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小説「哀しみのメトロポリス」 #11(完結)

#創作大賞2024 #ミステリー小説部門 #六本木

(三十)

 鳥居坂へとノーズを進めると、すぐ左手にインペリアル六本木が見えてきた。日曜の深夜、点いている街灯もまばらに思える。暗い路地の路肩にBMWを止め、管と降り立った。インペリアル六本木の敷地内へと駆け足で踏み入れる。カナの名を呼び、叫んだ。返事はない。痛めつけた、とヴェクターはいった。放り出した、とも。
 施設内は暗かった。開店している店舗がないのだ。地下に位置する中央噴水広場を中心とし、その周囲を地下一階から地上二階へと伸びるテナント群が囲む構造となっている。管と二人とはいえ、一人の女を探すには広すぎる。
 二手に分かれ、施設内を探した。俺は地下へ、管は一階を探したあとで二階へ上がるという。カナ、カナ。大声で名を呼び、地下を駆け回った。嬢ちゃん、と管の呼ぶ声が頭上から何度も響いていた。
「真山!」
 頭上から声がした。俺は地下フロアを探し終え、地上へ至る階段を登るところだった。急いで階段を登り、地上階へと戻る。
「菅さん!」
 名を呼んだ。施設内の壁に声が反響する。
「こっちだ!いたぞ!」
 声の元を辿り、駆けた。足音が響き、管の呼ぶ声と和音を奏でる。
 管は、一階から上下階に伸びる階段の傍らで屈みこんでいた。地下や二階へ至る階段は、施設のいたるところに設置されている。入居するテナントへ飲みにくる客としては便利だろうが、俺たちのように何かを探す身になると対象となる場が多く、あまりに不便だった。
 二人に駆け寄り、俺も片膝を折った。照明のまばらな通路の端に、カナは横たわっている。フロアの床が、黒かった。血だ。管が歯噛みするようにいう。
「酷い出血だな、こりゃあ」
 意識はないようだ。瞼がほとんど閉じられており、呼びかけにも反応しない。管がカナの体を抱え上げ、いう。
「おれの車で運ぶぞ。救急車を待つより早い」
 抱き上げられたカナの体から、粘性のある血液がぼたぼたと音を立て、フロアに落ちる。管を先導するように俺は階段を駆け下り、BMWへと急いだ。カナはかなり酷い状態だ。相当に痛めつけられたらしい。車へ辿り着くと、俺は後部座席のドアを開いた。すかさず管がカナを抱え、座席へと滑り込む。末期癌患者とは思えないほど俊敏な動きだった。これも覚醒剤によるものなのか。敷地からアスファルトの路地、そこから二人が乗り込んだ座席に至るまで、血の跡が点々とある。管のいう通り、かなりの出血だ。放っておけば、死ぬ。救急車を待っている余裕はない。
 ドアを閉じ、運転席へと収まる。
「急げよ、真山」
 管が命じつつ、ベルトを締めた。
「離しゃしねえからよ。思い切り飛ばせ」
 バックミラーの中で、不敵にも見える笑みを浮かべた菅が見える。頷き、ギアを入れた。鳥居坂を青山方面へ向け、フル加速する。三速、四速。人も車もいない赤信号を、二つ突っ切った。鳥居坂下の交差点。信号は青だ。突っ切り、麻布十番、元麻布と路地を駆け抜ける。
 外苑西通りに出た。テールを振りつつ左へステアリングを切る。アクセルは全開だった。
だが途端、対向車線をこちらへと向かってきたヘッドライトの光が進行方向を変え、加速度的に近づいてくる。たまらずブレーキを踏んだ。それでもヘッドライトは停まらない。眼が眩むほどの距離に接近した時、ようやくタイヤのスキール音が鳴った。
