってのは」
 遠くに眼をやり、管がいう。
 山崎の姿は、その太った身体故に一目でわかった。
「真山さん」
 近づくと、山崎は人懐こい笑みを浮かべ、俺の名を呼んだ。肥えた身体、グレーのスーツ、妙な髪型。童顔とそれらのコントラストが奇妙に見えた。
「顔、貸してくれるか」
 静かに、感情を表に出さず、俺はいった。
「なんすか?」
 笑みを崩さず、山崎が訊き返す。
「顔を貸して欲しいんだ。話をしたい」
 しばしの沈黙があった。無言だが、山崎は笑んだままだった。
「そっちは?」
 視線を菅に向け、山崎が訊く。
 管に眼をやった。ダークスーツにオールバック。白い肌、筋者の眼光。効いているしゃぶによるものなのか、その眼が病的に光っていた。
「用心棒だよ」
 管が短く、両掌をスラックスのポケットに突っ込んだままいった。
「こっちは気にしなくていい」
 山崎が黙る。笑みは消えていた。そして、口を開いた。
「真山さん、あんた、何してんですか」
「話せばわかる」
「仕事中っすよ」
 山崎が拒む気配を見せる。
「どうせ客はいない。この人出だ」
「でもやることはやんねえと」
「あっちのほうで稼いでんだろう」
 また、山崎が黙った。俺の眼を見詰めている。
「いこうか」
 俺はいい、交差点付近に建つCOCOビルに小さく顎を振り、示した。
 COCOビルは、ワンフロアに二つか三つのテナントの入った、六本木でも有数の規模を持つ地上八階、地下一階建ての商業ビルだ。六本木交差点から徒歩一分という好立地もあり、キャバクラ、ビアバー、寿司屋、イタリアンレストラン、様々な業態のテナントが入居している。
 地下のフロアに、この国でも有数といわれるほどビールの種類を揃えたバーがある。俺を先頭に、山崎、管と続いて短い階段を下った。
 店内に客は二組しかいなかった。テーブル席に座ると、若い女の店員が註文を取りに来る。
 俺を含め三人とも、酒を飲まなかった。山崎は車だといい、俺も管のBMWをパーキングに入れっぱなしだ。管に至っては、肝臓を半分ほども摘出している。店員の運んできた三人分のジャスミンティーを振り分けつつ、俺は切り出した。
「詰問するわけじゃない。ただ、話をしたいだけなんだ」
 山崎は黙っていた。テーブルに肩肘を突き、その巨体のうち、いくらかの体重を預けている。
「おそらくは、お前のいる横浜からだろう。若い外国人に四トントラックを転がせて、渋谷のクラブ経由で六本木に物を運んでるな」
「調べたんすか」
 眼も合わさずいい、山本がグラスを口に付けた。
「尾けた。渋谷まで。情報もあったしな」
 テーブルの端に、灰皿が二枚重ねてあった。一枚を手に取り、テーブルの中央に置く。煙草を咥え、火を着けた。
「シノギですよ」
 山崎が呟き、グレーのスーツから煙草の箱を取り出した。
「あれは本牧で揚げられたビールです。税関なんて通さないから、仕入れ値なんて知れてますよ」
 山崎が煙草に火を着ける。百円ライターだった。
「問題は酒じゃない。大麻だよ」
 一瞬、山崎の動きが止まったように見えた。狼狽の色は今のところない。
「しばらく前にタレコミってやつがあった。恭撰会にな。それが会長の耳にも入ったもんだから、阿南ってのがいるだろう、あれに指令が飛んだんだ。『島荒らしをしてるのがいるからなんとかしろ』ってな」
 山崎の煙草の先から、灰がテーブルに落ちる。
「それがどういうわけか、俺のところに話が来た。阿南の旦那からだ」
 煙草を灰皿で捻り潰し、二本目を取り出した。口に咥え、また火を着ける。
「『潰せ』といわれてる」
 やっと気がついたのか、山崎がテーブルの灰を払った。大きな掌だ。指の隅々にも、脂肪がへばりついている。
