見出し画像

小説「哀しみのメトロポリス」#8

#創作大賞2024 #ミステリー小説部門 #六本木

(二十一)
 
身勝手なものだ。個人的な怨恨を晴らしたいが為に女を棄て、刃物を手に暴走する。心情は理解できるが、やはりそれは愚かな行いだといえるだろう。「若さと愚かさは同義だ」と、昔読んだ何かの本に書いてあった。ヘミングウェイのような風貌をした日本人の作家が書いた本だ。それは今も、部屋のどこかにある。
 カナにはあまり外を出歩かせたくない。当面の間、身を隠すのに必要な物を訊いたが、何も要らないとカナはいった。着替えの類はスーツケースに収めてあり、食欲は湧かないそうだ。
 サウナの内部は男性用のフロアと女性用のそれに分かれていた。とりあえず何か買ってくるといい残し、カウンターでカナを待たせ、俺はロアビルの外に出た。
 吹き溜まりの角にコンビニがある。店内に入り、フィルムでラッピングされた握り飯と惣菜パンを四つずつ、それから保存食として、陳列された缶詰をあるだけ籠に放り込んだ。余計な気を利かせ、生理用品のコーナーで足を止めた。カナは妊娠している。月経などないだろう。
 ペットボトルに入った飲み物をいくつか籠に放り込み、レジの台に置いた。店員がマニュアル通りの言葉を吐き、ハンディでバーコードを読み取ってゆく。
 スラックスの中で携帯電話が鳴った。LINEかと思い、放っておいたが、着信音は鳴り続けた。会計を終え、食料の詰まったナイロン袋を片手にぶら下げたまま、店の外で携帯電話を取り出した。液晶に眼をやる。真紀だった。
「意味わかんないんだけど」
 回線が繋がった途端、真紀の冷たい声が聞こえた。しばらく行方をくらますことを、LINEで伝えたきりだった。
「文面の通りだ。しばらく潜る」
「だから意味わかんないって」
陽が沈みかけている。ぽつりぽつりと、街の明かりが灯り始めていた。吹き溜まりに入り込んだタクシーが方向転換しようと、リバースランプを光らせるのが見えた。
「話すと長い。解決するまでは話すことでもないしな」
「そんなこといったってさあ・・・心配するじゃん」
 オーライ、オーライと、色の白いガキが数人、バックするタクシーを誘導していた。皆が皆、片手にコロナやスミノフの瓶を握っている。
「事が終われば説明する。少し待っててくれ」
「オーライ!オーライ!」
 何かと何かがぶつかり、歪み、割れるような音が鳴った。眼をやると、タクシーが尻を電信柱にぶつけ、トランクが変形し、リアバンパーが割れていた。誘導していたガキ共が嬌声を挙げ、馬鹿笑いをしている。
「何?何の音?」
「何でもないよ」
 そこで突然、轟音が鳴った。何かが破裂したかのような大きな音だ。再び眼をやる。
 タクシーのルーフが大きく凹み、その上に人が横たわっていた。動く気配はない。上空から落ちてきたのか。衝撃で粉々に割れたタクシーのガラスが、辺りに散らばっていた。
「何!?今の音!?」
「またかける」
 スマホのスピーカーから、真紀が何かをいう声が聞こえたが、回線を切り、スラックスに収めた。食料の詰まったナイロン袋をアスファルトの地面に置き、タクシーへと駆け寄る。先ほどまで嬌声を挙げていたガキ共は黙り込み、いつもは騒がしいその吹き溜まりが、不気味なほど静かだった。
 派手に湾曲したルーフの上に、色の黒い男がぴくりとも動かず横たわっている。ルーフを隔てたその下で、運転手が首を竦め、ステアリングを両手で摑み、両眼を見開いて震えていた。
 潰れたルーフの上に横たわる色の黒い男は、もう息がないようだった。そして男の顔に、見覚えがあった。
 両手で股間を押さえていた。手と手の間から黒い血が流れ、湾曲したルーフへと筋を描いている。押さえられた手を摑み、退かそうとした。死に物狂いで押さえていたのか、両手は硬く重なり、動こうとしない。両手で摑み、力づくで開いた。粘り気のある黒い血が、気味の悪い音を立てて溢れ出た。性器はない。睾丸もなかった。ただ赤黒く、抉り取られた肉の断面が覗き、血が溢れていた。
上空を仰いだ。吹き溜まりの周囲に建つビルの上部に、一つ一つ眼をやる。