BMWのノーズから数十センチほど手前で、ようやくヘッドライトが停止した。眩しい。どうにか瞼をこじ開けると、巨大なグリルが視界を塞いでいた。大型車か、それに近い車格がある。ディーゼル特有の低いエンジン音を轟かせ、アイドルしていた。対向車線からこちらへと急ハンドルを切ったのか、長い車体に大きく角度がつき、斜めに停止している。その車体が広尾方面へと伸びる車線を封鎖する形だった。
「真山、奴だ」
 閃光の中、グリルの上部から車体にかけてが赤く塗装されているのが見える。赤いトラック。いつかヴェクターたちが酒と大麻を運んでいた四トン車だ。
「ようやく来たか、この時がよ」
 バックミラーの中で、また管が不敵に笑う。言葉の意味がわからない。そして、管のいう『奴』とは。
 轟いていたディーゼルの音が聞こえなくなった。エンジンを切ったらしい。車を移動させる気がないのだろう。こちらの動きを封じるつもりだ。トラックのドアが開く重厚な音が鳴った。背後で管がベルトを解く。ミラーに眼をやると、管は抱いていたカナの体を座席へと、優しく寝かせていた。
「出るなよ、真山」
 低く、剣呑な口調で管がいい、後部座席のドアを開く。
「すぐに終わらせる。そのお嬢ちゃんを死なせるわけにはいかねえからな」
 トラックの運転席から、巨体が降りてきた。
特徴的な髪形、肥えた体。山崎だ。
「病院の前で待ってたんですよ」
 山崎の声が聞こえるのと、車を降りた管がBMWの後部ドアを閉じるのが同時だった。
「あのバカガキどもが人質を痛めつけたっていうから、ってあれ、真山さんじゃないね?」
 緩慢な動きで歩む山崎と、管の影が近づく。
「大麻はおめえの手に渡ったのか。手下のガキが持ってたろう」
 管が訊く。山崎は醜く笑い、答えた。
「いや、まだ会ってないですね。あれ、真山さんの連れじゃん」
 やはり子供のような声だった。
「おれは真山の用心棒だよ。危害は加えさせねえ」
 管の表情は、穏やかなそれだった。
「ヴェクターとかいったか。大麻はそいつが持ってんだよ。間もなくおめえの手に渡るはずだ。それでいいだろう。なんだってこうして邪魔をするんだ」
 管のさらなる問いに、笑みを崩さぬまま山崎が答えた。
「電話はあったけどさ、大麻を取り戻したって。でも、そんなわけねえじゃん。持ってたとしたら、そりゃ真山さんだよ。あいつらが取り戻せるわけねえ。死にたくねえからってあいつが口から出まかせいってんだよ。ほら、真山さん」
 言葉の後半は、車内にいる俺に向けられていた。
「早く渡してくださいよ。でなきゃあんたの女にすげー変態プレイさせて楽しんじゃいますよ?」
 大麻は、ない。ここには。本当にヴェクターの手にあるのだ。だが、それをどう証明すればいいのか。山崎がヴェクターの言葉を信じないのなら、もう打つ手はなく、そしてカナには、時間がなかった。
「問答したって始まんねえな。女はどうしてる?真山の女だ」
 管の言葉に、聞き耳を立てた。山崎が答える。
「監禁してんだよ。ほら」
醜い笑みを浮かべつつ、山崎が背広の内ポケットからキーを取り出し、見せびらかした。
「早く渡せ、大麻を。そしたら助けにいきゃいい。見張りなんてつけてねえし」
「監禁って、どこだ、そりゃ」
「渡してくれりゃ、教えるよ」
 まだ山崎は、大麻がこちらの手にあると考えている。
 管がスーツの懐から何かを取り出した。鞘を払う。匕首だった。俺の背を、冷たい汗が伝う。見ると、山崎も笑みを浮かべたまま、刃物を構えていた。二人とも、やくざなのだ。
「よせ」
 俺は呟き、ドアを開いた。だが、二人の体がぶつかり合う方が先だった。管が山崎へと跳び、二つの影が一つとなり、そして、離れた。
「おい!」
