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小説「哀しみのメトロポリス」#2

#創作大賞2024 #ミステリー小説部門 #六本木

(二)
 
 六本木交差点から五百メートルほどだろうか。溜池山王方面へ坂を下ると、一軒の古い喫茶店がある。店の名はAN。昼を過ぎた辺りから店を開き、酒を出すバータイムは六時からだ。黒ずんだ木材で作られた店の内装と、古いジャズの流れる店内の空気を、俺は気に入っていた。
 待ち合わせの夕方四時。スーツの男はすでに店にいた。ボックス席に腰をかけ、テーブルには水とお絞りだけが乗っている。
「あら、いらっしゃい」
 ママが俺に声をかけた。男と俺の他に、客は誰もいない。コーヒーを飲むにも酒を飲むにも、半端な時間帯だった。
「ブレンド?」
「ああ。ふたつ」
 あいよ、といい、ママはコーヒーを淹れる支度を始めた。
 男が立ち上がり、頭を下げた。
「すみません、わがままを聞いてもらって」
 いや、と俺は答え、腰を降ろした。これも仕事と思えば、どうということではない。
「まだ、ちゃんとご挨拶していませんでしたね」
 男がいいつつ、名刺を差し出した。社名の後に、六本木エリア営業部主任という肩書。そして、霜越健二という名が記されていた。
「何屋だ?」
 俺は訊いた。社名からは、それが察せない。
「酒屋です。この辺り一帯に酒類を卸しています」
 カウンターにグラスポットが置かれ、ママがコーヒーペーパーを広げた。
「営業か」
 煙草に火を着け、俺はいった。
「そうですね。たまには作業着で酒を届けたりもしますけど、基本的にはこの格好で得意先を回っています」
 マイルズ・デイヴィスが流れていた。合間合間に、グラスポットの底へとコーヒーの雫が落ちる音が聞こえる。
「話とは?」
 酒です、と霜越が答える。
「売り上げが落ちているんです。それも、著しく」
 不景気のせいだろう。俺はいおうとしたが、黙っていた。
「一時期に比べて需要が落ちている、というのもあるんですが、どうも別の何かにシェアを奪われているようなんです」
「おたくとは別の酒屋に、ってことか」
 灰を落とし、俺はそういった。
「それが、違うんです。六本木一帯に酒を卸している会社は数社ありますが、その全ての販売数量がガタ落ちなんです。それでいて、どうやら街に流通している酒の量は減っていない」
 おまたせ、といい、ママがコーヒーを運んできた。霜越の方にだけ、ミルクと砂糖が置かれる。霜越はそれを二つともカップに開け、スプーンで掻き混ぜた。俺はいつもブラックだ。
「どうも酒屋ではない第三者から、不正に輸入されてきた酒類が流れてきているようで」
 灰皿で煙草を捻り潰し、俺もコーヒーを含んだ。
「第三者?」
「調べた限りでは、そうです。そしてこれは個人的な推測の域を出ませんが、横浜辺りで密かに陸揚げされた物か、或いは厚木基地や横田基地から米軍の兵士たちが小遣い稼ぎのつもりで捌いているか」
「正規輸入しているおたくらのシェアを圧迫するほどの量なのか」
「それほどの量です。小遣い稼ぎにしては度が過ぎている」
 霜越がいい、コーヒーを啜った。
「先週、この一帯に酒を卸す数社が会合を開きまして、私も出席しました。落ち込む売り上げをどうするのか、というのが議題でしたが、実際は、その不正輸入品をどうするか、という話になりました」
 二本目の煙草に火を着けた。空調の微かな風に、煙が揺れる。
「まずは詳細を調査する、ということになったんですが、どの社も人間を出し渋りまして」
「なぜだ?」
「少々危険だからですよ。これには必ず不良外国人が絡んでいますから」