「俺にはどうしていいかわからん。それで、話をしようと思った」
 山崎が、短くなった煙草の火を灰皿で消した。そして再び、グラスに口をつける。
「潰せるんすか」
 いつもの甲高い子供のような声が、いくらか低くなった。山崎はグラスをテーブルに置き、こちらに眼をやっている。
「今はまだ、俺のシノギですよ。でもそのうち、もっと太いものにしようと思ってる。そうでもしなきゃ、戻れませんよ」
 山崎が恭撰会に預けられたのは、西和協同組合で以前、何かヘマをしでかしたからに違いなかった。丁稚奉公。事実上の左遷に近い。だが、これでもやくざだ。預けに出されたままでは修まらないという心情は、理解できなくもない。
 山崎の眼つきが違っていた。何かに追い詰められた獣のような、鋭い眼だ。眼光に気づいたのか、隣の管が身構える。
「潰せるなら、潰してみてくださいよ」
 視線をぶつけ合わせたまま、山崎が低くいった。椅子から尻を浮かせ、立ち上がる素振りを見せる。管もまた、似た動きを見せた。
「真山さんがこっちを潰すつもりなら、こっちも潰しにかかりますよ、真山さんを」
 山崎が腰を上げ、席を立った。テーブルの周りで張り詰めていた空気が緩む。張り詰めた空気に気づいたのか、山崎が店を出てゆく時、店員は誰一人として口を開かなかった。
「さあて、どうすんだ」
 間延びした口調で、管がひと事のようにいう。
 煙草を摘むと、火種が指の端を炙った。俺はそれを灰皿に押し付け、捻り潰した。
 
(十八)
 
 ロックグラスに氷を放り込み、棚から引っ張り出したターキーを注ぐ。氷に罅が入り、それが琥珀色の液体に浮いた。それを口に含み、グラスを持ったままベッドに横たわる。
 山崎に退く気はない。全面対抗の姿勢を見せた。俺が動けば、言葉通りこちらを潰しにかかる。横浜から渋谷、渋谷から六本木。叩くなら、西和のビジネスへと発展する前、山崎が個人的に近い形でそれを行っている今のうちがいい。だが、具体的にどう動けばいいのか、考えても答えが出ない。
 テーブルの上で、スマートフォンが鳴った。ベッドから起き上がり、液晶を見る。江だった。
「真山くん?」
 テーブルに放り出された腕時計に眼をやる。午前五時を少し周ったところだった。返事をすると、江はいくらかいい淀み、口を開いた。
「ほんとは、こんな電話したくないんだけどね」
「どうした。子供でも出来たか」
「脅されてるんだよ、真山くんを呼べって」
 俺の冗談を無視し、江が続けた。
「ちょっと面倒くさいんだけど、来てくんないかな」
 脅してはいない、と、電話の向こうで微かな声がした。誰だろうか。
「脅されてるって、誰にだ」
「刑事さん」
 刑事が俺に何の用だ。最近何かしでかしたか記憶を探ったが、何も出てこなかった。
「そう、刑事」
 ターキーをもう一口含み、飲み下した。
「とにかく来てくんないかな。もう、面倒くさいよ、この人たち」
「今どこだ」
「交差点。煙草屋の前」
 二十分でいくと答え、回線を切った。
 手早く身支度をする。ジーンズをスラックスに履き替え、ジャケットを羽織る。スマートフォン、煙草、ライター、財布。持つ物はそれだけだ。狭い玄関でローファーを履く。
 消防署の前を通り、檜町公園を右手に坂を昇る。ミッドタウンを通り過ぎ、外苑東通りに出た。横に長く視界を塞ぐ首都高渋谷線の高架の先に、遠く東京タワーの影が見える。夜はすでに明けかかり、タワーは灯を消していた。
 交差点を渡ると、江の姿が見えた。二人の男と向き合っている。江はいつもの通りラフな格好だったが、向き合う二人組はスーツだった。
