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小説 「哀しみのメトロポリス」 #9

#創作大賞2024 #ミステリー小説部門 #六本木

(二十四)
 
 悲鳴が聞こえた。一人ではない。二人か三人。それは耳障りな不協和音となり、続いて激しい物音。何かが割れる派手な音も聞こえる。フロントの先、サウナの入り口で分かれた女性用のフロアからだった。
 スリッパを脱ぎ、ローファーに履き替える。フロントの禿げ頭を一瞥したが、こちらを見ていない。悲鳴や物音の聞こえた先へと首を九十度回し、意識をそちらに奪われている。
 人影が二つ、足早にサウナを出るのが見えた。二人で何かを抱えていた。足音と、呻き声のようなものが遠ざかる。二人を追い、薄暗い廊下を走った。ビルの出口へと近づくにつれ、外の明かりが眼を刺す。
 ロアビルの外に出た。外階段を見下ろす。外苑東通り沿いに、色のくすんだグレーのエスティマが、リアのスライドドアを開いたまま停まっていた。どこかに篭城するテロリストが被っているような黒い眼出し帽の二人が、小柄な女をエスティマへと引き摺る。カナだった。口を塞がれ、呻き声を漏らしている。
 階段を駆け下りた。眼出し帽の一人が運転席のドアを開く。片割れがカナを後部座席に放り込み、自らもそこに納まった。
「真山さん!」
 口を解かれたカナが絶叫する。
 スライドドアが閉じかけるのと同時に、エスティマが急発進した。
「GO!GO!!GO!!!」
 スライドドアがレールを転がる音と共に、後部座席の眼出し帽が運転席へと叫ぶ英語が聞こえる。
 エスティマの側面に跳び付いた。身体がドアの鉄板にぶつかる。閉じかけたスライドドアに片手を突っ込み、カナの身体へと腕を伸ばした。車内の影から飛び出た二つの手がそれを阻み、俺の腕を摑む。ドアに片足を踏ん張り、力づくで引っ張ってやった。
「うおぁっ!」
 カナの身体へと伸ばした手が摑んだ物は、眼出し帽の襟首だった。閉じかけたスライドドアから俺に引き摺り出され、二人で縺れつつ路面へと転がる。襟首を摑んだまま頭を起こし、エスティマへと視線を走らせた。アクセルを床まで踏み込んでいるのだろう、エンジンが派手に唸り、その音を残してエスティマは東京タワーの方角へと走り去った。脚で追い駆けることが頭に過ぎったが、とても追い付けそうにない。エスティマのハッチバックが瞬く間に小さくなり、飯倉の交差点を右に折れるのが見え、消えた。
 手応えがある。アスファルトの路面に転がったままそちらへ首を回すと、俺の右手に襟首を摑まれたままの眼出し帽が身を捩り、それを解こうと路面の上で奮闘していた。襟首を摑んだまま片膝を立て、身を起こした。眼出し帽の両手もまた、俺の右腕を摑んだままだ。大した握力ではない。爪を立て、十本近いそれがジャケットの袖越しに皮膚へと喰い込んでいたが、痛みは感じなかった。
 中腰になった眼出し帽の背中に、膝を叩き込んだ。押し殺したような鼻声を漏らしつつ、眼出し帽が両膝を折る。叩き込んだのは拳ではなく膝頭ではあったが、レバーブローというやつだ。
「しばらくは動けんぞ。肝臓を打ったからな」
 眼出し帽が跪き、両腕を背中に回した。膝を叩き込まれた処に二つの掌を押し付け、頭を垂れる。痛みに声も出ないらしい。
 跪いた眼出し帽の周囲を二、三歩ゆっくりと歩き、車道の側に周った。動かない眼出し帽の先に、ロアビルの地下に入ったテナントの看板がいくつか見える。その下は、地下へと続く横に長い階段だ。
 肩の辺りを狙い、蹴っ飛ばした。団子虫のように丸まった眼出し帽が転がり、その身が階段へと達した。そこでやっと声らしい声を挙げ、眼出し帽はロアビルの地下へと階段を転がり落ちた。