 人影が動き、消えた。いつか俺がスティーブを脅したビルだ。
 エントランスに駆け込み、エレベーターの上昇ボタンを押した。ボタンの横にある小窓で、LEDが8の字に光っていた。七階、六階。箱が五階で停止した。何をしている。
 痺れを切らし、外階段を駆け上がった。ビルは十階建てだ。一気に駆け上がる気でいた。各階の踊り場に、使っていないスツールの類や、空瓶の詰まった半透明の袋、ギネスのロゴが入った看板などが積みあげられていた。
屋上に出る。貯水塔が二つ並び、その先に巨大な東京タワーが迫っていた。
 完全に息が切れていた。酸欠で眩暈を起こしている。軽い吐き気も伴った。二度、深く息を吸い、そして呼んだ。
「康佑!」
 少し待ったが、返事はない。
「康佑!」
 もう一度、叫んだ。
 貯水塔の脇から人影が現れ、正対した。康佑だ。
 眼が異様にギラついていた。カナもそうだったが、頬はこけ、ギラつく眼の下には隈がある。右手に何か光沢のある物を持っていた。眼を凝らす。サバイバルナイフだ。刃のあちこちが血で汚れ、その隙間が、街の明かりを鈍く反射していた。
「止めに来たんですか、真山さん」
 表情を一切変えず、口だけを動かし、康祐がいった。気の狂った腹話術でも見ているようだ。
「そうなるな」
 風が頬を薙いだ。ジャケットの下に着ているワイシャツが、汗で背中に張り付いている。
「無駄ですよ」
 また口だけを動かし、康佑がいう。そして、駆けた。
「おい!」
 屋上の端まで駆け、康佑が手摺を乗り越えた。
「何する気だ」
 屋上の淵を、ジョギングでもするように康佑が駆け、そして、跳んだ。
「馬鹿野郎!」
 飛び降りたのかと錯覚した。康佑は屋上の淵から、隣のビルの外階段に跳び付いた。懸垂の要領で身体を引きあげ、階段に身を滑り込ませる。猿のような身のこなしだ。
「冷や汗かかせるなよ、康佑」
 俺の台詞を無視し、康佑が階段を昇り始めた。パンチングされた鉄板の隙間から、コンバットブーツのような靴が見える。靴底が階段を打つ硬質な音が、響いていた。
「どこで買ったんだ、そんな物?」
「これですか」
 隣のビルの外階段を昇りつつ、康佑がナイフを握る右手を挙げて見せた。
「上野です」
 隣のビルは、こちらのビルよりも高い造りになっていた。十一階建てか、十二階建てか。外階段を昇る康佑の姿が上昇してゆく。
「全員殺る気なのか、康佑。カナを姦した連中を」
 返事はない。靴底が鉄板を打つ音が聞こえるだけだ。
「康佑、カナはそれを望んでいない。お前を止めるようにいわれたよ」
 一瞬、康佑が階段を昇る歩を止めた。音がやみ、そして再び、康佑は階段を昇り始めた。
「あいつとはもう、終わりました」
 外階段を昇り詰め、康佑が屋上に達した。姿を眼で追ううち、康佑を見あげる格好になった。
「なぜそんなことをする」
 康佑がこちらを見下ろした。その両眼に、涙が光っていた。
「眼の前で恋人を姦されて、おまけに妊娠までさせられたんじゃあ・・・」
 康佑が顔を背けた。涙を見られたくないのか。
「想像してたのと違った・・・、都会に出てきたら。大した仕事にも就けずに、仕舞いにはこれだ・・・」
 声色で、康佑が絞り出す。
「康佑、私情に走り過ぎたんだよ、お前は。冷静に考えてみろ。これからお前とカナが上手くいく最善の選択がこれか?奴らのアレを抉り取って、皆殺しにすることか?」
「わかってますよ!」
 康佑が叫んだ。悲鳴に近い声だった。
「でも、だめなんだ・・・。許せない・・・。頭じゃわかってても・・・」
 パトカーのサイレンが遠く聞こえた。地上を見下ろす。人が集まり始めていた。
「あいつら、代わる代わる・・・カナに圧しかかって・・・」
 嗚咽を漏らしていた。無理もない。二十一歳。まだ子供に毛が生えたような歳だ。そんな康佑の眼の前で繰り広げられた現実は、過酷に過ぎたはずだ。
「今ならまだ、止まれるぞ」
 康佑を見あげ、いった。
「もうだめですよ、真山さん。もう戻れない」
「止まることは出来る」
 康佑が顔をこちらに向けた。涙で濡れながらもギラついた眼が、俺を射抜いた。