そうだろうな、と俺は呟き、煙を吐いた。
「そこで真山さん、何かご存じないか、と」
 そういうと、霜越はコーヒーカップに眼を落とした。
「あんたがこうして動いているのは何故だ、霜越さん?」
「挙手したんです。その会合で」
 霜越の眼が、いくらか光を帯びた。
「少々危険ではありますが、手柄を挙げるチャンスです。このご時勢、我々物売りが実績を出せる機会というのは多くない」
 煙草を灰皿の淵に置き、俺は訊いた。
「しかし一体、何故俺なんだ?六本木にキャッチなんていくらでもいるだろう?それに、話を訊くのがキャッチである必要もない」
 霜越が苦笑しつつ、答えた。
「正直なところ、誰も相手にしてくれないんですよ。どこから手をつけていいかわからなくて。そしたら、あのコオさんという方が真山さんを紹介してくださったというわけです」
 またひと口コーヒーを啜り、霜越が続ける。
「もし動いてくださるというのでしたら、会社からは必要経費という形でお金が出せます」
 訊くだけ訊いてみた。単なる好奇心からだ。
「へえ、いくらだ?」
「一応、今のところ五十万と上からはいわれています。その辺りは私の交渉次第でもっと増やせるかな、と考えていますが」
「今どき、よくそんな金が出るな。それも民間から」
「会社も必死なんです、それだけ」
 霜越の語気が、どこか強まった。
「例の不正輸入品が流れ込んでいるのは主に外国人の経営する店か、外国人客の集まる店です。だから、六本木の四丁目や七丁目といった辺りにはほとんど流通していない」
 この街にもある程度、棲み分けのようなものが形成されている。六本木通りを挟んでミッドタウン側に位置する四丁目や七丁目で商売を営るのは、そのほとんどが日本人経営者だ。
「一方、六本木通りを挟んで東京タワー寄り、主に六本木三丁目ですが、この辺りには外国人の経営する店が星の数ほどありますし、客としての外国人もやはりそちらへ集まる傾向にあります」
 霜越がコーヒーを啜ろうとカップに口をつけた。すぐに離す。空だった。
「その六本木三丁目のシェアを、礼の不正輸入品に取られてしまっている。この街に酒を卸すなら、外国人からの売り上げを無視できません。この状態が長く続けば、これはうちの会社に限ってですが、このエリアから撤退する、という話も出てきています」
「このエリア、とは?」
 訊いた。
「私が働いているこの六本木、そして西麻布といったところです」
「それは大きな損失だな」
 灰を落としつつ、俺は答えた。
「危険ではありますが、そうさせないために動いています。この際、税関でも何でも動かして、その供給をシャットアウトしてやろう、と」
 霜越のいう通り、それは危険な仕事だろう。外国人が不正に持ち込む不正輸入品。運んでいるのも、捌いているのも、いわゆる不良外国人と呼ばれる連中だ。何より、こういった仕事に霜越は向いていないのではないか、という気がした。クルーカットの黒髪に、安物のスーツ。ただの営業マンだ。夜の街で動き回る人種ではない。
「俺はただのキャッチだよ。あんたの力にはなれそうにない」
 俺はいい、コーヒーを含んだ。
「真山さん、ダメですか」
 霜越が懇願するような眼をこちらへ向ける。
「三丁目の交差点はわかるか」
「三丁目、ですか」
「六本木交差点から東京タワーに向かって外苑東通りをまっすぐ歩くと、また交差点があるだろう?」
「はい。ロアビルの前を過ぎて、ドン・キホーテも過ぎて」
「そう。そのすぐ先だ」
 コーヒーを干した。カップを皿に置く。
「スティーブっていう黒人のキャッチがいる。奴が何か知っているかもな」