 江が俺に気づき、こちらに視線を送ってくる。平日の朝だ。人も車も捌け、交差点付近では数台のタクシーが客を待ち、営業を終えたキャバクラの黒服が、あちこちでゴミの入った袋をビルの外に出していた。
「ごめんね、真山くん」
 スーツの二人に眼をやったまま、俺は応えた。一人は五十代、もう一人は俺より若い。
「真山さんだね」
 歳嵩の方がいった。白い物の混ざった癖のある髪が塊になって頭に乗り、それがカツラのように見えた。
「そうだ」
 歳嵩がスーツから黒い革の手帳を取り出し、頁を捲り、こちらに見せた。警察手帳だ。それを見せる男と同じ顔の写真が貼り付けてある。
「警視庁捜査一課の大野です。こっちは宗形」
 若い方が目礼した。二十代の半ばだろう。体育会系なのか、スポーツ刈りのような髪型をしている。
「捜査一課?」
「捜査一課です。六本木墓苑で屍体が見つかった事件は知ってるね?」
「ああ、知ってる。それであんたら一課の人間が出張ってるのか」
「そういうことです。事件についてちょっと話を聞きたい」
「任意か?」
 訊くと、大野が苦笑した。
「それに関しちゃね、その、コオさんといったか、そっちの方とも問答したところだよ」
「真山くん、汚いんだよ、この人たち」
 江が口を尖らせる。
「任意ですよ。任意ですがね、こちらとしちゃ、どうしても話を聞きたい」
 大野がいい、続けた。
「断るのは自由ですよ。あくまで任意ですから。ただ、断られるとなると、こちらも相応の措置をとらせてもらう」
「監視を付けるんだって、真山くん」
「そうはいってない。あんたらをマークすることになる、といったんだ」
「あんたたち、キャッチだろ?」
 初めて、若い方が口を開いた。
「一々目ぇ付けられてたんじゃ、商売になんないんじゃないのか。まっとうな格好をしちゃいるが、あんたら非合法な手で食ってんだろう」
 声も若かった。子供が粋がっているようだ。
「生意気なガキだな。躾が足らんよ、大野さん」
「何?」
 宗形とかいう若い刑事が肩を振りつつ、一歩踏み出した。
「やめろ、宗形」
 大野が宗形を手で遮る。
「どうするね?真山さん。そっちの自由だ」
 俺は宗形に注いでいた視線を、大野へ移した。
「その手口で江に俺を呼ばせたのか、大野さん」
 返事はなかった。頷いたつもりなのか、大野は小さく顎を引いた。
「汚いやり口には違いないな」
 俺はいいつつ、交差点を渡った先、麻布署のある四丁目方面を顎で示した。
 
 連れていかれたのは、地域課のある三階だった。明かりの消された暗い廊下で、先頭の大野が立ち止まり、いった。宗形が後方から俺を追い越し、廊下の先へと歩いてゆく。そして宗形が地域課の部屋へと消え、やがて戻ってきた。
「部屋が塞がってます」
 傍らで、大野が鼻で息をつく。
「取調室なら空いてるそうです」
 それを聞き、また大野が苦笑する。
「不本意かも知れんが、いいかね。取調室で」
「かまわんよ」
 俺が答えると、大野は地域課の部屋へと歩き出した。
 今時、取調室は禁煙であるらしい。火の着いた煙草を挟む手にバツ印の付いたプレートが、部屋の壁に貼り付けてある。灰色のデスクが一つと、それを挟むようにデッキチェアが二脚。
 田舎で悪さをしていた頃、警察署の取調室にはブリキの灰皿があった。取調べが長引けば長引くほど、警官が喫う煙草で灰皿に山ができる。壁には一枚のマジックミラーがはめ殺しにされ、正直に吐いてもカツ丼など出てこない。
 もっとも、今俺がいるのは警視庁麻布署の取調室だ。蛍光灯のルクス数は高く、椅子の座り心地も悪くない。壁にはマジックミラーもなかった。地域課にぶち込まれる連中といえば、自転車泥棒だのといった小物だろう。
「個人情報だから、あまり見せちゃいけないんだけどね」