「止まりませんよ、真山さん。もう手遅れだ」
 低くいい、康佑が背中を見せた。
 サイレンの音が近い。見下ろすと、赤色灯を点滅させたパトカーの姿が見えた。
 隣のビルの屋上を仰ぐ。
 康佑の姿はもう、消えていた。
 
(二十二)
 
ジャケットを着込み、煙草とオイルライター、そして名刺入れとスマートフォンをポケットに収めた。腕時計を左腕に巻きつけ、財布はスラックスのバックポケットだ。ロッカーに鍵を閉め、フロントにいる頭の禿げた中年の小男にキーを渡す。サウナには一週間分の金を払ってあった。外出は自由だ。
 スリッパをローファーに履き替え、サウナを出た。ロアビルの外に出ると、路肩に寄せた管のBMWが見える。その人影は運転席にではなく、助手席にあった。今日もステアリングを握る気はないようだ。
 正午に近かった。平日の昼、六本木。車や人の姿はまばらで、街は昨夜の大騒ぎが嘘だったかのように、昼間から枕を高くして眠っていた。
 昨夜、数台のパトカーに続き、サイレンは鳴らさず赤色灯だけを光らせた救急車が到着すると、死体は大きく歪んだタクシーのルーフから引き摺り降ろされ、ストレッチャーで救急車の中へと収められた。やがて今度はサイレンを鳴らした消防車が到着し、隊員が物々しい大型のスチールカッターを手に、タクシーの中にいる運転手の救出に当たった。ルーフは変形し、ガラスは粉々に割れ、フレームが歪んだのかドアは開かず、運転手は自力での脱出が不可能らしかった。
 平日の夜とは思えないほど人が集まった。大勢の野次馬、警官、そして報道関係者。『KEEP OUT』と記された黄色いテープが大破したタクシーの周囲に張られ、運転手の救出作業が続けられた。ドアが取り払われ、運転手が車内から引き摺り出されると、怪我はないように見えたが、やはり別に到着した救急車へと乗せられ、現場を後にした。現場検証が夜通し続き、到着した警察のレッカー車が吹き溜まりの脇で出番を待っていた。大破したタクシーはやがてレッカーに繋がれ、砂浜に乗りあげた鯱のような格好でどこかへと曳かれていった。
 騒ぎを聞きつけて現れたカナを見つけ、俺はサウナへと連れ帰った。あまり外を出歩かせたくない。
「大した事はない」
 俺はカナにいったが、説得力はなかっただろう。指名手配された猟奇殺人犯に局部を抉り取られた男の死体が空から降ってきたのだ。とんでもない大騒ぎだった。
 BMWの運転席に乗り込み、ベルトを締めた。管がここまで転がしてきたまま、エンジンはアイドルしていた。
「昨夜は面白かったみてえだな」
 視線を前方へやったまま、助手席の管がいう。
 現場の保存、そして検証の続く中、赤色灯を光らせたまま停車する無人のパトカーに近づき、無線を盗み聞いた。微かに降ろされたサイドガラスの隙間から、あちこちで検問を張るよう指示する本部からの声が聞こえていた。
「検問を張ったらしい」
 少し間があり、へえ、と管が応えた。
「引っ掛かったのか」
「いや、それはない」
 ギアを入れ、クラッチを繋いだ。右にウィンカーを出し、車線に乗る。五十メートルほど走り、ガスパニック・クラブの前で車をターンさせた。六本木三丁目の交差点。信号は赤だった。左手に吹き溜まりが見える。降ってきた男も、大破したタクシーも、群衆も姿を消している。掃除くらいはしてあるのだろうが、真上まで昇りつつある陽の光を受け、集め切れなかったガラスの破片が複雑に乱反射していた。
「警察の動きも変わってくるだろうな」
 肩でも凝るのか、助手席の管が首を回しながら呟く。
「あの嬢ちゃんはどうしてる?」
「カナか?」
「ああ」
「出てきてたよ、その辺に。大騒ぎだったからな」
「それでどうした?警官がウロウロしてたんだろう?」
「サウナに連れて帰った。あまり外に出したくない」
「今はどうしてんだ?」
「眠ってるはずだ。疲れてる」
 現場からロアビルへと連れて帰る時、カナの表情からは憔悴が容易に見てとれた。俺の言葉が耳に入っているのかどうなのか、返事をする力すら湧いてこないように見えた。