 運転席から飛び出し、駆けた。管はその場に崩れ、山崎は脇腹を両手で押さえつつ、その場で後退している。おぼつかない足元に、点々と血が滴っていた。。
 崩れ落ちた管が刃物を握ったまま、仰向けにひっくり返った。駆け寄ると、管は腹部から血を流し、片方の手には布切れを握っていた。山崎のスーツ、その切れ端だ。
刺されていた。鮮血が、スーツの下に着た白いワイシャツに赤く大きなシミを形成し、それが拡大してゆく。やがて白い部分が見えなくなり、血がアスファルトにまで急速に流れ始めた。
「出るなといったろう」
 濁った声で、管が俺を咎めた。口調は柔らかだ。言葉と共に、唇の端から血が溢れ出る。一方的に、管は血を吐きつつ続けた。
「宮家さんにな、いわれてたんだ。その通りに、したまでよ。あのデブはもう、助からねえ。おれもだがな」
 どの道、長かあねえ。いつか管が助手席で吐いた台詞を回想した。首を捻り、眼で山崎の行方を追う。山崎は十メートルほど先、外苑東通りの歩道で倒れていた。そちらにも地面に血の池が形成されている。
「手ごたえがあったんだ。助からねえ。互いに、な」
管の右腕が血で濡れた胸を這い、何かを摘んだ。
「こいつは、まだ、連れていきたくねえ」
 ネックレスの小さな鎖を摘んだ管の手が、布切れと共に俺の胸へと当てられた。骨の首飾りだ。管が続ける。
「病院へ、連れていけ。お嬢ちゃんを、死なせるなよ」
 それだけいい残し、管の口は動きを止めた。その眼から、生の色が失せてゆく。俺の胸にあった管の腕から力が抜け、ずるりと落ちた。布切れの絡みついた首飾りだけが、辛うじて、俺の手に残される。
車へ戻り、後部座席のドアを開いた。シートベルトを引き伸ばし、カナの身体ごとシートを一周させ、バックルに留めた。
 運転席に乗り込む。エンジンに火を入れるのと同時にクラッチを切り、一速。アクセルを煽り、強引にクラッチを繋ぐ。外苑西通りを走る車は他にいなかった。対向車線へと大きく迂回し、停止したままのトラックを過ぎると、再び広尾方面へと伸びる車線へと戻る。
 アクセル。全開だ。一つ目の信号機が直進のみを許す矢印を点灯させている。ブレーキを踏み込みつつ、小指の付け根でアクセルを煽り、シフトダウン。荷重を前輪に移したまま、ステアリングを右に切る。前輪が鳴き、ノーズが回頭した。アクセルで立ち上がる。今度は後輪がスキール音を挙げ、ステアリングでカウンターを当てた。
 堀田坂を昇り、右コーナー。ヘッドライトを跳ね上げ、アウト側から切り込む。七千まで回し、三速。日赤通りに突き当たった。迫る酒場の看板を睨みつつ、ブレーキング。対向車線から左へと切り、T字路を抜けた。夢中で車を操作していると、瞬く間に日本赤十字病院の巨大な病棟が見えてくる。
 敷地内に乗り込み、駐車場を突っ切った。外来入り口に救急車の姿はない。ステアリングを切り、銀色に鈍く光る観音開きのドアに、車の横腹を着けた。
 クラクションを鳴らし、運転席を降りる。後部座席のドアを開いた。シートベルトを解き、カナを担ぎ上げる。
 銀色のドアを蹴り開けた。クラクションを聞いて詰所から駆けてきたらしい看護師の男が、外に飛び出てくるところだった。
「急患だ」
 俺は告げ、二つあるストレッチャーの一つにカナの身体を降ろした。下腹部から垂れた血が俺のジャケットを侵食し、カナの服も、絞れば滴りそうなほどの血を吸っていた。
「あの、救急車で運ばれた場合じゃないと対応できないんですよ」
 背後で看護師がいう。うわずった声だ。そちらを振り返る。いつか俺が廊下で締め上げた看護師だった。