 大野がいいつつ、書類を二枚、デスクに置いた。履歴書。康佑とカナの物だ。
「三丁目に『グリーン』ってクラブがあるでしょう」
「ああ」
「二人がそこに勤めてたのは知ってるな?」
「知ってる」
「漢那康佑と安座間加奈。共に二十一歳」
「二人がどうかしたのか」
「姿をくらましてる。勤め先にも、もう二週間以上出勤していない」
 大野が二人の履歴書を重ね、デスクの上に伏せた。宗形は、部屋の隅で無言のまま立っている。
「墓苑の事件は知ってるな?」
「さっき答えたろう。知ってるよ」
「指紋が出た」
「指紋?」
「そう。指紋」
「凶器でも残ってたのか」
 少し沈黙があった。どこまで事実を明かしていいか、思案しているようだ。
「凶器はなかった。それで、これはまだ伏せているが、屍体からは性器と睾丸が抉り取られてた」
「下半身に何も着けていなかったのは俺も見た」
「現場にいたのか?」
「さっきあんたらが苛めたのがいるだろう。江だ。奴から知らされて見にいった」
「まあ、真山さんも夜の商売だからね」
「指紋が出たといったな」
「出た」
「凶器は残ってないともいった」
 咳払いが聞こえた。宗形だ。
「皮膚から出たんだよ」
「皮膚?」
「そう、屍体の皮膚から出た。今は可能なんだ、そんなことが。かなり時間と手間はかかるがね」
 煙草を喫いたいのを堪えた。部屋は禁煙だ。灰皿も出てきやしないだろう。
「消えた二人との繋がりは?どちらかに前科でもあったのか」
「前科はなかった。だが引っかかった。データベースに」
 前科さえなければ、指紋が警察庁のデータベースに登録されることはないはずだ。警官は皆指紋を取られると聞いたことはあったが、二人に警察関係者だった過去はない。
「警察庁のデータには引っかからなかった。だが、別のデータベースには引っかかった」
「なんだそりゃ。わかるように説明してくれ」
 大野が視線を逸らした。宗形の方へ眼をやる。そしてまた、それをこちらへ戻した。
「自衛隊だよ。ちょっとしたコネがあってね。防衛省のデータベースだ」
 いくらか間があり、大野が続ける。
「自衛隊員は入隊時に指紋を取られる。それが防衛省に残ってた。屍体から採取した指紋をそっちのデータに照らし合わせると、漢那康佑の指紋と一致した。漢那にしてみれば盲点だったろうな。こちらのコネと今の警察の技術は」
 宗形が動いた。部屋の隅から歩み寄り、手にしていた紙切れを何枚か、デスクに置く。写真だった。俺と康佑、そしてカナが写っている。ワイシャツ姿の俺が片手で康佑のベルトを摑み、もう片方の手でカナを引き摺っていた。三人がビルから脱出し、タクシーに乗り込むまでの一部始終を、何枚かの写真に収めてあった。視点がかなり高い位置にある。六本木のあちこちに設置された、街頭監視カメラだ。
「安座間加奈の着ている服は真山さん、あんたのジャケットだね」
 大野が訊く。
「あのビルであの日、何があった?」
 宗形は部屋の隅に戻らず、デスクの傍らに立ったままでいる。そして、いった。
「真山さん、あんたね、重要参考人なんだよ。喋ってくれなきゃ困るんだ」
 大野がそれを眼で制した。鬱陶しい若者だ。刑事でなければ蹴っ飛ばしている。
「詳しくは知らん」
 大野の眼が、見開かれた。
「康佑から電話があった。助けてくれってな。場所を訊いたら、そのビルだった」
「それで?」
 急いたように、大野が先を促す。
「助けにいった。十一階に。『アルティメット』って店があるだろう。クラブだ」
 宗形がスーツから手帳を取り出し、忙しくペンを走らせ始めた。
「何があった?」
 大野が急かす。
「詳しくは知らんといったろう。何かが起きた時、俺はそこにいなかった。俺がいったのは事が終わった後だ」