「今夜からまた警官の数が増えるんじゃねえか?ああしてまた一人殺られちゃあ」
 信号が青に変わった。クラッチを繋ぐ。ギアは入ったままだ。
 警察は捜査方針を変えるだろう。康佑とカナが二人連れ立って逃走していると見ていたようだが、この六本木の街で、また一人襲われた。康佑は今も、この街のどこかに潜んでいる。そしてカナに突っ込んだ連中を全て殺るまで、凶行をやめない。
「なあ真山、なんだってその小僧はこの街のバカガキ共を手にかけるんだ?元陸自といったか、その小僧」
「動機を訊いてるのか」
 飯倉の交差点を右折車線へと滑り込んだ。対向車が切れるのを待つ。
「まだ警察は伏せてるが、殺された二人の屍体にはいずれもアレが無かった」
「アレ?」
「性器だ。睾丸も。根元から抉り取られてる」
 助手席の管がこちらを見た。視線を浴びるのは、その日初めてだ。
「カナは輪姦された。康佑の眼の前で」
 管の口から、溜息が漏れた。
「よくある話だよ。この街じゃな」
 俺はいい、ステアリングを右に切った。対向車が途切れる。クラッチを繋ぎ、ノーズを東麻布方面へと向けた。
「なんでお前はその若いアベックを気にかける?あの娘っ子を匿ってまで。お前のやってることはよくわからんぜ」
 アベックという古いいい方に苦笑しつつ、少し考え、答えた。
「同類だからかもな」
 首都高速目黒線の高架が、上空に蓋をしていた。
「同類?」
「管さん、あんたどこの出だ?」
「東京だ。佃島」
 佃島、というのが、東京のどこなのかわからなかった。島と名がつくからには、平和島や京浜島などといった埋立地の名だろうか。
「田舎で詰襟を着てた頃な、俺はずっと大人達に騙されていたよ。社会に出れば学歴も何も関係ない、実力次第でどうにでもなる、って」
 二速、三速。ギアを上げてゆく。
「だが実際は、都会に出てみると違ってた。それなりに学がないと、ろくな仕事に就けないし、ろくな会社に入れない。どれだけ必死にやって、どれだけ成果を出しても、はいご苦労さん、だ。大した出世も出来ないし、大した金も貰えない。そんでもって、身体を壊すか歳を取るかすりゃお払い箱だ。要するに、使い捨てだったんだよ」
 管は無言だった。黙ったまま前方を見据え、ただ、聞き耳を立てている。四速、五速。二つ先の信号が、黄色く光るのが見えた。
「仕方がないな、と今では思う。あの田舎で暮らす当の大人達だって世の中なんて知らなかったんだからな」
 ギアを一つ落とした。エンジンブレーキを効かせ、車速を殺す。
「どれだけやっても、安い給料で便利にこき使われるだけだ。それに気づくのに、俺は何年もかかったよ」
 ブレーキを踏む。一つ目の信号を過ぎ、その先の信号は、もう赤に変わっていた。
「初めは川崎の工場で働いていたらしい。派遣会社に住まいを用意してもらって。だが生産縮小で契約が切れたそうだ。派遣切りってやつか。派遣会社はまた別の仕事を斡旋したみたいだが、それが小田原かどこかの田舎の工場だったらしい。それでこの街に流れてきたんだ。せっかく沖縄の田舎から出てきたのに、別の土地とはいえまた田舎で暮らすのは嫌だとさ」
 ブレーキを踏みつつ、クラッチを切った。BMWが静かに、停止した。
「その挙句に、あのザマか。眼の前で女まわされて、今じゃ殺人事件の指名手配犯だ」
 管がいい、腕を組んだ。
「他人事じゃねえってか、真山。人情家だな」
 同情の気配を見せつつも、微かに嘲笑のニュアンスもある。
「そういうわけじゃないが、放っておくのも何だかな」
 信号が青に変わった。クラッチを繋ぎ、車を出す。
「西和の線はどうすんだ?」
 二速。少し引っ張り、三速。
「じきにサウナも割れるぜ。連中、またお前を潰しにかかる」
「山崎とはいずれぶつかるだろう。どこかで必ず。それは避けられそうにない」
 ぶつかることでしか、この線は解決しない気がしていた。山崎との衝突は、不可避に思える。その線に関していえば、西和のちんぴらから下手に逃げ回るより、山崎を潰してしまったほうが早いはずだ。
「真山」
 視界の隅、バックミラーの中で何かが光った。