 後を追い、階段を下りる。側壁に、白人とのハーフである女のモデルが写る、イェガー・マイスターの広告が見えた。
 地下のフロアに立ち、さらに眼出し帽の襟首を摑んだ。引き摺り起こす。眼出し帽が声を挙げ、身を捩りつつ俺の顔を何発か殴った。口許、眉の尻、額、あちこちに喰らったが、大した痛みではない。拳こそ固めてはいるが、腰の捻りも何も入っていない、突きというより、ただ力任せに両腕を振り回しているだけのそれだった。
「朝飯、何食った」
 訊いた。眼出し帽が一瞬動きを止め、大きく見開いた両の眼で俺を見る。
 襟首を摑んだまま左足を踏み出し、腰を捻りつつ瞬発的に右の拳を鳩尾にぶち込んだ。襟首を放してやる。呻き声を出しつつ、眼出し帽が壁に寄りかかった。呻き声は間もなく排水口が逆流するような音に変わった。両眼と鼻に開いた穴、その下にも開かれている口の為の穴から、眼出し帽が嘔吐した。強い臭気が鼻を衝く。口からフロアへと流れ出たのは消化された食い物ではなく、薄茶色をした胃液だった。
「食ってないのか。そりゃ力も出ないだろ。俺も飯はまだだが」
 壁に寄りかかり息をついている眼出し帽へと歩を進めた。頭頂部を摑み、脱がせてやる。摑んだ掌に、抵抗感があった。生地と一緒に髪も摑んでいるのか。構わず、力任せに眼出し帽を脱がせた。両眼と口を大きく開き、荒い息をついている浅黒い混血。このロアビルからほど近い吹き溜まりでトラックを襲われた時、ヴェクターと共に死に損ねた片割れだ。
「座れ」
 聞こえていないのか。混血は相変わらず眼と口を開いたまま、俺を見ているだけだ。髪の毛と共に脱がされた眼出し帽が、まだ俺の右手に握られていた。壁に放ってやる。それは音もなく壁に当たり、床へと落ちた。
 左手で胸倉を摑み、瞬間的に引き寄せた。同時に内股をかけ、今度は胸倉を向こうへと押してやる。混血の脚が縺れ、そして自らの吐瀉物の上に尻餅をついた。
「どういうつもりだ」
 混血は答えない。開かれた両眼に、敵意が満ちていた。
 髪を摑み、床へと引き下げてやる。混血が声を挙げ、そしてまた、黙った。
 敵意に満ちていた眼が、恐れの色を見せた。混血が激しく首を縦に振る。髪を引っ摑み、その頭を横に九十度引き下げている俺に、縦に振られたその首振りは横方向のそれに見えた。
「カナを攫ったのは何故だ」
混血の唇が震え、声が漏れ出る。
「ああするしかなかった!交換だ!」
 わけがわからない。感情が昂ぶり、頭の上澄みにある物だけを口走っているだけだろう。
「落ち着け。答えてくれさえすれば、これ以上乱暴な真似はしない」
 混血が眼を伏せ、荒い息をしていた。待つしかない。いくらかの時間が経てば、まともに話せるようになる。
 片方の鼻孔に、赤味が見えた。血の痕だ。拭いてはあるのだろうが、微かに残っている。古い傷ではなかった。顔は殴っていない。誰かにやられた痕なのか。
「もういいだろう。話せ。経緯から」
 焦れた俺は、そういった。混血の息はいくらか整ってきてはいたが、まだ荒い。
「トラックから大麻が消えてたのは知ってるよな、あんた」
 ジャケットから煙草の箱を取り出し、一本を勧めた。混血は片手を力なく振り、要らん、ということを仕草で示す。
「消えたのは大麻だけじゃなかった。携帯もだ」
「携帯?」
「チャールズの携帯だよ!」
「座席で死んでた奴の名か、それは」
「そうだ。そいつだ!」
「感情的になるな。落ち着いて話せ」
 混血の眼に力が籠る。怒りの色だ。
「こんな目に合わせたのはあんただろ!?落ち着いて話せったって無理だ!」
 そういい放ち、混血はその両掌で自らの身体を示した。
「もう一度いうぞ。落ち着いて話せ」