「患者を見てからいえ。輸血が必要かも知れん。死んだら責任問題だぜ」
 視線でカナを示した。看護師の眼も、ストレッチャーに横たえられたカナへと移る。表情が強張った。出血に気づいたようだ。
「せ、先生を呼んできます」
 短くいい残し、看護師が廊下へと消えた。
「カナ」
 名を呼んだ。カナの口から漏れるか細い息の音が、処置室を彷徨う。
 もう一度呼ぶと、カナが薄く眼を開けた。微かな意識の中で、声に反応している。小さく開かれた口から、声が漏れた。
「真山さん」
かすれた、小さな声だった。
「康佑、怒ってました・・・?」
薄く開かれた目蓋から白眼が覗き、そしてまた眼を閉じた。辛うじて息はある。脈も。カナは、俺の回答を待っていた。眼を閉じたまま、混濁した意識の中で。
康佑は、カナの救出を、俺に託したのだ。奴の言葉を回想し、俺は答えた。柔らかな口調を心がけ、カナに語りかける。
「いや。むしろ心配していたよ。お前さんを」
 重なる足音と共に、白衣を着た医者が現われ、さっきの看護師がそれに続いた。医者が一度こちらに眼をやり、ストレッチャーのカナに取りかかる。俺はジャケットを脱ぎ、銀色の観音扉を押し開け、外に出た。運転席のドアを開き、かかったままだったエンジンを切る。ドアを閉め、スマートフォンを取り出した。ボンネットの上に座る。ジャケットは助手席に放っておいた。
 呼び出し音が二度続き、阿南が出る。
「片付いた」
 溜息混じりに、俺はいった。笑う音に続き、阿南が応える。
「早かったな、真山」
 狭い日赤通りを走る車は一台もいない。駐車場に停まる車の姿も、ほとんどなかった。
「ご苦労だった」
 高回転にまで引っ張り回されたBMWのエンジンが熱を持て余している。その熱が、ボンネットからスラックス越しに伝わってきた。
「トラックを手配してくれ」
「何?」
「長距離トラックだ。乗せたいのがいる」
賭けをするつもりだった。かなりの重症だが、カナは助かる。それに、俺は賭けた。
「わけがわからんぞ、真山」
 カナを医者に任せた今、張り詰めていた気が抜け、疲労感が全身を包んでいた。阿南に事を話すことさえ、億劫に感じる。
「とにかく手配してくれ。会長の指示通り、問題を解決したんだ。貸しが一つある」
 舌打ちが聞こえた。
「飛行機のチケットじゃだめなのか?」
「だめだな。道程を実感できる手段がいい。沖縄までだ」
「沖縄だと?」
「そうだ」
「地続きになってないぞ」
 頭を反らし、地図を思い浮かべた。沖縄は離島だ。
「なら鹿児島の端まででいい。とにかく頼む」
「・・・まあいいだろう。いつだ」
 ボンネットから尻を上げ、上体を反らす。腰の骨が心地いい音を立て、鳴った。
「わからん。遠くはない。きっと。俺が賭けに勝てば」
 阿南が何かいっていたが、構わずスマートフォンを耳から離し、回線を切った。握る手に管のネックレスが巻き付きついている。
ネックレスは俺の手に、布切れはネックレスに、それぞれ複雑に絡み合っていたが、慎重にそれらを分離させた。やはり布は、山崎の着ていたスーツの切れ端だ。血に濡れ、丸まっていたが、広げるとハンカチ程度の大きさになる。そこから、何かが駐車場のアスファルトへと落下した。小銭でも落ちたような音が鳴る。
キーだった。二つある。一つには、六本木七丁目にあるラブホテルの名が刻まれていた。使ったことはないが、かなり特殊な趣味を持つカップルにもニーズがあると聞いたことがある。無事。見張りも点けていない。山崎の台詞を思い出し、俺は運転席に乗り込んだ。
 感覚を澄まさなければそれと気付かないほど細やかな雨の粒が、辺りに舞い始めていた。

