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小説「哀しみのメトロポリス」 #10

#創作大賞2024 #ミステリー小説部門 #六本木

(二十六)
 
 フロアに落ちたスマートフォンを管が拾い上げ、こちらに差し出してくる。途端、それが振動し始めた。一瞬、管と眼が合う。管が顎をしゃくった。受け取り、車速を落とす。大きな通りだ。徘徊する警官に、運転中の通話を見咎められれば面倒だった。振動し続ける携帯を握り、ステアリングを切る。バス停の脇に車を停め、ギアを抜いた。液晶に表示されている名は、『L』のバーテンダー、林だった。回線を繋ぎ、耳に当てる。
「お忙しいところ、恐れ入ります」
 相変わらず、ばか丁寧な口調だ。慇懃な言葉遣いは電話でも変わらない。
「今、少しお話できますか、真山さん」
 ああ、と答えた。数台のタクシーが、こちらを追い越し、六本木方面へと向かっている。
「冷静に聞いてほしいのですが、店長の身に何かあったようです」
 店長。オーナーから店を任されている真紀だ。
「何か、とは」
「それが、先ほどお客様がお一人でいらしまして、一見の方でしたが、シャンパンのボトルを入れてくださったんです。それを我々スタッフにもシャンパングラスで一杯ずつ振る舞ってくださいまして」
 助手席の管が首を捻り、骨を鳴らした。
「会計のあと、店長がお礼をいいに一階までお送りしたんです。それきり店長が帰ってこなくて。店長の携帯にかけたんです。そのお客さまに礼をいって、さらに話し込んでいるにしても長すぎましたから」
「それで、どうしたんだ」
「電話にお出になったのは店長ではなくて、そのお客様でした」
 喉に大量の唾が湧き、飲み込むと、次は強烈な喉の渇きを覚えた。
「この女は預かる、と。そして真山さんのお名前を出されました。真山さんからこの携帯に、店長の携帯ですね、かけ直すように、と」
 それから、と林が言葉を続ける。
「警察には知らせないよう、釘を刺されました」
 そうか、といい、俺は息を吐いた。
「ありがとよ、林。あとはこっちで動く。またビールでも奢らせてくれ」
「いえ、そんな」
 回線を切るべく、スマートフォンを耳から離しかけると、林がいった。
「真山さん」
 再び携帯を耳に当てる。
「店長がご無事でしたら、その旨を教えてください。安心できませんから、自分。それから、何か力になれることがあれば、いつでも電話をください」
 もう一度礼をいい、回線を切った。液晶に指を這わせ、真紀の短縮を押す。
 コール一つで回線が繋がり、粘性を伴う声が聞こえ始めた。
「真山さんか。真山さんだよな」
 男の声、山崎だ。
「そうだ。真紀はどうしてる」
 鼻で笑う声がした。
「どうだろうなあ」
「真紀のことをどうして?」
 含み笑う声。
「あの台湾人、無駄だったよな、最後までこの女ことをいわなかったけどよ。他のキャッチに真山さんのことを訊いたら、普通に話してくれたよ。真山さんには女がいて、六本木の店を任されてるってさ」
 無意識に、ステアリングを握る手に力が込められていた。
「山崎、何が望みだ。何をどうすれば、その女を逃がしてくれる」
「話が早いね、真山さん」
 含み笑いつつ、山崎がいう。
「条件は二つだ、真山さん」
 助手席の管が、聞き耳を立てているのがわかった。
「一つは、オレが開拓してる酒と大麻のルート潰しから手を引くこと」
 もう一つは、と山崎が続ける。
「次の日曜の夜、三丁目の吹き溜まりにある『RED BAR』って店でオレが使ってやてる若いガキどもが取引するんだよ、知ってるだろう、真山さん。指名手配されてるあのレンジャー野郎だよ、元陸自の。殺人鬼さ」