真山!」
「わかってる」
 後方から、続けざまにパッシングを喰らった。ミラーを睨む。エスティマ。濃い灰色。見覚えがあった。忘れもしない。乗っているのは、やはりヴェクターの連中か。
 ハザードを焚き、車速を殺しつつ左に寄せた。エスティマはBMWの脇を抜け、前方で同じく路肩に寄せると、ハザードを焚いて停止した。運転席のドアが開き、助手席のそれも開いた。続けて後部座席のスライドドア。それぞれから一人ずつ、三人が車を降りた。運転席から降りた白いのがヴェクター。残りの浅黒い二人の名は知らないが、顔に見覚えはあった。
「何だ?あのガキ共は」
 管。助手席からフロントガラス越しに三人を睨みつけながら、そういった。
「カナを輪姦した奴等の残りだ。何の用だろうな」
 管がこちらに一度眼をやり、また前方に視線を戻した。三人はエスティマを離れ、こちらへと近づいてくる。
「出るなよ、車を」
 いい残し、管がドアを開いた。オールバックの頭を屈め、車を降りる。俺はギアを抜き、サイドブレーキを引きあげた。エンジンはアイドルさせたままだ。
 管がBMWのドアを閉め、こちらへと近づいてくる三人へ一歩を踏み出した。三人の動きが止まる。
 エスティマとBMWの間で、空気が異様なほど張り詰めていた。静止画像でも見ているように、三人は動かない。管から放たれる異様な殺気が、三人を射竦めていた。
「ま、真山さんに話が・・・」
 ようやくヴェクターが口を開く。残る二人は黙ったままだ。三人の眼には、畏怖の色が浮かんでいる。何かに怯える小動物のような、情けない眼をしていた。口を開き、物をいうのが精一杯らしく、ヴェクターもそれきり黙った。
 ドアを開き、運転席から降りた。管が振り返る。張り詰めていた空気が、糸でも切ったように溶けた。
「管さん、敵意はないらしい。話を聞こう」
 開いたドアに片手をかけ、いった。
「大丈夫だ、管さん」
 俺はいい、ドアを閉めた。
「何だ、ヴェクター?話とは」
 ヴェクターが一度、息をついた。何かいいかけたようだが、ヴェクターはまた管に眼をやる。一度溶けた空気が少しずつ、また張り詰め始めた。
「こ、こっちは、この人は」
 それだけいい、ヴェクターは口を半開きにした。視線は菅に注がれている。
「大丈夫だ、ヴェクター。手荒な真似をしない限りは」
 視線を辿ると、ヴェクターの眼は恐怖のせいか、あからさまに泳いでいた。
「話とは何だ。早くいえ」
 ヴェクターが深く息を吸い、そして吐いた。
「おれたちはもう、六本木にはいきたくない」
 古いマセラッティが甲高い排気音と共に、二台の脇を走り抜けた。
 煙草の箱を取り出し、一本を抜いた。
「遊ぶ場所ならいくらでもある。いかなきゃいいだけの話だ」
「そういうわけにもいかねえんだよ、真山さん」
 いくらか感情的な口調でヴェクターがいう。
「山崎さんって知ってんだろ、真山さん。西和協同組合の」
「ああ」
「あの人の指示でおれたち、週に一度横浜から渋谷経由で六本木に物を運んでる」
「そうらしい」
「それが、もうヤバいんだよ」
 火種から立ち昇る煙が、漂う風で揺れた。
「六本木にはアイツがいる」
「アイツ?」
「あのレンジャー野郎だよ、真山さん。もう二人殺られて、アイツ、おれたちを狙ってる。あんなところでウロウロしてたんじゃ、マジでおれたち殺されちまう」
「ケツを割ればいいんじゃないか」
 突き放すように、俺はいった。
「そんな簡単じゃねえよ!」
 ヴェクターの肩が、微かに震えていた。残る二人の眼も泳いでいる。
「今度の日曜、また運ばなきゃなんない。トラックに乗って、横浜から渋谷、そんで六本木まで。次は酒だけじゃなくて、別のモンも積む。でも、もう、嫌だ。ガチで危い。殺される」
「金、貯まったろ」
 三人が、少し首を傾げた。
「いい小遣い稼ぎにはなったんだろう。小遣い稼ぎにしちゃ度が過ぎてるがな」
 しばしの沈黙があり、ヴェクターが口を開いた。
「何かいいたいんだ?」
「やくざと付き合うってのはそういうことだ、ヴェクター」
 ヴェクターの眼差しが、少しずつ険を帯びる。