 宗形のペンの動きが止まった。
「康佑とカナをビルから引き擦り出した。タクシーに押し込んで、家まで送っていった。二人の自宅は調べたのか?」
「とっくに調べたよ」
 荒い語気で宗形が言う。
「空っぽだった。二人の持ち物らしきものは見つからなかった」
「宗形」
 大野が咎める。不満そうな表情で、宗形が口を閉ざした。
「二人とはどこで知り合った?」
 大野が質問を続ける。
「五丁目の牛丼屋だ。紹介したのは江だった。見ない顔だからって、そのしばらく前に声をかけていたんだそうだ」
「二人に最後に会ったのは?」
「写真に写っている日が最後だよ」
 二人が揃っていたのは、その日が最後だ。後日カナとは会ったが、その場に康佑はいなかった。二人と会ったわけではない。
「他に訊きたいことは?」
 今度は俺がそう訊いた。大野も宗形も、黙っていた。二人が目配せをし合い、宗形が部屋を出てゆく。
「力になれなかったようなら悪かったね。だが俺が知ってるのはそれだけだ」
 大野がこちらから眼を放し、視線を虚空に漂わせた。
「帰っていいか」
 黙ったまま、大野は頷いた。
 
(十九)
 
康佑が指名手配されたことを、朝のニュース番組が伝えていた。伝えたのは、九時から始まる番組だ。五時から始まる朝一番のニュース番組では、事件に関する報道は一切なかった。裁判所とのやりとりを終えるのに、それだけの時間がかかったのだろう。街頭テレビの画面には、康祐の顔が大写しになっている。麻布署の取調室で見せられた履歴書に貼り付けられていた、あの顔写真だった。
 墓苑で発見された屍体から性器と睾丸が切り取られていたことに、番組のキャスターは触れなかった。その猟奇的ともいえる事実を、まだ警察は伏せているようだ。
 康佑による犯行は、やはり復讐なのだろうか。だとするなら、殺され、性器を切り取られるのは一人では済まない。あの夜、『アルティメット』のVIPルームでカナを姦したのは複数の男だ。康佑の中に執念のようなものがあれば、手配されながらも狩りをやめない。カナを連れて逃走するのではなく、この六本木の街のどこかに潜伏し、カナを姦した男達全員を、狩る。そして康介は、カナが孕んでしまったことを、知ったのだろうか。
 康佑の携帯電話にも、カナのそれにもかけてみたが、繋がらない。今の携帯電話には、GPS機能が搭載されている。回線が繋がれば瞬時に居場所が数メートル単位で割れると聞いたことがあった。電波の届かない場所にいるわけではない。居場所の探知を恐れ、どこかで買ったキットか何かを使い、スマートフォンに細工でも施したのだろう。
 部屋の呼び鈴が鳴った。壁にかけられたインターフォンの受話器を取り、耳に当てる。
「はい」
 反応がない。微かなノイズだけが聞こえた。
「どちらさんかな」
 部屋を訪ねてきた相手は、やはり何もいわなかった。
 玄関に続く短い廊下を歩き、ドアの魚眼レンズを覗き込む。何も見えない。指の腹か掌で、レンズを塞がれているらしい。あまり嬉しい訪問客ではなさそうだ。
 部屋に戻り、椅子に腰をかけた。立て続けに四度、呼び鈴が鳴る。居留守を決め込んだ。静かにしていれば、いずれ立ち去るだろう。
 ドアノブを回す金属音が響いた。鍵のかけられたドアが力任せに引かれ、重い音を立てる。それがやむと、ドアの向こうから人の気配が消えた。
 だが突然、ドアノブと何かが激しくぶつかる耳障りな金属音が鳴った。二度、三度。金属が叩かれ、歪み、形を変える音。ドアノブが叩き壊されようとしている。衝撃の走る度、ドアそのものが震えていた。
 四度、五度。五度目のそれは、いくらか甲高い音だった。鍵がドアノブもろとも破壊されたらしい。