「スティーブさん、ですか」
 霜越が手帳を取り出し、ペンを走らせた。
 俺は名刺を取り出し、テーブルに置いた。名と、携帯の番号しか記されていない簡素な名刺だ。
「奴も俺のことは知っているから、そいつを持って話を聞くといい」
「どんな方ですか。その、風貌というか」
 俺は虚空に眼をやり、答えた。
「そうだな。太っている。小さな相撲取りみたいな黒人だ」
 腰を上げ、席を立った。
「藪蛇にならんようにな。あんたのやろうとしている仕事は、やはり危険だよ」
「ありがとうございます!」
 俺の名刺を両手の先で持ち、霜越が眼を輝かせつつ礼をいった。
 金を払い、店を出た。ビルを出て少し歩くと、そこは六本木通りだ。陽が落ちかけ、風景が緋色に染まっている。
 
(三)
 
 本降り、というほどでもなかったが、夜中からぽつりぽつりと降り始めた雨が、夜の明ける直前になってもまだ、だらだらと振り続いていた。
 看板になった店からバックを受け取り、傘を広げ、江と路地を歩く。狭い路地に怒号が響き、何だろうね、と江がいった。
 路地に傘をさした人だかりが形成されつつあり、それが俺と江の行く手を阻んだ。掻き分けて進むと、黒人が四人の警官にうつぶせで抑えられ、何か大声で叫んでいた。酒に酔って暴れでもしたのか、周囲にも何人かの警官が立ち、人ごみを整理している。
 路地は六本木でも有名な、わりと大きなクラブの入り口に面していた。後方に車の気配がある。振り向くと、赤色灯を点滅させたパトカーが狭い路地をそろそろと進んでいた。
「はい、すみません下がってください、道あけて下さい」
 雨合羽を着込んだ警官が声を挙げる。中田だった。
 クラブの入り口の隅では、暴れた黒人に殴られたらしいセキュリティの男が口許をハンカチで押さえ、それが血と雨で濡れていた。
「どうしたの、中田さん」
 江が訊いた。
「通報が入ったんですよ。外人が暴れてるって。今、入管に身元を照会してるところです」
 興味のない話だった。この街では週に何度もこういったことが起こるのだ。
 俺は江を促し、人ごみを掻き分け、路地を歩いた。
 六本木通りに出る。雨に濡れた煉瓦敷きの路面が、まだ点灯している街灯の光を曖昧に反射していた。交差点を渡り、終夜営業の牛丼屋の前で傘を畳んだ。
「二名様で?」
 店に入ると、若いスタッフが訊いた。俺が頷くと、「お好きな席へどうぞ」と無表情にいう。午前四時。客は他に誰もいなかった。
 江は牛丼を、俺は豆板醤の効いた辛いカレーを註文した。
「今日けっこうがんばったんじゃない?真山くん」
 いくらかカタコトのイントネーションで江がいう。
 金曜の夜が明けた、土曜の早朝だった。
 金曜日はかき入れ時だ。俺たちキャッチもそうだが、街に展開する店の多くもそうだろう。六本木の街全体に、多種多様な人種が行き交う。
 牛丼とカレーが運ばれてきた。ごゆっくりどうぞ、といい残し、スタッフが引っ込む。
「あれからどうしたの、あのお兄さん」
 牛丼を頬張りながら江が訊く。例の酒屋だ。
「コーヒーを飲んだ。翌日に」
 カレーは辛く、そして熱かった。
「お人よしだよね、真山くん。でも、だから真山くんを紹介したんだけどね」
 含み笑いを漏らしつつ、江がいった。
「どんな話だったの」
「あれは酒屋の営業らしい。この街に酒を卸している会社の営業マンだ。最近別のルートで流れてくる酒の類にシェアを奪われてて、どうにかならないか、って話だった」
「ふうん」
「俺に動いて欲しいみたいだったがね、断ったよ」
 江が水差しを摑み、俺のコップに注いだ。
「代わりにスティーブを紹介した」
「あの黒人の?」