「任せておけばいいんじゃないか、その若い連中に。連中は人質を取ってる。そのレンジャー野郎の女だ。お前が使ってる若い連中が取り戻したいの物と交換なんだろう」
 それがよお、と山崎が零す。
「そう上手く運ぶとは思えないんだよ、真山さん。あの元陸自、警察の目を搔い潜って、三人目も殺して、まだ動いてる。この街に潜伏し続けながらな。あのガキどもは素人だ。人質を連れて現場にいったところで、やっつけられて終わりだろうよ」
 ステアリングを握りつつ、山崎の発する言葉の続きを待った。
「真山さん、あんた、あのレンジャー野郎に顔が利くそうだな」
「どうだかね」
 とぼけたが、無駄なようだ。
「あんたがあの元陸自から物を取り返すんだ。荒っぽい真似はすんなよ。わかっているだろうが、あのレンジャー崩れには逆立ちしたって敵わねえ」
 予想した通りの要求だ。開拓し、起動に乗りつつある酒や大麻の新ルート潰しから手を引き、そして康佑から大麻を取り戻す。無茶な話だ。俺は山崎が起動に乗せつつある渋谷からのルートを潰すよう阿南から命じられ、康介についてはその詳細な行方がわからず、連絡もつかないのだ。
「山崎、無理をいうな」
「その無理をしなきゃなんないんだよ、あんたは。真山さん。こっちはあんたの女を押さえてる」
 息を吐き、訊いた。
「無事なんだろうな」
 ああ、と剣呑な響きを伴う返事があった。
「無事だよ、今はな。今度の日曜の夜がリミットだ。それ以降は、この女を、そうだな、とりあえず・・・」
 回線をぶった切りたい衝動に駆られた。
「わかったよ、山崎。また連絡する。頼むからその女に手を出さないでくれ」
 情けなかったが、気が付くと懇願していた。
「やっぱり話が早いな、真山さん。次の日曜、あと二日だ」
 一方的に回線が切られ、山崎の声が消えた。
 
(二十七)
 
 外苑東通りへと乗った。さらに三丁目の交差点を左折、吹き溜まりへと至り、路肩に車を停めた。助手席の管は、ただ前方を見据え、黙ったままだ。
 スマートフォンを取り出し、康佑の携帯にかけた。このエリアからであれば、康佑がどこへ潜んでいようとも、すぐに向かうことができると考えたが、やはり繋がらない。
 この街のどこかに、康佑はいる。警察の目を逃れつつ、獲物を狙う獣のように眼を光らせ、潜み、その時を待っている。
 カナは今も無事だろうか。
 そして、真紀は。
 
(二十八)
 
 日曜、夜、六本木。助手席に管を乗せ、吹き溜まりの入り口付近にBMWを停めた。辺りは静かだ。酔客の姿はない。だが、いくつもの同じ顔が何度も吹き溜まりを行き来しては消え、また現れる。現れては消え、消えては現れる。まるで獲物を狙う鮫のようだ。
「やつら、あのヴェクターとかいう混血児の仲間だろうよ」
 助手席の管が呟く。気づいたようだ。管が続ける。
「六人。いや、七人だな」
 バックミラーの中で何かが光り、覗くと、エスティマのヘッドライトが近づいてくるところだった。芝方面から三丁目の交差点へと差しかかる間際、BMWの脇をすり抜けてゆく。運転しているのはヴェクターだ。こちらへ一度、首を縦に振って見せる。後部座席にカナは乗っているのだろうか。眼を凝らしたが、濃いスモークフィルムに遮られ、車内の様子は見えない。エスティマは吹き溜まりへと進入し、路肩に停止した。妙だ。ヴェクターが一人で降りてくる。エスティマのハザードが点滅した。ドアを施錠したのだろう。もう誰も乗っていないのだ。
 サイドガラスがノックされる。少し降ろしてやった。
「来てくれたんだな、真山さん」
 いったヴェクターの表情が、僅かに緩む。いくらか安堵しているらしい。
俺はいくらか迷った。山崎に女を攫われ、大麻を取り戻すよう威されていることを話すべきか。だが、黙っておいた。小狡い若者だ。弱みを見せるべきではない。それを見せれば、今度は何を要求してくるかわからないのだ。