 部屋の明かりを消し、遮光カーテンを閉めた。外は明るい。侵入してくる誰かよりも先に、眼を闇に慣らしておく。玄関へと至る短く狭い廊下に、俺は立った。
玄関のドアが勢い良く開かれ、数人が土足のまま雪崩れ込んで来た。無言のまま、動きだけが速い。
 先頭の男が殴りかかってくる。頬を狙ったストレートとフックの中間のような突きだ。上半身を退いた。拳が唇の先を掠める。眼が慣れていないのだろう、眼眩打ちのようなそれだった。空振った男の脇腹が見える。蹴った。男が狭い廊下を転がり、次にいた男がたたらを踏んだ。その先に、もう一人いる。計三人。この狭い廊下で一人ずつ片付けるしかない。
 もう一度蹴った。さらにもう一度、体重を乗せて蹴りを浴びせる。急所を狙う余裕はない。息が切れる。男達は無言のままだ。
 男が立ち上がろうとする。前蹴り。効かなかった。男はシンクの淵に手をかけ、力で身体を引き上げていた。
「おあっ!!」
 男の先で、悲鳴が聞こえた。声がひっくり返っている。影が一つ、視界の下へと消えた。先頭の男がそれに気づく様子はない。拳。飛んできた。避けはしたが、摑み損ねた。男は突き出した拳を瞬時に引き、顎の先に構える。
 さらに悲鳴。二人目の男が、狭い廊下の壁に頭をぶつけ、昏倒した。俺と対峙していた先頭の男がようやく異変に気づき、後方を振り返った。
 黒髪のオールバック、ダークスーツ。病的にギラついた眼。
 管。
 二人の男を片付けたようだが、右手はスラックスのポケットに突っ込まれたままだった。
 先頭の男が上半身を捻り、背中をこちらに向けていた。突然現れたオールバックの筋者めいた男に気を取られている。管との間に二人の男が転がり、呻きのような息の音をあげていた。
 左足を前へと踏み込む。拳を引いた。
「おい」
 呼ぶと、男が振り返る。口が開いたままでいた。
 腰を捻り、拳を口に叩き込んだ。
 ぶえ、というような音を鼻の穴から漏らし、男が仰向けに昏倒した。
 拳に手応えがあった。突きがきれいに入ったときの、あの手応えだ。
 俺の拳を喰らった男が短い金髪であることに、そこでやっと気づいた。歳の頃は三十代の半ばだろう。金色の短い針金が頭皮からびっしりと生えている。ダメージジーンズにTシャツ。髪といい服といい、年齢に相応なものとはいえなかった。鍛えているのか、仰向けにひっくり返った男の上半身は筋肉が発達し、サイズの合っていない白いTシャツがその形に張り付いていた。
「なんだ、こいつらは」
 昏倒した針金頭のちんぴらに眼をやったまま、訊いた。管にやられた二人も、似たような系統の出で立ちだ。
「西和の連中じゃねえか?」
 管が靴を脱ぎ、あがり込んでくる。意識を失いかけている男の一人を摑み、廊下の壁に顔面を叩き付けた。
「西和だろ、お前ら。ええ?」
 男は答えない。荒い息の音だけが聞こえている。
 管が男の腹を膝で蹴りあげた。男が気味の悪い声を漏らし、その場で嘔吐した。
「ああ、ああ。汚ねえなオイ」
 口から吐瀉物を流す男を、管がコンクリの玄関へと放った。
「真山、お前、もう潜ったほうがいいぞ」
 俺の拳を喰らった針金頭が、うっすらと開いた両の眼から、目玉の白い部分を見せていた。叩き込んだ拳に、少しずつ痛みが沸く。見ると、歯にでも当たったのか、鈍い切り傷が二つ三つ走り、血が滲み出ていた。
 シンクの端に布巾がある。それを手に取り、拳の血を拭った。
「あの山崎とかいうデブの差し金だろう、こりゃあ。こっちがどう動いていいかわかりもしねえうちに潰しにかかってきやがった。この部屋にいりゃ危ねえぞ」