「なんなら警察に泣きついたらどうだ?不正輸入品の酒と大麻を運んでて、今度は輪姦した女の彼氏に命狙われてます、助けてください、って」
「真山さん、おれたちマジなんだよ」
 もう一度溜息をつき、ヴェクターが続ける。
「どうしていいか、もうおれたちわかんねえ・・・」
 いい終えると、ヴェクターは力なく視線をアスファルトに落とした。脅え、疲れ果て、途方に暮れる不良少年の姿が、そこにあった。
「ムシのいい話だとは思わんか、ヴェクター」
 煙草をアスファルトに落とし、ローファーで踏み潰した。視線をあげる。ヴェクターも、こちらを見ていた。気のせいか、その瞳が潤んでいるようにも見えた。
「やくざの片棒担いで酒やら葉っぱやらで小遣い稼いで、クラブのVIPで女輪姦していい思いして、今度は殺されかけてこうして助け求めてきて、何の罪にも問われずに助かりたい、か」
 管が踵を返し、BMWの助手席へと歩み寄った。三人にはもう興味がないようだ。
「正直な話、俺はお前らなんて全員ぶっ殺されればいいと思ってる。アイツが罪を重ねるのには賛同できんが、それにしたってお前達はやり過ぎた」
「真山さんっ」
 縋るような眼で、ヴェクターが俺を見る。
「何だ?」
「せめて、せめて連絡先だけでも教えてくれよ」
 ヴェクターが懇願した。管はすでに助手席へ収まり、視線を虚空に漂わせている。
 ジャケットから名刺入れを取り出し、一枚を手裏剣のように投げた。名刺は空中で回転しつつカーヴを描き、アスファルトへと滑り降りた。慌てたように、ヴェクターがそれを拾う。
「ヴェクター。俺も微妙な立場に居る」
 名刺を拾い、屈んだその姿勢のまま、ヴェクターがこちらを見あげた。
「康佑を止めようとは思ってる。お前達が突っ込んだ女がそれを望んでいない。それに、これ以上殺しを重ねれば、康佑は間違いなく死刑だ。そうはさせたくない。だがな、お前達はそれなりの報いを受けるべきだ。そんでもって、俺はお前達が運んでる大麻のルートを潰すように恭撰会からいわれてる」
 ヴェクターに立ち上がる気配がなかった。相変わらず、縋るような視線をこちらへ向けているだけだ。
「俺は俺で動く。どう動くかはまだわからんが。お前達はお前達で勝手に動け」
 それだけいい、俺は運転席に乗り込んだ。ドアを閉め、クラッチを切る。サイドを降ろし、ギアを入れた。クラッチを繋ぎ、車を出す。時計の針が、丁度正午を指していた。
 
(二十三)
 
 共同の洗面所には、壁に横長の鏡が貼られ、一つひとつ包装された使い捨てのコームや歯ブラシ、そして剃刀が揃っていた。顔を洗い、髭を当たる。剃っているというより、刃先で引っ掻いているような感触があった。切れ味の悪い、安物の剃刀だ。
 包装を破り、蛇口から滴る水に歯ブラシを濡らした。ブラシの部分には泡の立つ歯磨き粉が少しだけ振りかけられていて、少し濡らしてそのまま口に突っ込めば歯を磨ける造りになっている。
口臭には気をつけていた。これでも客商売だ。新宿でキャッチを始めた頃から、歯を磨くことは意識し、習慣づけていた。
 口をゆすぎ、洗面室を後にする。仮眠室へと近づくにつれ、誰かの持つ携帯電話の着信音が次第に大きく聞こえた。
 仮眠室に入る。カーテンで仕切られた個室のどこかから、その着信音は聞こえていた。携帯電話が鳴っているのは、俺が使っている個室だった。シーツ代わりに敷かれた肌色のバスタオルの上で、スマートフォンが音と共に震えている。液晶には、080から始まる十一桁の番号が表示されていた。俺が顔を洗い、髭を剃り、歯を磨いている時から、少なくとも一分か二分、あるいはそれ以上の間、鳴り続けているはずだ。鳴り止む気配はない。
 回線を繋ぎ、電話に出た。
 荒い息遣いが聞こえる。品のない、何かに追い詰められたようなそれだった。
「真山さんか!?」
 ヴェクター。声色でわかった。息を切らしながら、俺の名を呼んでいる。
「真山さん!今どこにいる!?」
「いえんな」
 息遣いが続いた。何か思案しているようだ。そして、ヴェクターがいう。
「すぐ来てくれ」
 息遣い。マイクが荒い息を被る風の音。