「いってこいよ、真山」
 前方へと眼をやったまま、管がいった。
「あのレンジャー小僧は、お前を殺したいわけじゃねえ」
 助手席を向き、訊いた。
「菅さん、あんたはどうするんだ」
「ここで待ってらあ。二手に分かれてた方がいいだろう」
 いい終えた菅が、言葉を続けた。
「おい、集団レイプマン」
 声をかけられたヴェクターの表情が曇る。
「な、なんだよ」
 ヴェクターが口を尖らせ、俺の頭越しに管へと応える。
「来てんのはお前だけか。それと、お前らが攫った娘っ子はどうした、おお?」
 凄味のある声音だった。ヴェクターが眼を伏せ、ようやく答えた。
「い、色々考えたんだ、オレたちだって。作戦を練った結果だよ。取引には、オレが臨む。あのカナとかいう女は別の場所で捕えてる。監視してるのは、ほら、真山さんならわかるだろ、連れだよ、オレの」
 じっと管がヴェクターを睨みつけている。間が持たなくなったのか、ヴェクターは言葉を継いだ。
「あ、あの女はオレ達にとっちゃ切り札なんだよ。鞄さえ返してくれれば、あのレンジャー野郎に女の場所を教えてやる。もし奴が鞄を返さなかったら」
 言葉が途切れた。ヴェクターが唾を嚥下し、続ける。
「殺すようにいってある。その連れには」
 ふん、と管が鼻を鳴らし、いった。
「残るはお前ら二人か」
 質問の意味がわからないのか、ヴェクターが少し首を傾げる。
「レンジャー小僧の獲物だよ。お前ら二人を殺せば、それで奴の目的は達成されるかな」
 ヴェクターが歯噛みしている。辛うじて、いい返した。
「そ、そうはならねえさ。こっちには切り札がある。真山さんだっているんだから」
 もう一度鼻を鳴らし、管が訊く。
「ウロついてる七人はお前の仲間だな」
 またヴェクターが狼狽える。何も言葉を返さない。管が続けた。
「どれだけ役に立つだろうな」
 ようやくヴェクターがいい返す。
「金は払ってあるよ、それも結構な金額だ」
 そうかい、と管がすかさず返した。
「命張ってでもお前らを護ってくれるといいな」
 嘲笑のニュアンスがある。クソ、とヴェクターが小声で吐き捨てた。
俺はドアを開き、車から降りた。ドアを閉じ、車に管を残したまま吹き溜まりへと向かう。RED BARの入ったビルは、眼と鼻の先だ。
 ヴェクターと並び、吹き溜まりを歩く。七人いるというヴェクターの仲間のうち、二人の姿が見えた。眼でこちらに合図を送ってくる。
「この辺りを巡回させてんだ。何かあれば電話してくる」
 俺は答えた。
「何かってのは、必ず起きるだろうな」
 不意に、スマートフォンが鳴った。ジャケットの中で震えている。取り出すと、液晶に知らない番号が表示されていた。十一桁だ。
「奴か!?」
 ヴェクターの問いに答えず、回線を繋ぐ。耳に当てると、康佑の声が聞こえた。
「真山さん?」
 ああ、と答え、訊いた。
「康佑だな」
 ええ、と回答があった。
「新しい携帯か」
 ええ、とまた康佑が肯定する。
「普通に入手できましたよ。トバシの携帯ってやつです。いわゆる」
 康佑には、事情を話すべきだろうか。山崎に威され、俺は康佑から大麻入りの鞄を取り戻すか受け取るかしなければならない。
「奴か!?奴なんだよな!?」
 必死の形相でヴェクターが訊いてくる。ここで話せば、聞かれてしまうだろう。ヴェクターには頷いて見せ、康佑に訊いた。いつの間にか、歩みが止まっていた。
「今どこだ、康佑?」
 隣のヴェクターが眼に慄きの色を浮かべ、こちらを凝視している。康佑が何をいい、どんなやりとりをしているのか、必死に聞き耳を立てているのだった。
「それはいえませんね。それより真山さん、なぜいるんですか」
 咄嗟に視線を周囲に巡らせた。康佑には、こちらが見えているのだ。
「訳があってな」