「そうだ。あいつは外国人にも顔が利くからな。何か知っているかもしれん」
「なんだかちょっと危ない気がするね、真山くん」
「俺もそう思う。あまり無茶はするなといっておいた」
 夜は明けていたが、店の外はあまり明るくない。空を雨雲が覆っているのだろう。
 自動ドアが開き、一組の客が入ってきた。若い男女だ。
 男の方がこちらに眼をやり、目礼したように見えた。知った顔ではない。江に見覚えでもあるのか。
「お持ち帰りですか?」
 スタッフが訊くと二人は頷き、何か註文を始めた。
「彼ら、最近この街に来たみたいだよ」
 牛丼をつつく手を止め、江がいった。
「先週かな。なんだか二人でキョロキョロしながら歩いてるから、声をかけたの」
 江が上体を捻り、レジカウンターのふたりにいった。
「ヘイ、お二人さん!こっちで一緒に食べようよ!」
 若い男が笑みを返し、スタッフに告げた。
「あの、やっぱりここで食べます」
 スタッフが厨房に引っ込み、飯の支度をする音が聞こえる。二人は俺たちの方へと歩み寄り、隣のテーブルに着いた。
「こちら、真山くん。キャッチ仲間」
 江が俺を紹介した。二人が浅く頭を下げ、男の方が口を開く。
「康佑です」
 それに倣い、女の方も名乗った。
「カナです」
「康佑くんは自衛隊上がりだよ。カナちゃんはその彼女」
 江の紹介に、康佑は苦笑していた。
「上がりというか、崩れというか」
 顔の彫りが深く、混血のそれほどでもないが、肌も浅黒い。康佑は若かった。カナも同じ歳の頃だろう。
「出身は」
 訊くと、二人とも沖縄です、という答えが返ってきた。
「二人とも二十一だって。いいよね、若いって」
 江が二人に眼をやりつつ、自嘲気味にいった。江は俺と歳が同じだ。隣のテーブルに座る二人と俺たちは、一回り以上も歳が離れていることになる。
 二人とも、どこかの店の制服を着ていた。俺や江と同じく、仕事上がりなのか。
「どこで働いている」
「『グリーン』です。三丁目の。その前は川崎で働いてました」
 最近オープンしたクラブの名だった。日本人、外国人、混血、あらゆる人種が騒ぎに来るが、客層は皆若い。確か、さっき黒人が暴れていたクラブとオーナーが同じだった。
「川崎にもクラブがあるのか」
「いや、その」
 川崎というと、多摩川を超えた先だ。ずいぶん距離がある。
「工場だったんです。スープ工場」
「スープ?」
「はい。粉末のスープです。カップ麺とかの・・・」
 康佑とカナのテーブルに、二人の註文した品が運ばれてきた。
「それがどうして六本木に」
「そういえば訊いてなかったね」
 牛丼を食いながら、江が口を挟んだ。
「除隊して、二人でこっちに出てきました。派遣会社が住む所も用意してくれる、っていうんで・・・」
「あれ?彼女も自衛隊にいたの?」
 驚いたように江が訊く。カナは慌てて両掌を顔の前で振り、否定した。
「いえ、わたしは違うんです。基地にいたのは康佑だけで」
 江が笑い、いった。
「なんだ、びっくりしたよ。G・Iジェーンみたいな女性隊員だったのかと思ってさ」
 康佑も、カナも笑った。康佑が続ける。
「半年くらい工場で働いていたんですけど、生産縮小とかで二人とも契約を更新できなくなっちゃって」
 いだたきます、と小さく呟き、カナが牛丼をつつき始める。
「その気があるなら新たな派遣先を紹介する、って会社はいうんですけど、それが静岡の、あれは何だっけ?」
「ジュースだよ、紙パックの」
 カナは牛丼と箸をテーブルに置き、食事に邪魔になるのか、肩まであるライトブラウンの髪を後ろで束ねながら答えた。
「そう、ジュースを造る工場を紹介するっていうんです。でも静岡じゃあ・・・」