 力の籠っていた両の眼から、それが徐々に失せてゆく。
「携帯が消えてるのに気づいて、ヴェクターがかけたんだ、その携帯に。そしたら、奴が出た」
「康佑か。元自衛隊の」
「そうだ。あのレンジャー野郎だよ」
「それで、どうした」
 俺は先を促した。
「大麻を返してほしけりゃ、二人で来週の日曜の夜に来いっていうんだ、あいつが」
「どこに」
「『RED・BAR』があったとこだ。あのどん詰まりの」
 いつか潰れたクラブの名だった。吹き溜まりの奥にあるビルの三階に入っていた。喧嘩、薬物売買、強姦。この街にはよくある、あまりいい噂を聞かないクラブだ。一年かそこら前、経営者が営業許可を切らしたまま店を開けていたことを大義名分に警察の強制捜査が入り、摘発を受けた。経営者には同罪での前科がいくつかあり、店は潰れたまま、テナントは今も空いている。
「何故カナを拐った」
 混血が眼を逸らした。
「二人で、ノコノコ出かけていって—」
 溜息が、言葉を切る。
「—モノを返されてハイおしまい、なわけねえだろ」
 混血は力なく続けた。
「アイツは俺達を殺す気だ。身動き取れなくして、生きたままあそこ抉り取って—」
 人質、というわけだ。
「俺達だって、好きでこんなことしたんじゃねえよ」
「何?」
 混血が眼を上げる。
「山崎さんだよ」
 西和共同組合、山崎。
「山崎の指示なのか?」
「そうじゃねえ」
 混血が吐き捨てるように否定する。
「モノ盗っぱらわれてケツ割るわけにもいかねえだろ。ふけたら逃けたで、西和に追われて結局ぶっ殺される」
 それはそうだろう。物が物だ。末端価格にしていくらになるか知らないが、物が消え、運んでいた人間も消えたとなれば、組の金を持ち逃げしたも同然だ。
 薬物売買のシェアを恭撰会が占める六本木での島荒らし。現時点でそれは山崎の個人的に近い規模で行われているが、山崎は近い将来、それを組織規模でのビジネスにする気でいる。
物が消えた、という時点で、すでにアウトだ。逃ければ行方を追われ、やがて消される。誰にも知られずに殺され、誰にも知られぬまま埋められる。
「鼻は山崎にやられたのか。血の痕が付いてる」
 俺を見上げていた混血が、眼を伏せた。
「山崎の所にいったのか。『手配犯に葉っぱ盗られました』って。めでたい奴等だな、お前ら」
「しょうがねえだろっ」
 険のある眼で俺を見上げ、混血が反論する。
 二つか三つ、不協和音を奏でるパトカーのサイレンが地上から聞こえてきた。どこかの誰かが110番通報したのだろう。サウナが入っているのはロアビルの三階だ。この地下フロアまで警官が調べに入るまで、まだいくらかは時間がある。
「カナを拐ってどうする気だ?お前達は知らんだろうが、あいつ等はもうとっくに別れてる。カナに人質としての価値がどれだけあるか、俺には疑問だ」
 嘘の見解だった。二人は別れているが、康佑を衝き動かしているのはカナを輪姦した連中への復讐心と、カナへの独占欲を侵されたことだ。残るは二人、俺の眼の前にいるこの浅黒い混血、そしてヴェクター。カナを人質に取ることは、この二人にとって最後に残された手段だといっていい。
「カナを放せ」
 混血は黙り、顔を背けた。
「カナをどこに連れていく?あのエスティマはどこへいくんだ」
 頬を張った。静かな地下フロアに、その音が響く。
もう一発。今度は拳を固めて打った。さほどの力は込めていない。鈍い感触が拳に残る。
「横浜か。お前達のヤサがある。どこだ、横浜の」
 混血は答えない。相変わらず黙り、顔を背けているだけだ。
 階段を下りる足音が聞こえ、近づいた。眼をやる。紺色の制服を着た警官が一人、そこに現われた。
「ちょっと何してんの、お兄さん!」