 続けざまに康佑が問う。
「代わりに、カナがいない。ヴェクターには連れてくるようにいったんですけどね」
「その辺りのことは、俺にはわからん。すぐに来るんじゃないか」
 とぼけた。ヴェクターがカナを連れていない事実がわかれば、康佑がどんな行動を取るかわからない。
「来るんですね」
 念を押すように、康佑が訊く。
「わからない。ヴェクターに訊いてくれ。番号くらいは知ってるだろう」
 沈黙が流れた。
「それより康佑。お前、どうするつもりなんだ」
「どうするって、どういう意味ですか、真山さん」
 息を吸い、俺はいった。
「康佑、お前の目的は何だ。何をもって、その達成とするんだ。カナを救い出すことか、それとも、このバカ二人を殺すことか」
 また沈黙が流れる。黙考しているのか。
「それはぼくの問題です。真山さんにとやかくいわれるもんじゃない」
 聞かず、いい重ねた。
「お前はカナを救うべきだ。そのためにやるべきことは、こいつらを殺すことか。違うな」
 さらに沈黙。
「鞄を持っているだろう、康佑?それを渡してやれば、カナは解放される。それで、いいんじゃないか」
 説得しているつもりだった。
「康佑。お前が罪を重ねるのを、俺は黙って見ていられない。カナだって、それを望んじゃいない」
 回線に、ようやく康佑の声が漂った。
「もう、決めたんですよ、真山さん」
 息を吐く音がする。そして、康佑が続けた。
「そいつらを、殺します。カナも、救い出す。ぼくにとって、それらは決して難しいことじゃない」
 明確な口調で、康佑がいい切る。もう、固く決意しているのだ。
「愚かだな、康佑。お前は愚か者だ。そうしたところで、何も解決しない。誰も喜びはしない。それどころか、哀しみが増すだけだ。康佑、お前だけの問題じゃないぞ。カナもそうだが、多くの人間が哀しむことになる。それも、一時的なことでは済まん。ずっとずっと、哀しみ続けることになる、お前の身勝手な復讐劇のおかげでな」
 いい諭した。だが、康佑は低く、冷徹な口調で返す。
「なんとでもいってください、真山さん」
「康佑、思い留まれ。今ならまだ間に合う。それともお前、標的を全て手にかけて、上手く逃げおおせられるとでも思ってるのか」
「そんなふうには考えていませんよ。なんならぼくの方から警察に出頭してもいい。でも、それは全てを済ませてからです。真山さんは、ぼくの動きを阻みますか」
 すぐには回答できなかった。黙っていると、康佑が続ける。
「もし邪魔をするなら、例え真山さんでも、ぼくは排除します」
 警告する口調ではない。ただ冷たく、通告したに過ぎないようだ。
 口を開きかけたが、回線は一方的に切られた。
「何だって!?何ていってたんだ!?」
 ヴェクターが執拗に訊いてくる。俺は首を横に振り、再び歩き始めた。ビルのエントランスへと至り、あとから着いてくるヴェクターが俺を追い越し、エレベータのキーボックスを開く。ヴェクターがジーンズのバックポケットからキーを取り出し、シリンダーに突っ込んだ。見ると、額から汗が伝っている。生命の危機が迫っていることを、本能で理解しているようだ。
 扉が開き、俺はヴェクターと共にエレベータへと乗り込んだ。扉が閉まり、ヴェクターが四階のボタンを押す。ビル全体が、不気味なほど静かだ。
「営業してる店はないのか」
 訊くと、ヴェクターが答えた。
「定休日だ。まあRED BARはもともと休業だけどさ」
 他の階には停止せず、箱は四階へと直行する。
「殺されてたまるかよ。どうにかして鞄を取り戻して、逃げてやる」
 荒い息をしつつ、ヴェクターが呟くようにいった。
 四階で停止したエレベータが扉を開き、俺たちは箱から降りた。照明は灯っておらず、火災報知器の赤いランプだけが虚ろに光っている。
「そっちだ、真山さん」