 康佑が水を飲み、続けた。
「せっかく都会に出てきたのに、なんだかな、って二人で話してて」
 いい終え、康佑は牛丼に手をつけ始めた。
「よく来られたね、職を見つけて川崎から六本木まで」
 牛丼をあらかた食い終えた江がいう。
「求人誌に載ってました。新規オープン、オープニングスタッフ募集、って」
「住む所はどうしたんだ」
 俺もカレーを食い終え、訊いた。
「『住居応相談』って求人欄にあったんです」
 煙草を咥えたが、火を着けずに箱へと収めた。店内は禁煙だ。
「オーナーは他にも店を持ってて、マンションも何部屋か持ってるみたいで、芝にあるその部屋をひとつ貸してくれたんです」
「それは上手く事が運んだな」
「ラッキーでしたよ。給料も、この先しばらくは日払いでくれるようですし」
 江が脚を組み、ふたりに訊いた。
「でも大変でしょ。慣れない仕事で」
 以前は江も、クラブで黒服をしていたのだった。
「まだ二週間ですけど、週末はやっぱり忙しいですね。洗い物をしているときに焦ってグラスを一つ割っちゃいましたよ。でも今日は早番だったんで、二人とも早く上がれました」
 いい終えると、康佑は再び牛丼を食い始めた。一晩中働き、腹が減っているようだ。
「自衛隊を辞めたのはなぜだ」
 退屈しのぎに、俺は訊いた。早いペースで牛丼を掻き込んでいた康佑が手を止め、苦笑する。子供のような表情になった。
「腰を壊しちゃったんです」
「腰?」
 江がオウム返しに訊く。康佑と並んで座るカナも苦笑し、いった。
「なんだかお爺ちゃんみたいですよね」
「笑っていいの?それ」
 江までもが苦笑していた。康佑が答える。
「陸自の訓練って、とても過酷なんです。高校を出て入隊して、三年目かな。レンジャーの訓練生に応募して。受かったはいいんですけど、その訓練中に」
「二十歳そこそこの奴が身体を壊すなんて、そりゃ相当に過酷なんだな」
 窓の外に眼をやり、俺はいった。
「しばらく静養して。基地内の病院にも通っていたんですけど、結局治らなくて」
「江」
 立ち上がりつつ俺が呼ぶと、江がこちらを見上げた。
「お、やる?真山くん」
 江が立ち上がり、俺と対峙した。
 何をやるかといえば、ただのジャンケンだ。負けた方が飯代を奢る。二度あいこが続いたが、結局俺が勝った。
「お二人さん、ここは江の奢りだ。お代わりも自由。ステーキハウスか何かならもっとよかったんだが」
 俺はいい、店の出口へと歩き始めた。
「いえ、大丈夫です。自分たちで払いますから」
 康佑の声が背中に聞こえる。
「いいよ、いいよ。今日は奢りだよ。それより、名刺あげないの?真山くん」
 俺は名刺を二枚取り出し、テーブルの上へ滑らせた。
「何かあれば連絡しろ」
 入り口へと向かった。自動ドアが開く。ありがとうございました、とスタッフの無機物的な声が聞こえた。

 八畳間のフローリングに、ベッドが一つ。元はシングルだったが、真紀との関係が始まってから、セミダブルに買い換えた。着替えや本は収納に押し込んである。
 マンションは六本木と赤坂を隔てる狭い路地にあった。四階建ての八世帯入りだ。エレベーターはない。
ユニットバスでシャワーを浴び、部屋着に着替えると、冷蔵庫から氷を取り出し、ロックグラスに放り込んだ。棚から一リッター入りのワイルドターキーを引っ張り出し、グラスに注ぐ。氷に罅の入る音が小さく鳴り、俺はそれを一口含んだ。
グラスを片手に、窓へと寄った。黒い遮光カーテンを開ける。外はさほど明るくない。雨が降り続いている。
グラスのターキーが空になり、部屋の呼び鈴が鳴った。玄関まで歩き、鍵を内側から開けてやる。
「お疲れ」