 部屋は割れている。潰しにかかってきたこの連中が返り討ちにあったことも、山崎の耳に入るだろう。次はどんな連中が押し寄せてくるかわかったものではない。
 部屋に戻り、支度を始めた。押入れから鞄を引っ張り出し、下着を何着か詰め込む。さほどの荷物ではない。
 廊下に転がる三人の男を跨ぎ、部屋を出た。
「こいつももらっておく」
 ドアノブと錠を叩き壊すのに使われた大型のハンマーが転がっていた。
「どうすんだよ、そんなもん」
「近隣の住人にでも通報されたら厄介だ。しばらくすれば、奴らも眼を覚まして退くだろう」
 マンションに面した路上に、管のBMWが停まっていた。エンジンはかかったままだ。後部座席に鞄、トランクにハンマーを放り込む。
 運転席に座り、サイドを下ろした。ウィンカー、サイドミラー。一台をやり過ごし、クラッチを繋ぐ。
 消防署を過ぎ、信号のあるT字路を左に折れた。
 
(二十)
 
 身を潜める先として思い浮かんだのは、ロアビルに入っているサウナだ。チェックインに面倒な手続きなどが必要なく、二十四時間、何時でも出入りが可能だ。シャワーがあり、仮眠室があり、コインロッカーもある。フロントにはスタッフが常駐し、訪問客との仲介もしてくれる。潜む先は定期的に変えたほうがいいだろう。居場所の割れる気配を感じたなら、それからはまたどこかのサウナか漫画喫茶にでも潜り込めばいい。
「どこに潜る?」
 助手席の管が訊いた。
「サウナ」
 ギアを入れた。歩行者用の信号が点滅を始める。
「ロアビルに入ってたはずだ。先ずはあそこにいく」
 首都高渋谷線の高架を潜り、交差点を抜けた。クラッチ。二速。外苑東通りを走る車は、他にほとんどいない。ものの数分で、目的地であるロアビルの前に着くはずだった。
 だが、俺はブレーキをフロアまで深く蹴っ飛ばした。フロントタイヤがスキール音を立てる。
「うおっ!!」
 助手席の管がつんのめり、ダッシュボードに両掌を叩きつけた。ベルトを締めていなかったらしい。
「何すんだ!」
 ギアをリバースに入れ、上半身を後方へ向ける。リアガラスに車の姿はなかった。アクセルを煽り、クラッチを繋ぐ。今度はリアタイヤが鳴き、BMWが後退を始めた。
「なんだってんだよ!?」
 視界の隅を、カナの姿が横切った気がした。外苑東通りから折れ、六本木墓苑へと至る、下り坂になった路地だ。ステアリングを切る。リアガラスの視界が横へと流れ、BMWが尻を路地へと突っ込んだ。ブレーキを踏み、上半身を後方へ捻ったまま、眼を凝らす。カナだ。間違いない。雲で濁った陽の下、ワインレッドのスーツケースを曳きながら、緩い坂をこちらへと歩いている。
「なんだ!?答えろよ!」
 管のオールバックが乱れていた。急ブレーキをかけた際、どこかにぶつけたらしい。
「探し物だ」
 ドアを開き、車を降りた。カナと視線が合う。
「真山さん・・・」
 前に見たときよりも痩せて見えた。眼の下にも、うっすらと隈がある。
「なぜ電話に出ない」
「あ・・・」
 声を漏らし、カナがスーツケースのサイドポケットを探った。携帯電話を取り出し、力なく笑って見せる。
「電源、切りっぱなしでした・・・」
 開いたままのドアに片手を掛け、もう片方の手でシートの下にあるレバーを摘み、引いた。車体後部のハッチが鈍く開き、トランクが覗いた。
「荷物を載せろ」
 促すと、カナがスーツケースを持ち上げる。何が詰まっているのか知らないが、女の腕には重すぎるようだ。手を貸してやり、それをトランクに収めた。
 後部座席のドアを開き、カナを乗せる。ドアを閉め、俺は運転席へと収まった。
「あんだあ?この娘は?」
 上半身を後部座席へと捻り、管がいう。カナの表情が怯えていた。無理もない。全身黒ずくめのスーツにオールバック、眼は筋者のそれだ。