 早足にこちらへと歩を進め、迫ってくる。中田だった。
 反吐の上に尻餅をついていた混血が突然立ち上がり、駆け出した。廊下の角を折れ、その姿が消える。地上への階段はいくつもあった。建物を包囲でもされていない限り、逃げるのは容易だ。
「何してんの真山さん!?さっきの誰!?また荒っぽい事してんじゃないの!?」
 曲げていた腰と膝を伸ばし、立ち上がった。俺と正対した中田は、一度俺の足元へと視線を落とし、そこから舐めあげるように、また視線を俺の顔へと戻した。片胸に掛けた無線機から、オペレーターの声が鮮明に聞こえている。
「何でもない」
 俺は踵を返し、歩き始めた。
 
(二十五)
 
ずいぶん長い時間、ホテルのシャワーを浴び続けていた。
 何かを洗い流したかったのかも知れない。抽象的すぎて自分でもよくわからない、何か。甘く、動きの遅い、粘性のある、何か。湯は頭から全身に這い伝わり、やがて小さく開いたバスダブの排水溝へと吸い込まれてゆく。
 南青山にある、骨董通りから狭い一方通行の路地へと折れた小さなビジネスホテルだった。着の身着のままに近い状態で、このホテルに部屋を取った。
 何かを訊きたげな中田を置いてロアビルの地下から地上に出ると、外苑東通りに面した路肩には、すでに三台のパトカーが到着し、ルーフに乗った赤色灯を光らせていた。制服警官の姿が増え、そして窓やヘッドライトの灯火類に青い網を貼り付けた警察のバスが二台現われると、襲撃現場であるロアビルの横へと陣取った。やがて捜査の連中も到着するだろう。また大野や宗形といった煩わしい連中にあれやこれやと訊かれるのも面倒だ。俺は六本木交差点方面へと歩き、ロアビルとの距離を置くと、片手を挙げてタクシーを停めた。渋谷方面へと走らせ、西麻布交差点の上を通り過ぎる高架に乗り、高樹町の辺りでタクシーを降りた。聳え立つ高層ビル群の上から、ようやく陽が姿を現す時間だった。
 ユニットバスを出た。静かな室内に、机の上で振動するスマートフォンと、それに共鳴する硬い木の音が重なって聞こえていた。濡れた髪を手櫛で乾かしつつ、液晶に眼をやる。着信は、江からだった。今度は何の用だろうか。
「どうした」
 回線を繋ぎ、訊いたが、しばらく返事がなかった。微かな息遣いだけが、小さく聞こえているだけだ。
「なんだ、江。返事をしろ」
 煙草を咥え、火を着ける。肺に深く吸い込み、それを吐き出すまで、江は返事をしなかった。
「—真山くん—?」
 力のない、喉の奥に痰でも絡んだような江の声が、耳に当てた携帯電話のスピーカーから小さく聞こえる。
「ああ、俺だ。どうした?」
「—山崎さんがね、探してるんだよ、真山くんのこと—」
 江が咳き込んだ。風邪で喉を傷めたようなそれではない。
「真山くんの居場所をね、知りたがるんだ、あの人。『知らない』っていったら、こんなことになって—」
 話が読めなかった。何をいっているのか。
「真紀ちゃんのことも訊かれたよ。『じゃああいつの女はどこだ』とか。シラを切ってたら—」
 声が遠ざかる。回線越しに、何か衣擦れのような音が聞こえた。
「こうなった」
 誰かがいい、そして笑った。下品な笑い声だ。吐き気を催すような、気味の悪い笑い声。
 山崎だ。
 回線の向こうで、山崎が笑い続けていた。
「真山さん、あんたが潜ったままでいるから、俺もこんなことしなきゃならなくなる。なかなか口の堅いトモダチじゃねえか、ええ?」
 山崎の笑う顔が脳裏に浮かんだ。贅肉に被われた、醜い笑顔だ。
「江に変われ」
 笑い声に、口の中で粘ついた唾液が立てる奇妙な音が重なる。
「もう喋れねえよ。死にかけてる」
 灰皿に煙草を押し付け、火を消した。
「江に何をした?」