ドアを開けた真紀が溜息混じりにいい、顔を出した。
「飯は食ったのか」
「うん。お店でパスタ作って食べてきた」
真紀は池尻大橋にある実家のマンションから、任されている店のある六本木まで自転車で通っている。営業を終えた店を片付けると、週に何度か、こうして俺の部屋に泊まっていった。
「お風呂は?」
薄手のジャケットを脱ぎながら、真紀が訊く。
「入った。晩酌してるとこだ」
二杯目のターキーをグラスに注ぐ。氷が溶け、小さくなっていた。
「カーテン閉めて。シャワー浴びるから」
ブラウスに手を掛け、真紀がいった。
「誰も覗いちゃいない」
俺は苦笑しつつ窓に寄り、遮光カーテンを閉めた。真紀が服を脱ぎ、バッグから着替えを取り出し、ユニットバスに消える。
シャワーの音を聞きながらターキーを飲り、三杯目のそれが空になると、ユニットバスの扉が開いた。真紀がタオルで髪を拭きながら、下着姿で出てくる。少しだけ、酔いが周っていた。真紀は収納からストライプ柄のパジャマを引っ張り出し、それを着た。テーブルに鏡を立て、ドライヤーで髪を乾かしている。
ドライヤーのスイッチを切り、真紀がテーブルの鏡を伏せた。リモコンを握り、テレビの電源を入れる。画面は日本列島の天気図を移し、アナウンサーか気象予報士かが、声だけでそれを解説していた。
真紀の背に歩み寄り、後頭部の髪に鼻を埋めた。シャンプーの香りがする。
「いい匂いだ」
俺は呟き、耳の後ろから首筋にかけて、唇を這わせた。
パジャマの前のボタンを二つ、三つと外し、掌を差し込む。
「ちょっと」
真紀が苦笑しながら頭を横に振り、側頭部が俺の鼻にぶつかった。ワサビが効いたような刺激が走り、両の目頭から涙が湧いて来た。
「そういうモードじゃないの、今日は」
悪戯な眼つきでいい、真紀は笑った。

(四)
 
 スラックスのポケットで携帯が鳴った。二人連れの客が話に乗りかけている。電話には出ず、鳴らせたまま放っておいた。二人を連れ、六本木通りの歩道を溜池山王方面へと歩く。一階に肉屋の入ったビルの四階に、店があった。午後十時。肉屋はとうに店を閉めているが、上の階層に入ったテナントは皆、店を開けている。その全てがキャバクラだ。
「電話、大丈夫ですか」
二人のうちの片方がいった。携帯は鳴り続けている。
「大丈夫ですよ。後で折り返しますから」
二人は地方から出張してきたサラリーマンだった。六本木で遊ぶのは稀であるらしい。
「お店をお探しでしたら、いつでもどうぞ。大体この辺りにいますから」
二人に名刺を渡し、エレベーターのボタンを押した。扉が開き、二人を先に乗せる。最後に俺が乗り込むと扉が閉まり、箱が上昇し始めた。繁盛しているのか、二階、三階と箱が素通りする度、扉越しに嬌声が聞こえる。
解凍を終えた電子レンジのような音が鳴り、箱の上昇が止まった。扉が開き、いらっしゃいませ、という威勢のいいかけ声でボーイが迎える。二人を先に店内へと入れ、俺は二本の指をボーイに立てて見せた。
「ご新規二名様ご来店です」
騒がしい店内に向け、ボーイが声を張り挙げた。二人がいざなわれるのを見届け、俺は再びエレベーターに乗る。スラックスの携帯が鳴り続けていた。
右手を突っ込み、ポケットから携帯を引っ張り出す。液晶を見ると、電話を鳴らし続けていたのは江だった。
「やっと繋がったね、真山くん」
少しイントネーションの狂った、いつものカタコトが送話口から聞こえた。
「どうしたんだ。また妙な客でもつかまえて俺に引き渡そうってか」
「まあ近いかもね。真山くん。真山くんを捜してる人が居るよ」
一階に着いた。扉が開く。ビルのエントランスを歩き、歩道に出た。