「またやられた。一人こっちに来ないんだ」
 状況が読めない。何をいっているのかわからなかった。
「助けを求めているのか?」
 訊くと、ヴェクターが黙った。また息遣いだけが続く。
 仮眠用のベッドに腰を下ろし、枕元の灰皿を引き寄せた。煙草を咥え、火を着ける。
「真山さん、あんた捜してんだろ、あのレンジャー野郎」
 煙を吐き、答えた。
「捜しちゃいないかもな。考えちゃいるが。あいつのことを」
 息遣いの後、ヴェクターがいう。
「あんたいってたろ、『あいつに殺しを重ねさせたくない』なんてことを」
「それはそうだ」
「手掛かりがあるかも知んねえぞ。あんたが気にかけてるあのレンジャー野郎の」
 もう一度、煙を吸った。
「今どこだ、ヴェクター?」
「ここは・・・・三丁目の交差点の・・・なんていえばいいんだ」
 切羽詰った調子で、ヴェクターが言葉を探していた。
「吹き溜まりか。お前達が酒やら大麻やらを卸してる」
「そうだ。そこだ」
 ヴェクターが何かをいい続けていたが、こちらから一方的に回線を切った。液晶を指で操作し、カナの番号にかける。同じサウナの、女性用のフロアにいるはずだ。
 コール二つで、カナが電話に出た。
「寝ていたか?」
 日曜の昼だった。ビルの中にいるとわからないが、外ではもう太陽が昇っている。
「いえ、もう起きてます。テレビ見てました」
 サウナには仮眠室や洗面室の他に、テレビやマッサージ椅子の置かれた部屋があった。女性用にと区切られたフロアにも、それらがあるらしい。
「テレビ?」
「はい。この間のことニュースでやってて・・・」
 局部を抉り取られた屍体がタクシーの上に降ってきたあの夜から、まだ十日も経っていない。報道関係のマイクロバスやカメラマン、そしてキャスターの姿はすでに現場から消えていたが、テレビでは容疑者未逮捕のまま識者と呼ばれる連中がスタジオに呼ばれ、勝手な推測を展開している。屍体から性器と睾丸が抉り取られていたことを警察は今も伏せているが、この街において、屍体から局部が消えていたことは公然の事実として知られていた。墓苑で屍体が発見された最初の事件はともかく、混血がビルの屋上からタクシーのルーフへと突き落とされた事件では、実際にそれを目にした人間の数が多すぎた。見た者から見ていない者へ。そのグロテスクな事実は口で伝わり、この連続した事件の猟奇的な側面は六本木中に知れ渡っている。
「少し出る。そこを動くなよ」
 不安を煽らないような調子でいったつもりだった。
「どうしたんですか」
「野暮用だ。とにかく、そこから出るな。わかったな」
 返事がない。テレビの音声だけが、微かに聞こえている。
「返事をしてくれ。でなきゃ俺が出られない」
 少し間があり、はい、とカナが応える。延びた灰を落とし、短くなった煙草の火種を灰皿で捻り潰した。
 ジャケットを着込み、サウナを出た。ロアビルの外階段を下りると、そこは外苑東通りだ。右斜め前方、三丁目の交差点を挟んだ吹き溜まりの入り口付近に、見覚えのあるトラックが停まっていた。横にいくつもの刻みの入った銀色のコンテナを載せた、赤い四トントラックだ。コンテナ後部の観音開きの扉が開け放たれ、助手席側のドアが開きっ放しになっている様が遠目にも視認できる。
 静かだった。ここが六本木とは思えないほどの静けさだ。聞こえる音といえば、たまに外苑東通りを通り過ぎる営業車のタイヤがアスファルトを転がるそれくらいなものだ。
 後部へと近づく。開け放たれたコンテナの中、右側にギネスの黒い箱が、左側には緑色をしたハイネケンの箱が積み込まれているのが見えた。
 トラックの左側を歩いた。開きっ放しの助手席のドアが近づく。それが視界を覆う所まで歩き、右に視線を走らせた。靴の裏が二つ見えた。シートの上に横たわり、足をこちらに向けている。視線を前方に戻し、開いたままのドアを避けつつ、歩を進めた。トラックの前方二十メートル、公衆トイレの前にある植え込みの辺りに、ヴェクターとその片割れの姿があった。荒い呼吸と共に、肩が上下している。