 暗闇の中、ヴェクターが促す。脅えているのが見て取れた。康佑が先にビルへと乗り込んではいないかと警戒しているのだ。
 共用の通路だった。ワンフロアにテナントが三つ入っている。向かって左端のテナントが、RED BARであるらしい。通路に面している扉の前に立ち、今度は俺がヴェクターを促した。おぼつかぬ足取りでヴェクターが扉に近づき、開錠する。俺は扉を押し、店内へと踏み入った。無人だ。背後でヴェクターが何かを操作する気配がある。店内の照明が灯った。ブレーカーを操作したようだ。
 店内に眼をやる。酒場にしてはやたらと明るい。おそらく、営業中には点灯しない照明まで点けているのだ。ヴェクターは、病的なほどに闇を恐れている。闇にまぎれて接近してくると思われる康佑を、恐れている。
 特に何の変哲もないBARだ。俺はカウンターのスツールに腰かけ、煙草に火を着けた。
 まだ考えはまとまっていない。どう動くべきか。
 どう動けば、康佑を止められるか。
 どうすれば、カナと真紀を救い出すことができるのか。
 
(二十九)
 
 着信音が響く。ヴェクターの携帯だった。ヴェクターはそれを取り出し、液晶に眼をやったあと、それを耳に当て、いった。
「どうした!?」
向こうの声が聞こえる。かなりの大声だった。
「ヴェクター、一人やられたよ!」
 ヴェクターが絶句していた。康佑が動き出したようだ。
「一人連絡が取れなくなってさ、探したんだ。そしたら、路地のゴミ捨て場で気絶してた。これから残りの全員の安全を確認するから!」
 それだけいい、回線が切られた。
「動き出したみたいだな、康佑が」
 俺がいうと、ヴェクターの視線がスマートフォンからこちらへと向けられる。眼に、明らかな慄きの色があった。
「警察を呼べよ、ヴェクター。護ってもらえ。そうすりゃ殺されることはないからな」
「ダメだ」
 切るように、ヴェクターがいう。
「そうして今を乗り切っても、あの鞄は手に入らないだろ。そうなら、いつか山崎さんに追われて、殺される。そうでなきゃ、西和会に追われて、やっぱり殺される」
 長い沈黙のあと、またヴェクターの携帯が鳴る。握りしめていたそれの回線を繋ぎ、すぐに耳へと当てていた。
「どうだった!?」
 続報らしい。すぐに向こうの声が聞こえた。
「またやられた!さらに一人消えたんだ!ヤバいぞヴェクター!」
 内心、俺は安堵していた。一人は気絶させられていた。二人目もそうだろう。康佑は、無差別に殺しを重ねる気でいるのではない。飽くまで、標的はヴェクターの一味、カナを姦した者たちだ。
 ヴェクターがスマホに語りかけている。
「いいか、よく聞けよ!ビルに集まれ。消えた奴は殺されちゃいねえから放っておいていい。残った全員ビルのエレベーターホールに集まれ!レンジャー野郎の侵入を許すなよ!!」
向こうで応答があり、回線は切られた。だが、ヴェクターの体、そのどこからか着信音が聞こえてくる。別の携帯らしい。ヴェクターが恐るおそるといった様子でポケットからそれを取り出した。液晶に眼をやり、その視線をこちらへと向ける。
「康佑か」
 訊くと、無言で頷いた。ヴェクターが回線を繋ぎ、本体を耳に当てる。俺は身振りでスピーカーモードにするよう示し、ヴェクターはそれに従った。ヴェクターの握るスマートフォンから、康佑の声が聞こえた。
「カナはどこにいる」
 すぐには言葉が出てこないのか、ヴェクターは額から汗を流し、黙っていた。
「どこにいる、カナは」
 息を吸い、ヴェクターが答える。
「ここにはいねえ」
「どこにいるんだ」
 言葉を重ねるように、康佑が問うた。
「鞄を返すんだ。そうすりゃ教えてやる。さもなきゃ、あの女、死ぬぜ」
 ヴェクターがいい終えぬうちに、回線は途絶えていた。代わりに、静かなフロア内に、エレベータの箱が動く音が微かに響き始める。