(三十一)


 部屋には防音の処理が施しているはずだったが、フロアのあちこちから男女の喘ぎ声が聞こえていた。一体どんなプレイをしているのだろうか。

 部屋が近づくにつれ、カップルたちの声に、聞き覚えのある声が混ざり始めた。真紀だ。だが、性的な悦びによる大声ではない。聞くと、助けを求める言葉を絶叫している。見張りはついていないはずだったが、俺は焦り、足を速めた。

 ドアのシリンダーにキーを挿し込み、捻る。真紀の絶叫が、一応は防音であるはずのドア越しにも聞こえてきた。

「だれか!ここから出して!おしっこしたいんだよ!!」

 ドアを開くと、部屋を薄紫色の照明が満たしていた。洗面台、ダブルサイズのベッド、ソファ。その先に、なぜか檻があった。パイプが全て金属で作られた、猛獣でも押し込めておくような大きさの檻だ。

 真紀はその中で尿意を堪えつつ、助けを求めて絶叫していた。

「おせーよ!早くここから出してくれよ!」

 身に危険が差し迫っているのではなく、小便がしたいのか。その長閑な要求に、俺はつい笑ってしまった。くくくと声が漏れる。

「笑ってないで早く出せ!ここから!」

 笑いを堪えながら、もう一つのキーで檻の南京錠を外してやる。

「あー!もうダメ!」

 途端に真紀が檻から飛び出し、部屋の角にあるトイレのドアへと消えてゆく。

 部屋が静かになり、俺はベッドに視線をやった。乱れてはいない。座った形跡すらなかった。山崎は、それなりにフェアな男だったようだ。

 トイレのドア越しに、真紀の声が聞こえる。

「あー、危なかったー・・・」

 俺はもう一度、笑った。ソファに腰を降ろし、煙草を咥える。そして携帯電話を取り出し、林にかけた。


(三十二)


 ガラス張りの自動ドアが開き、病院の広い待合室が視界に広がる。連なる椅子の列に、数え切れないほどの患者やその家族が座り、受付の順番を待っていた。

待合室の角に置かれたスピーカーから、電子音声が番号を告げた。手続きを待つ患者には番号が振られ、その番号で呼び出されるようだ。ガラスで仕切られた窓口が八つ並び、その奥では事務員らしき人間が忙しく立ち働く姿が見えた。
 窓口に近い椅子の一つに、カナは小さくなって座っていた。近づくとこちらに気付き、顔を上げる。一つだけ、医療用のテープで貼り付けられたガーゼが残っていた。他に付いた顔の傷は、やや赤みが残るものの、ほぼ完治したように見える。
「車にいっててくれ。ラジオくらいなら付いてる」
 スラックスからキーを取り出し、椅子に座るカナに差し出した。カナはぼんやりとキーに眼をやり、また俺の顔を見上げる。
「どうした」
 カナの視線が下降し、それが再びキーに注がれた。
「はい」
 膝の上に置いた手の片方を伸ばし、キーを受け取る。その手に、二桁の番号が印字されたプラスチックのプレートを握っていた。
「そいつと交換だ」
 カナが俺の手に、プレートを渡す。そしてゆっくりとした動作で椅子から立ち上がり、カナはもう一度、俺の顔を窺った。
「どうした」
「いえ・・・」
 哀しげで、どこか複雑な笑顔を見せ、カナは自動扉へと向かう。その足取りは、軽やかとはいえなかった。背中を見届け、カナの座っていた椅子に腰を下ろす。受付の順番が回ってくるのは、しばらく先のようだった。
 一か月近く、カナは入院していた。顔面に受けた傷は軽症だったが、下腹部に受けた殴打が堪えたらしく、膣からの多量出血は輸血を要した。婦人科へ移され、専門医の診察を受けたカナは、妊娠初期における切迫流産、と医者に告げられた。腹の子は大量の血と共に、流れていた。
 会計を済ませ、領収書を丸めてゴミ箱に投げた。

自動ドアを抜け、駐車場に出る。都会の狭い空から、柔らかな日差しが降り注いでいた。整然と並ぶ車の間を歩き、BMWに近寄る。

あれから、俺は麻布署の大野と宗形を呼び出し、康佑から手渡されたトバシの携帯を託していた。そこから位置情報を探り、あの二人とは別の部署だそうだが、後にヴェクターとその片割れを逮捕したと大野から連絡があった。前科があるかどうか知らないが、かなり絞られるに違いない。初犯だとしても、薬物の所持や使用は重罪だ。営利目的での所持ともなれば、実刑は免れない。

フロントガラスの向こうに、助手席に座るカナの姿が見える。運転席側へ回り、乗り込んだ。
「ベルトを締めろ」

俺はキーを捻り、エンジンをかけた。
 昼が近い。日赤通りを六本木通り方面へと走る。この時間帯に日赤通りを走るのは初めてだ。高樹町の交差点を右折し、六本木通りに合流する。首都高渋谷線の高架が上空を塞ぎ、その隙間から時折、陽に照らされる六本木ヒルズの森タワーが見えた。
「お金、払います」
 助手席で、カナが唐突に口を開いた。
「結構かかりましたよね」
 六本木通りを走る車の数は多くない。タクシーを一台追い越し、ギアを上げる。
「要らんよ」
 赤く灯っていた一つ先の信号が、青に変わった。六本木六丁目の交差点だ。一度緩めていたアクセルを再び踏み込む。
「でも」
 交差点を通り過ぎた。首都高の高架と併走し、六本木交差点へと向かう。
「要らん。どうせきれいな金でもない」
 六本木交差点が近い。右折レーンへと入り、高架の下へと潜った。