 トラックを通り過ぎ、振り返った。フロントガラスの内側に、ペンキでも吹き付けられたように赤い血がべっとりと付着し、そのあちこちで血が球となり、ガラスに垂れ、伝っていた。向き直り、ヴェクターとその片割れを見る。二人とも口を半開きにしたまま、その視線は俺の頭上を飛び越え、トラックのフロントガラスへと注がれていた。
「どうした。ビビって中を確認できないのか」
 片割れの視線がトラックから俺へと移る。
「お、お、襲われた」
「見りゃわかる」
「いきなりだ。ドア開けて、刃物持ってやがった。あれだ。あの」
「サバイバルナイフだろう、大型の」
「そうだ、それだ」
「で、どうすんだ?」
 訊いた。二人ともが黙る。ただ視線を俺から逸らし、再びトラックへと注いだだけだ。
 一度舌打ちし、トラックへと向き直った。足を踏み出し、トラックへと近づく。運転席側のドアも、開きっ放しだった。
 助手席側のドアを開き、内部に眼をやる。靴の底。血の臭い。ステップに片足をかけ、ドアの内側にあるグリップを摑み、身体を持ち上げた。内部の全貌が視界に入る。車内全体を、見たこともないほど大量の血液が汚していた。両眼を半開きにした浅黒い混血がシートに横たわり、死んでいる。大量の血は、その首の辺りから吹き出たようだ。頚動脈をぶった切られたらしい。
 運転席と中座席の間にあるサイドブレーキのレバーが、降りたままになっていた。エンジンは停止していたが、ギアは入ったままだ。ブレーキを踏みつけ、エンストを起こしたのか。ギアを抜き、サイドを引きあげる余裕もなかったようだ。
 運転席のシートに、毛の生えた何かが置かれていた。
 性器。そして睾丸。抉り取られたその玉袋の切り口から、奇妙な形に湾曲した黄色い豆のような物が覗き、血の糸を垂れている。血で濡れた皮膚から延びた陰茎は黒く、包皮から突き出た亀頭までもが黒かった。
 物音がした。後方、コンテナの壁越しだ。俺は再びステップに片足をかけ、アスファルトへと降りた。
「—な、無い」
 積んでいた物を検めていた二人がコンテナから降り立ち、ヴェクターがいう。
「消えてる—」
「何がだ?」
 ヴェクターの眼が泳ぎ、しきりに瞬きを繰り返していた。
「鞄—」
「盗られたのか」
 煙草を喫いたかった。ポケットを探ったが、煙草の箱も、ライターもなかった。
「何が入ってた?」
 二人が眼を合わせる。そしてまたこちらに視線を戻した。
「た、大麻だよ」
 人の数は極端に少なかったが、その少ない人の姿が集まってきた。一定の距離を置いてはいるが、こちらを注視している。写真でも撮っているのか、スマホの背面をこちらへ向けている者の姿もあった。
「どうするんだ。110番されれば五分でパトカーが来るぞ。麻布署はすぐそこだ」
「とりあえず逃げる。こ、こ、ここは危いから」
 ヴェクターが吃音気味に短くいい、動き出した。運転席に駆け寄り、ステップに足をかける。助手席へと乗り込もうとした片割れが、車内を見て首を外に突き出し、嘔吐した。セルが回り、エンジンが重々しく回転を始める。片割れが車内に首を引っ込め、ドアを閉めた。フロントタイヤに大きく蛇角が付き、トラックが動き始めた。吹き溜まりの端まで進み、一度切り返すと転回を終え、マフラーから黒い煙を吐きながら、交差点の信号を無視して走り去った。観音開きの扉が開いたままのコンテナから、ハイネケンやギネスの箱が落下し、ガラスの割れる音を立てる。
トラックの残した黒い煙の先に、カナの姿が見えた。一階にコンビニの入ったビルの根に所在なく立ち竦み、こちらに力の無い視線を送っている。
「出るなといったろう」
 歩み寄り、いくらか強い口調で咎めた。
「また、何かあったんですか」
 憔悴した眼で、カナが俺を見上げる。もうこれ以上、精神に堪える要素を与えたくない。
「何もない。戻ろう」
 俺はいい、カナの肩に手をやった。
 路面に落ちたハイネケンとギネスの箱から、泡立った液体がアスファルトに染み出ていた。

#9につづく

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?