「見りゃわかるよ、真山さん」
「今どこにいるんだ、お前達」
「こっちが訊きてえことだよ、真山さん。あんた、どこに潜ってる?ここは芋洗い坂だ」
 いい終え、山崎が一方的に回線を切った。通話を終えた後の電子音だけが耳に残る。携帯電話を耳から離し、江の短縮を呼び出した。再び耳に当てる。コールが八回続き、留守番電話に切り替わった。
 管の携帯電話にダイヤルし、スマートフォンを耳と肩で挟んだ。空いた両手で下着を着け、スラックスを履く。何度目かのコールで、管が電話に出た。
「真山か」
「管さん、今どこだ」
「家だ」
 革のベルトをスラックスの帯に通す。
「あんた、どこに住んでんだ?」
「元麻布だ。それがどうかしたのか」
「六本木に来てくれ。芋洗い坂だ。車が要るかも知れん。俺はタクシーで向かう」
「何か動いたのか、真山」
「そうらしい」
 通話を切り、シャツの袖に腕を通した。ボタンを留める指が上手く動かない。焦っている。
 夜の十一時を過ぎていた。日付が変われば金曜日だ。週末の近づいた骨董通りには、空車のタクシーが群を成していた。
「六本木。急いでくれ」
 緑色をしたタクシーを一台捕まえ、後部座席に乗り込んだ。
「ええと、赤坂通りから回りますか、青山墓地を抜けて」
 締りのない、間の抜けた声で運転手が訊く。
「ここでターンしてくれ。西麻布交差点を越えて六本木だ」
 運転手が右にウィンカーを出し、タイミングを窺った。対向車が切れるのを待ち、ステアリングを切る。視界が横に反転し、タクシーが少しだけ速度を上げた。
 六本木通りに合流し、西麻布交差点を高架線に乗って飛び越えた。道は混雑している。客を求めて鈍亀のように低速で走るタクシーの群が、行く手を阻んでいた。
 赤信号に捕まり、タクシーが停止する。じき信号は青に変わるが、運転手の反応は遅い。後ろからシートを蹴り飛ばしてやりたい気分だった。
 六本木ヒルズの森タワーが右手に現われ、後方へ過ぎていった。六本木交差点が近い。
「右折レーンに入ってくれ」
 返事もせず、運転手はウィンカーを出した。軽くステアリングを右に切り、タクシーが右折レーンに入る。その先では、六本木通りから外苑東通りへと右折する何台かのタクシーが横断歩道を渡る歩行者に足止めされ、列を作っていた。
「ここでいい」
 財布から万札を出し、運転手の左肩に押し付けた。
「ドアを開けろ」
 向き直った運転手がメーターに指を伸ばし、ボタンを押した。
「早くドアを開けろ!」
 語気を強め、恫喝した。運転手が再び首を回し、眼を丸くする。
 ドアが開いた。交差点に面したマツモトキヨシの黄色い看板が眼に入った。その先に、パトカーか救急車か、何か緊急車両の物であるらしい赤色灯の反射が見える。
アマンドを越えると、そこは芋洗い坂の端だ。坂を見下ろす。芋洗い坂を下りきった先、二股に分かれた辺りの公衆トイレに、人だかりが出来ていた。パトカーが二台。サイレンは消しているが、赤色灯がしきりに回転している。
 坂を駆けた。ローファーが脱げかかり、脚が縺れた。坂を下り切り、群集に身を投じた。人混みを掻き分け、公衆トイレへと近づく。
 車道と歩道を隔てるガードレールに沿い、黄色いコーションテープが張られていた。群集はそこで足を止められ、皆が携帯電話を掲げ、カメラで現場を撮っている。度重なって放たれるフラッシュが、眼を眩ませた。
「おいちょっと、あんた!」
 テープを乗り越えた俺の身体を、二人の制服警官が摑んだ。
「ダメだよ!立ち入り禁止なんだから!見てわかんないの!?」
 円形の公衆トイレには小さな擦りガラスの窓が二つか三つあるだけだ。内部の様子は窺えない。江はそこに居るのか。
「怪我人がいたろう!?」