「真山さん」
 信号が赤く灯っている。右折レーンの先頭で止められた。後続車はない。

「康佑、どうなっちゃいますか」
 ギアを抜き、クラッチから足を離した。シフトノブに掌を置いたまま、前方を見る。
「どうだろうな。まだ裁判も始まってない」
 三人。康佑が殺した人間の数だ。二人殺せば微妙だが、三人殺せば死刑、と何かで読んだ。情状酌量の余地もあるのだろうが、それは康佑が全てを吐く、ということが前提になる。
「カナ。康佑は、お前さんが輪姦されて孕まされたことを墓まで持っていく気だ」
 右方向へと向いた矢印が、信号機の下部で光った。ギアを入れ、クラッチを繋ぐ。ステアリングを切りつつ六本木交差点を右折し、外苑東通りへと乗った。
「刑事も、検事も、弁護士も、康佑を揺さぶるだろうな。黙ったままじゃ、猟奇性の説明がつかない。だが康佑は、喋らないだろう。そんな気がする」
 一瞬、助手席からの視線を感じた。カナのそれだ。
「お前さんを沖縄へ帰すようにいわれたよ、康佑に」
 カナが俺を見る。眼をやると、どこか、少し驚いたような表情を見せていた。
「そのつもりだった、俺も」
 前方に、大型トラックの背中が見える。十トン積みの保冷車だ。どこかの水産加工会社の名が、筆字を模した書体で記されている。トラックはドン・キホーテの先、外苑東通りの路肩にその巨体を寄せ、停まっていた。
 トラックの脇をすり抜けると、そこは吹き溜まりの入り口だった。左にウィンカーを出す。ステアリングを切り、吹き溜まりにBMWを滑り込ませた。

「お別れだ、カナ」
 助手席に半身を向け、告げた。シートの下に生えたレバーを指で引き、トランクを開く。開いたトランクカバーが、後方の視界を塞いだ。
「鹿児島の端までいく。そこからは船に乗れ。しばらく揺られていれば沖縄だ」
 鼻を啜る音が、耳元で鳴った。顔を上げ、カナを見た。泣いていた。
 運転席から降り、BMWの後方へ周った。口を開けたトランクからワインレッドのトランクを引っ張り出し、継ぎ接ぎだらけのアスファルトに置いた。トランクを閉じる。そして助手席側へと周り、ドアを開いた。
「康祐にいわれたんだ。お前さんを沖縄へ帰すように」
 間があり、そしてカナが頷いた。拍子に、涙が顎の先から滴った。助手席から降り、ドアを閉じる。カナの手を取り、スーツケースに添えた。

「眠るなとはいわんが、なるべく起きて前を見ていろ。遠いところまで来たんだからな」
 トラックへと歩く。一度、振り返った。視線を伏せてはいたが、カナは着いてきている。トラックへ近づくと、ドライバーが内側から助手席のドアを開いた。
「よろしく頼む」
 そういいつつ、カナのスーツケースを持ち上げる。ドライバーが受け取り、あいよ、と応えた。灰色のツナギを着た、気のよさそうな中年の男だった。
「それじゃあな」
 俺はいい、背を向けた。
「真山さん」
 背中越しに、カナの声がする。振り返った。
「ありがとう、真山さん」
 カナはいい、眼を閉じた。目蓋に追い遣られた涙が、さらに頬を伝う。その様が、康佑のそれを思い起こさせた。
「いや」
 苦笑しつつ俺は答え、踵を返す。なぜ苦笑したのか、自分でもわからない。
「真山さん・・・見送っては、くれないんですか・・・?」
 もう一度、振り返った。涙声で、カナはそういっていた。
「俺はこの街の住人だ。この街で生きていく。こうでなきゃ、この街で生きてはいけないんだ」
 再び背を向け、歩き出した。BMWに乗り込む。キーを捻り、エンジンをかけた。煙草を銜え、ライターを灯す。火を着けようとしたが、やめにした。唇から煙草を摘み、ダッシュボードへ投げた。
 バックミラーにカナの立つ姿が見える。前方に眼をやり、ギアを入れた。クラッチを繋ぎ、走り出す。裏路地へと向けて、強引にステアリングを切った。
 フロントタイヤが鳴き、陽の当たらない路地へと進む。
 バックミラー。
 その中に、もうカナの姿はなかった。

                       (了)

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