「なあ、真山さん」
 見ると、ヴェクターは眼に慄きの色を浮かべつつも、口許では微笑んでいた。
「真山さん、協力してくれるよな。奴はオレを殺す気だ。だけど、あんたはそうさせたくない。違うか?オレが殺されないようにさ、護ってくれよ。そうでなきゃ、オレは殺されちまうぜ?」
「ここで待つか、ヴェクター。逃げ場はないぞ。袋の鼠だ」
 俺がいうと、ヴェクターが答えた。
「じゃあエレベーターだ。あんたが先にいくんだぜ」
 俺はスツールから腰を上げ、店の出入り口へと向けて歩いた。背後にヴェクターの気配がある。着いてきているのだ。
 通路に出ると、やはり闇の中、火災報知器のランプだけが灯り、赤い光を虚ろに放っていた。着信音が鳴る。ヴェクターのスマートフォンだ。びくり、とヴェクターの驚く気配があった。そしてエレベーターの稼働音が聞こえ始め、回線を繋いだヴェクターが訊く。
「どうした、お前ら。エレベーターが動き出したぞ」
 手下の声が聞こえてきた。
「そうなんだよ、ヴェクター。妙だ。オレたちこうしてエントランスに集まってるけど、誰もエレベーターになって乗っちゃいねえ」
 とすると、上階から乗ったのか、あるいは、そうしようと考えているか、だ。エレベーターの階数表示が階下から次第にこの四階へと近づいてくる。
 だが、エレベータの箱は四階を素通りし、最上階へと昇っていった。そこから康佑は箱に乗ったのか。今度は階数表示が下降する。六階、五階。ヴェクターの緊張する気配があり、荒い息遣いまでもが、こちらの耳に届く。
 背後でヴェクターが懇願した。
「くるぞ、真山さん。頼んだぜ・・・」
 俺は答えず、扉を見つめていた。
 階数表示。五階のそれが点灯する。そして扉が、開いた。背後でヴェクターが息を呑む。
 箱の中は、空だった。ヴェクターが息を吐く。長い吐息だった。扉が閉まりかける。
 その瞬間、箱の天井から大きな破壊音が鳴り、何かの影が床へと降り立った。速い。轟音と共に腕をこちらへと差し出し、閉じかけた扉に手を挟み、扉が再び開いた。ワンテンポ遅れ、俺の背後で驚いたヴェクターが絶叫する。
 開いた扉から照明が漏れ、暗かったフロアを照らす。影の主は、康佑に間違いなかった。コンバットブーツに戦闘服、背にはリュックサック。腰に下げているのは刃物だろう。眼は異様にギラついている。人のそれではない。獣の眼。人であることをやめてしまった者の眼だった。康佑がこちらへと歩み寄り、その背後で扉が閉まる。低く、康佑がいう。
「どうしても、邪魔をしますか」
 声がかすれていた。壊れた笛のような響きだ。
「そうさ。いったろう、お前が罪を重ねるのを黙って見てはいられない」
 闇の中、康佑の口が奇妙な動きを見せる。
「ぼくもいったはずです。例え真山さんでも、邪魔をするなら排除します」
 不気味な沈黙が漂う。俺は口を開いた。
「康佑、お前は人生はもちろん、命を賭けて取り組んでいるんだな。なら、俺もそうする。お前が命がけでこいつを殺そうとするなら、俺も命がけでそれを阻止するぞ」
 康佑の標的がヴェクターから俺に移った。そんな気がした。事実、康佑の視線はすでにヴェクターには注がれていない。明確な殺意を帯びた色の両眼が、俺を射抜く。
「急げよ、康佑。エレベータが一階に降りれば、こいつの手下がつめかける」
 康佑がリュックを降ろし、放り投げた。それが床に着く音が合図だったかのように、康佑が一瞬で間合いを詰めてくる。
 両の襟を掴まれた。揺さぶりをかけてくる。こちらも咄嗟に腰を落とし、両足を広げた。当然だが、素人の動きではない。よく訓練された者のそれだ。うかつに動けない。下手に仕掛ければ、やられる。
 探り合いが続いた。こちらも格闘技経験者であることを、康佑は感じ取っているらしい。うかつに動けないのは、向こうも同様なのだ。