 訊いた。俺のジャケットを摑んだ警官の一人が答える。
「いたよ!とにかく出て!立ち入り禁止だから!」
「そいつをどうした!?」
「今もう病院に向かってるよ!救急車で!!何なの、あんた!?知り合い!?その被害者と!?」
「どこの病院だ!?」
「知らないよ!俺たちの仕事じゃないんだから!広尾じゃないの!?とにかく早く出て!」
 問答しつつ、テープの張られたガードレールまで二人がかりで追いやられた。
 携帯電話を翳す野次馬を掻き分け、人混みの外に出た。牛丼屋が見える。いつか江が、康佑とカナを俺に会わせた牛丼屋だ。その店先で、古いBMWがその時代遅れなデザインのテールをこちらに見せていた。
 駆け寄り、運転席に乗り込んだ。キーは付いたまま、エンジンはアイドルしている。
「らしくねえな。見てたぜ、真山」
 クラッチを切りつつ、助手席に眼をやる。ダッシュボードに放っていた両脚を引っ込め、管がシートに坐り直した。
「何取り乱してんだ、いい歳して」
 ギアを入れた。ウィンカー、サイドミラー。
「仲間が襲われた」
 ステアリングを切りつつ、クラッチを繋ぐ。テレビ朝日の方角へ、BMWが滑り出した。
「ダチか」
 信号が青く光っていた。交差点を突っ切り、テレ朝通りを直進する。
「どこへ行く?」
「日赤病院」
「広尾か」
 日本赤十字病院。西麻布を越えた先、南青山の外れに建つ、救急も受け入れている大きな病院だ。広尾ではないか、と警官はいっていた。広尾にある救急病院といえば、そこしかない。
 テレ朝通りのどん詰まりに至り、ノーズを左に向けた。一方通行の狭い路地を走り、外苑西通りに出る。小さな交差点の信号は赤だったが、左右を窺い、通りに乗った。ギアを二速にホールドし、バルビゾン27ビルの脇を、また路地へと折れる。高級住宅街の狭い坂を昇り切り、その先を下れば南青山だ。タイヤを鳴らしつつBMWを走らせ、日赤通りに出る。アクセルを床まで踏み込んだ。クラッチを切り、三速。信号は青だ。その先に、高層マンションを思わせる日赤病院の病棟が聳え、迫ってきた。
 ブレーキを踏んだ。ステアリングを左に切る。病院の駐車場に停まる車の姿はまばらだった。駐車場の果てに、救急外来の入り口が見えた。アクセルを踏み込む。テールランプを薄く光らせ、外来入り口に横付けした救急車の横っ腹が視界に入った。
 BMWを救急車の横に着け、ギアを抜いた。サイドを引き上げる。
「真山」
 管が呼ぶ。俺は振り返った。
「落ち着けよ」
 静かに、管がいった。視線が、俺の両の眼を射抜く。微かに頷いて見せ、俺は車を降りた。
 
 銀色の羽根扉を開く。ルクス数の低い、暗い照明が、薄緑色をしたリノリウムの床を照らしていた。ストレッチャーが二つ。うち一つの上に、昆虫の複眼に似た術式照明が天井からぶら下がっている。処置室と思われるその部屋には誰もいなかった。
 処置室の奥にあった扉を開くと、照明の落とされた暗い廊下に至った。廊下の先に眼をやると、走る人間の姿を模したアイコンと、『非常口』という文字の描かれた標識が天井からぶら下がり、緑色の光を放っている。
 二十メートルかそこら先で、廊下の壁に開いた小窓から、暖かな光が漏れ出ているのが見える。そちらの方へ向けて、歩を進めた。
 小窓の脇にある白い扉が開き、若い男が出てきた。足音を聞きつけたらしい。医者ではない。看護師というのか。薄い生地で出来た白い上下に、子供の履く上履のような靴を履いていた。
「ちょっとすいません、あの、面会時間は終わってますよ」
 男が廊下に立ち、その身でこちらの歩を止める動きを見せた。
「何ですか、ちょっと!」
 前へと突き進むと、俺の肩に男の身体が当たり、男がバランスを崩しながらも、俺に縋り付いた。