「怖がらなくていい。やくざ崩れの癌患者だ」
 管が苦笑した。カナは笑っていない。表情を強張らせたまま、後部座席で小さくなっていた。
「そこの墓苑で起きた惨殺事件は知ってるだろう、管さん」
 捩っていた上半身をこちらへ向け、管が答える。
「ああ。それがどうした?」
「犯人として手配されてる若い男のコレだ」
 俺は右手で拳を造り、小指を突き立てて見せた。管の表情から笑みが消え、もう一度上半身を後部座席へと向けた。
「嬢ちゃん、どうしてこんなところをウロチョロしてんだ?警官にでも見つかったらアレヤコレヤと訊かれっぞ」
 その通りだった。康祐が指名手配されたにも関わらず、街に警官の姿が増えた様子はない。墓苑で混血のボクサーを殺した後、二人は連れ立って逃走したと警察は見ているようだ。だが、二人が別行動を取っているとなると話が違ってくる。手配されているのは康祐でありカナではないが、その姿を見つけられればカナは署にでも連行され、尋問されるだろう。
バックミラーの中で、カナと視線が合った。
「康佑はどうした?」
 カナが眼を伏せる。そして、首を何度か小さく横に振った。
管が前方へと向き直り、脚を組んだ。目の前にある外苑東通りをちらほらと、車が低速で走り抜ける。俺はバックミラーを見つめたまま、カナの唇が開かれるのを待っていた。
「・・・お別れしました。昨日・・・」
 ジャケットから煙草の箱を取り出した。
 助手席の管がこちらを睨む。禁煙車だ。
「話したのか。康佑に」
 バックミラー越しに、カナが小さく頷くのが見えた。
「病院に行きました。エコーの検査もして。そしたらやっぱり・・・」
「入ってたか」
 また小さく、カナが頷いた。
「一方的にいわれました。『お別れだ』って。銀行の預金通帳と印鑑を渡されて。二人で少しずつ貯めてたんです、お金」
 フロントガラスの向こうで、牛のようなツートンカラーをした野良猫が路地を横切った。鈍い動きだった。歩く速度まで牛のようだ。
「子供は堕ろせ、っていわれました。『おれはやることをやるから』って。あたし、いったんです。『あたしは大丈夫だから、やめて』って・・・」
 カナの下目蓋に、涙が溜まっていた。眼は伏せていたが、バックミラー越しにも、それがよく見えた。
「『おまえに突っ込んだ奴ら全員、アレを切り取って殺してやる』って。『自分のためにやる』って・・・」
 両の頬を、目蓋から溢れ出した涙が伝った。両手で涙を乱暴に拭い、そしてその手で顔を覆った。
 管が遠い眼で、前方の外苑東通りを眺めていた。話は見えないだろう。俺たちが追っている大麻のそれとは、全くの別件だった。
「真山さん・・・康佑を、止めて。あたしじゃ無理だった・・・」
 涙声だった。それだけいうと、カナは声を押し殺して泣き始めた。
やはり康佑は、復讐といった意味で殺しを働いたのだ。
「とにかく、あまり外をウロつくな。お前の姿が見つかったとなると、警察の動きも変わってくる。泊まる所はあるのか」
 両手で顔を覆ったまま、カナは小さく首を横に振った。
「俺も訳あってしばらく部屋に帰れない。これからロアビルのサウナに潜るところだ。お前さんもとりあえずそこに身を隠せ。それからもう一度いうが、あまり外を出歩くなよ」
 クラッチを切り、ギアを入れた。サイドブレーキを下ろす。外苑東通りに出れば、ものの数百メートル先の左手にドン・キホーテ、対向車線を挟んだ右手には、ロアビルが見えてくる。いくつか立ち並ぶ信号機の先に、赤い東京タワーが見えていた。

#8につづく


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