 そして、康佑の動きには、躊躇いがあった。殺すだけなら簡単だろう。その技術を、康佑は叩き込まれている。だが、それを行使できずにいる。あの連中を殺す決心はあっても、俺を殺し、退けてまで、ヴェクターに迫ることができないのだ。
 闇の中、摺り足の音に、洟を啜る音が混ざった。影が動き、火災報知器の赤い光がそれを照らす。康佑の動きが、徐々に鈍る。持久力に難があるのではない。赤く照らされた頬に、涙が伝っていた。決心が、揺らいでいる。復讐を決意し、三人を殺しまでした硬い意思が、今、折れた。
 こちらの袖と襟を掴んだまま、康佑が動きを止め、深く息を吐いた。吐息に、僅かな嗚咽が混ざる。
「康佑」
 俺が名を呼ぶと、康佑の両手から力が抜けてゆく。
そして、大声で泣き始めた。
膝が抜け、床に崩れ落ち、子供のように泣きじゃくる。
咄嗟にヴェクターが動き、リュックを床からひったくると、鉄扉の向こうへ音を立てつつ一瞬で消えた。康佑の意識は、もうヴェクターにも、俺にも向けられていない。ただ床に突っ伏し、大声で泣き続ける。鉄扉が風で閉まり、その向こうで外階段を駆け降りる硬質な音が鳴っていた。
慟哭していた。康佑が、声の限り、力の限り、泣き叫んでいる。闇の中、その泣き声だけが、虚ろに反響していた。
「康佑」
 火災報知器の照明に照らされた床に、小さな池が形成されている。大量の涙と洟だった。それが次第に大きくなる。
「それでいいんだよ。あのまま突っ走れば、誰も報われない。誰も望まない結末を迎えただろう」
 どれほどの時間が経っただろうか、徐々に康佑の泣き声が小さくなる。遠く、パトカーのそれらしきサイレンが重なり、近づいてきた。ヴェクターかその手下達が通報したのだろう。連続殺人犯がこのビルにいる、と。
「ありがとうよ、康佑。お前が本気になれば、俺などひとたまりもなかった」
 大きく開かれた両の瞼が、また閉じられる。追いやられた涙が零れ、床へと滴った。
「そいつを貰っておこうか。警官たちが押し寄せる。それから、カナのことも任せろ」
 いい諭すと、康佑が震える手でサバイバルナイフのケースを摑み、それを腰から取り外した。こちらへと差し出してくる。
「安心しろ、康佑。奴らを殺すわけにはいかんが、それなりのメには遭わせておいてやる」
 踵を返し、鉄扉に向かった。押すと、それは簡単に開いた。背後から、康佑の声がする。
「真山さん」
 涙声だ。どうした、と訊き返した。
「カナのこと、よろしく頼みます。あいつを無事に、沖縄に帰してやってください」
 俺が頷くと、康佑は戦闘服のポケットから何かを取り出し、こちらに寄越してきた。かなり古い型のスマートフォンだった。
「トバシの携帯です。あの鞄にGPSを仕込んであります。奴に奪われた場合に備えての保険のつもりだったんですけどね」
 若いが、どこまでも慎重、そして用心深い。策を二重にも三重にも仕掛けていた。それだけヴェクターの命を奪うことに執着していた、ということだ。
「その携帯で地図アプリを開けば、鞄の位置情報がわかります。ロックはかかっていませんから」
涙の伝う康佑の頬に笑みが走る。俺はもう一度頷き、背を向けた。
 外階段を下る。夜風が頬を撫でた。地上に視線を向けると、赤色灯を瞬かせた四台のパトカーが、吹き溜まりへと進入してくるところだった。四台目のあと、さらに覆面らしき二台が続く。
 二階へと下り、さらに外階段を降りる。見ると、パトカーのドアが次々と開かれ、警官たちが足早に降り立った。民間人一人、と声がする。一人の警官が肩の無線機に似たことを報告していた。
「すぐに離れてください、この建物から」
 地上へ至ると、駆け寄ってきた警官が俺に声をかけた。残りの警官たちが散会する。ビルを包囲する気だ。掛け声と号令、そして無数の足音が響く。