「どこいくんですか!何してるんですか!」
 生きていれば、コオは集中治療室にでも運ばれているだろう。
「重態の男が運ばれて来なかったか」
 俺の後を追い、並んで歩く男に尋ねた。
「とにかく止まってください!ちょっと!」
 強い語気だが、声は甲高く、子供のそれのようだ。人を止める力など、そこには微塵もない。
「江特書という男だ。重い傷を負ってる。知らんか」
「いや、運び込まれては来ましたけどっ、ちょっと止まってください!」
 男に向き直った。首根を摑む。そのまま壁に押し付けてやった。
「どこだ」
 男の両眼が、丸く見開かれた。絞められた喉笛を、肺から漏れた息が鳴らし、奇妙な音を立てる。
「あまり手こずらせるな。早くいえ」
 首を摑む俺の腕に絡み付いていた両手のうち、その一つが解かれた。震える手がピストルの形を作り、その突き出た人差し指が、俺の背中越しにどこかを指した。
 男の首を壁に押し付けたまま、首を捻る。男の指が示す先に、地下へと続く階段があった。
 男に向き直り、訊いた。
 病院の地下に治療室などないだろう。あるのは遺体の安置所や、解剖室の類だ。
「死んだのか」
 喉を締め上げられた男が呻きを漏らし、両の眼を一度、閉じて見せた。頷いた気でいるのか。
 首を解いてやる。男は壁に沿って崩れ、腐った芋のように丸まり、しきりに咳き込んだ。男を残し、地下への階段を下りる。センサーか何かが反応したのか、蛍光灯の薄い明かりが点いた。
地下もやはり薄暗かった。左手の壁にアルミの扉が四つ、大きな間隔を持って並び、右手には葬儀屋の車が乗り入れる為だろう、コンクリート敷きの駐車スペースがある。
 四つ並んだ扉の一つだけが、その上に設置された白いランプを灯らせていた。手前から数えて三つ目の扉だ。
 アルミの扉を開き、霊安室に入った。十畳ほどの広さの部屋、その壁寄りに置かれた台の上で、それらしき物が横たわっていた。足許から首に白いシーツが、顔には、シーツと同じ色をした布が被せられている。
 遺体の置かれた台へと歩み寄った。壁から突き出た机上に、小さな香炉が置かれている。線香は焚かれていない。
 遺体の枕元に立った。白い布の端を摘み、取り去る。
 江の死顔が、そこにあった。
 片側の眼窩が目蓋もろとも陥没していた。治療の為に髪を剃られたらしく、額から前頭葉の辺りにかけて大きなガーゼが医療用のテープで貼り付けられている。閉じた口の周りには、黒い腫れが幾つも残っていた。
 二、三人の足音と共に、扉の開く音が背後から聞こえる。
「ちょっと!あんた!何してんですか!」
 廊下で締めあげた看護師とは別の二人、そして医者であるらしい白衣を着た白髪の男が雪崩れ込み、俺を咎めた。病院関係者の三人、そして俺を含めた四人が、江の遺体を囲む。俺は再び白い布の端を摘み、江の死顔にそれを被せた。
「親族の方ですか!?それにしたってマズいですよ、これは!」
 白衣の医者が叱責する。小さな唾の泡がいくつか、宙を舞った。
「親族じゃない。だがな」
低くいい、俺は三人を見つめた。医者が押し黙る。
「線香ぐらい焚いてやれ」
それ以上、三人は口を開かなかった。
「邪魔をした」
 いい残し、霊安室を出た。三人は江の遺体を取り囲んだままこちらに眼をやり、動かない。
 地上階への階段を昇り、廊下を歩く。締めあげた看護師の姿はなかった。誰もいない処置室に踏み入れ、その先の扉を押し、外に出た。低くアイドルする管のBMWが、その白い横腹をこちらに見せていた。
 運転席に乗り込む。助手席の管はストローを片側の鼻孔に挿し、紙幣の上に散った粉々の結晶を吸い込んでいた。そして覚醒した管が紙幣とストローをスーツの内ポケットに収めるのを見届け、俺は車を出した。
「生きてたか?」
 まばらに車の並ぶ駐車場を抜け、日赤通りに乗った。
「死んだ」
 ステアリングを切る。六本木通りへとノーズを向け、ギアを上げた。
 高樹町の交差点で赤信号に捉まった。ジャケットの中で、何かが唸っている。振動するスマートフォンの発するモーターの音だった。取り出し、液晶を見る。見覚えのある十一桁の番号が表示されていた。
「真山さんか?」
 スピーカーモードに設定し、ダッシュボードへ本体を放ると、声が聞こえた。
「そうだ」
「今、話せるか?」
 ヴェクターの声だ。
 何台ものタクシーが、視界を右から左へと六本木通りを横切る。
「女を拐った。あのレンジャー野郎の女を」
「知ってるよ。お前の連れに吐かせた」
 電話越しに含み笑いが聞こえる。湿り気のある、不快な響きだった。
「日曜に会う。明後日になるのか。あのレンジャー野郎と。物と交換だ」
「カナは無事だろうな」
「何?」
「女の子だよ。お前達が拐ったその女だ」
 センターパネルに埋め込まれたアナログの時計に眼をやる。日付が変わっていた。
「死なせるなよ。でなきゃ、残りのお前達も死ぬことになる」
 短い沈黙があった。ヴェクターに喋り出す気配がない。
「レンジャー部隊ってのは相当なもんらしいな。知ってるか、ヴェクター?何かで読んだが、素手でも刃物でもライフルでも、とんでもなく過酷な訓練を積んで、高度な殺しの技術を叩きこまれるそうだ。お前達ゴミ共を全員ぶっ殺すなんて訳はないだろう」
 返事を待った。
「—あんたにも来てほしいんだよ、真山さん」
 黙っていた。何をいっているのか。
「いってたろ、真山さん。『あいつが罪を重ねるのは考え物だ』って」
「またそれか、ヴェクター」
 六本木の吹き溜まりでトラックを襲われた時も、ヴェクターはそんなことをいって俺を呼び出している。
「考え所だな。お前達二人は罰を受けるべきだ」
「それは、あんたのいう『あいつが罪を重ねること』になる。そうだろ?」
 助手席の管が、ダッシュボードに両脚を放り出した。
「真山さん。あんたが出てきて、あいつを止めるんだよ。俺達は女をあいつに渡して、あいつは物を俺達に渡す。そしたら真山さん、何とか説得して警察にでも連れていってくれよ。それで丸く治まる」
 スマートフォンを握る手に力が篭る。
「ムシのいい話だな。ふざけるな」
「ふざけてなんていねえよ。お願いしてんだ」
「また一人死んだ。こっちでな」
「え?」
「こっちの話だ。お前達とは別件だよ。だが丸くは治まらん。仲間が死んだんだ。俺の仲間が。それにな、カナは孕んでる。知らんだろう?」
「ハラんでる?」
 溜息をついた。このバカガキ共の能天気さと狡賢さ、そして江を殴り殺した山崎への怒りが入り混じり、腹の中が沸き立っていた。
「妊娠してるんだよ」
 しばしの沈黙の後、ヴェクターが「へえ」と、その事実にあまり関心のなさそうな声を漏らした。
「『へえ』じゃないだろう。お前達が輪姦した時の子だ。ひょっとするとヴェクター、お前の子かも知れんな。とにかく丁重に扱え。死にたくなけりゃな」
「来てくれるんだろ、真山さん?待ってるから、オレたち」
 ヴェクターが懇願する。嫌な響きだった。男娼のそれを思わせる。
ダッシュボードに腕を伸ばし、回線を切った。
六本木通りを横切るタクシーの群が切れ、信号が青に変わった。クラッチを切り、ギアを入れる。クラッチを乱暴に繋ぎ、BMWを発進させた。急な発進による反動で、放り投げたスマートフォンが、フロアへと滑り落ちた。

#10につづく


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