 声をかけてきた警官の視界に入るよう、やや大きな動作で康佑のサバイバルナイフを地面へと放った。
「あいつは丸腰だよ。抵抗する意思もない。手荒な真似はせんでほしいだがね」
 私服の警官が二人、近づいてきた。パトカーの赤色灯に全身を照らされ、ちかちかと点滅している。大野と宗形だった。通報により覆面パトカーでここへ駆けつけ、降りてきたようだ。
「何があったんだね、真山さん」
 大野が訪ねる。口調は穏やかだが、眼には険があった。
「説得しただけさ。もう武装していない。今そっちの制服にも話したが、丸腰だよ」
 こちらがいい終えぬうちに、宗形が突っかかる。
「何があったか訊いてんだよ」
 視線を向ける。しばし、睨み合った。こうしてはいられない。俺は先に眼を逸らし、歩き始めた。外苑東通りへと向かう。BMWのテールが見えていた。
 運転席のドアを開いたとき、宗形が追い付き、俺の肩を摑んだ。
「真山さん、あんたは重要参考人なんだよ。署で話を聞かせろよ」
 唾を飛ばしつつ、宗形がいった。
「任意だろう。お断りだ。今はそれどころじゃないからな」
 宗形が歯噛みしている。よほど面白くないらしい。宗形の手を払い、運転席に乗り込む。ドアを閉じると、辺りの喧騒が遠くなった。
「どうなった」
 管が訊く。こちらを見ていない。ダッシュボードに両脚を放り出していた。
「どうにかなった。大麻はヴェクターの手にある。そして、誰も死んでいない」
「そうだろうよ」
 見ると、いった管が眼を細めていた。
 携帯を取り出し、着信履歴からヴェクターの番号にかけた。スピーカーモードのアイコンをタップし、メーターパネルに置く。エンジンに火を入れ、ウィンカーを出した。
「あのお嬢ちゃんの居場所はわかったのかよ」
 訊きつつ、管が両脚を畳み、フロアへと置いた。ギアを入れ、クラッチを繋ぐ。管の問いに答える前に、回線がヴェクターへと繋がった。
「ヴェクター。俺だ。カナはどこにいる?お前の仲間が監禁しているんだろう?」
「なんであんたがそんなことを知りたがるんだよ!?もうどうだっていいだろ!」
「お前はもう大麻を手にしたな、ヴェクター。カナを監禁し続ける理由はない。どこだ。俺は康佑からカナを救うように頼まれた」
「あいつ、どうなったんだよ?刃物持ってよな。連続殺人犯だ。射殺でもされたのか?」
 答えずにいると、へっと鼻を鳴らす音が回線の向こうから聞こえた。
「ざまあだな。ぶち込まれて、ずっと刑務所にいりゃいいんだ。あの女はもう用済みだからな。あいつが好きなようにしてる」
 あいつとは、カナを監禁し、見張っている混血のことだ。
「今ごろどこかに放り出されてるんじゃねえか?事が済んだから『好きにしていい』っていっておいたけどよ、あいつはあの女を散々痛めつけたみたいだぜ。あのレンジャー野郎を説得させようと思ってよ」
「どこにいるんだ、カナは」
 ヴェクターの笑い声が聞こえる。汚い響きだ。
「知るかよ、あはは。閉じ込めてたのは『ヴァーグ』って店だけどな。知り合いの店なんだ。店休日だからって鍵を貸してもらったんだよ」
「その店、どこにある」
「インペリアル六本木だよ。狭い店だ」
 五丁目にあるテナント施設の名だった。外国人向けのビアホールから、この国でも有数といわれる高級クラブまで、様々な店舗が入居している。
「その店にカナはいるのか」
「だから!知るかっていってんだろ!もうどうでもいいんだよ!」
 音声が割れるほどの大声で啖呵を切り、ヴェクターは回線までも切った。インペリアル六本木は眼と鼻の先だ。ここから五分とかからない。

#11(完結)につづく



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