「そう、真山くんを。知らないか、って。とりあえず『知らない』って答えておいたけど。ついさっきだよ」
以前、店に案内した客の誰かだろうか。それとも。
「見覚えはあるか」
「ないなあ。サラリーマンって感じだったよ。警官には見えなかった」
「江、今どこに居る?」
「交差点。時計屋さんの前だよ」
六本木交差点の方に視線を走らせた。街を歩く人の数は多い。それらに邪魔をされ、江の姿は視認できなかった。
「真山くん。名刺残していったよ、その人。西原・・・なんて読むんだろうね、この下の名前?」
記憶を巡らせたが、聞き覚えはない。そして、なぜ俺を捜しているのか。
「会社の名前が書いてあるね」
江がいい、社名を読み上げた。
憶えがあった。霜越。あの酒屋の営業が籍を置く会社だ。
電話を切り、六本木交差点へと歩道を歩いた。ビルを二つ通りすぎ、一階にコンビニの入ったビルの先が、時計屋の入ったビルだ。
装飾の施された時計の類をさらに輝かせるためか、やたらと光度の高い店内の照明が漏れ、それが店の前の歩道を照らしていた。江が立っている。
「危ない感じはしなかったけど、なんか深刻そうだったよ」
 名詞を差し出し、江がいった。例の社名の後に、係長という肩書きが付いている。西原啓友。
「その後どこへ向かった、この男は」
「今、眼で追ってるとこだよ。交差点の向こうにいる」
名刺から眼を離し、江の視線を追った。横断歩道の先に、公共の灰皿が設置された喫煙地帯がある。
「茶色いスーツ。少し背が高い。足元に鞄置いてる」
江が男の特徴を口にした。
江に礼をいうと、俺は時計屋の前に江を残し、赤信号の横断歩道で足を停めた。終電まで、まだ二時間かそこらはある。平日だった。今が人出のピークだろう。車道は相変わらず、客待ちのタクシーで埋め尽くされている。
歩行者用の信号が青に変わり、横断歩道を渡った。六本木通りを横断したそのすぐ先が、喫煙地帯となっている。
西原というらしい男が、喫い終えた煙草を設置された灰皿に捨て、煉瓦敷きの地面に置いた鞄を持ち上げた。
「西原さんか」
茶色いスーツの後ろ姿に声をかけた。西原は少し驚いたようにこちらを振り向き、俺の頭から足の爪先まで、眼で観察した。
「真山さんですか」
「そうだ」
西原がスーツの内ポケットを探った。
「名刺なら貰ったよ。あんたがさっき俺のことを訊いた台湾人のキャッチから」
「あ、ああ、そうですか」
慌てたように手を引っ込め、西原はそういった。
「俺に何か用なのか?」
江の目測通り、西原はいくらか長身だった。百八十に近いだろう。近づくと肩幅も広く、学生の頃はアメフトでもやっていたのか、というような骨格をしていた。
「実は・・・」
右手に持っていた鞄を再び地面に下ろし、西原はいった。
「霜越が消えました」
「消えた?」
「はい。今週に入ってから、出社もせず、自宅にも帰っていません」
暗い眼で、西原は語った。どこか、関西の訛りがある。俺は江から受け取った西原の名刺を取り出し、それに眼を落とした。名の前に、係長、とある。霜越は確か、主任だった。とすると、この男は霜越の上司、ということになる。
「警察には?」
俺は煙を吐きつつ、訊いた。
「今日届けました。届けはしましたが・・・。届けを受理するだけで、どうも動いてはくれないようで・・・」
「あんたは何故俺を知った?」
伏せていた眼を俺に向け、西原がいった。
「日報に真山さんの名がありました。『協力を得られるかもしれない』といった具合に。私どもは皆、その日の仕事を終えると日報を書いて上司に送るんです」
「霜越が何を追っていたのか、警察には話したのか」
「いえ、それに関しては何も」
 不正輸入品に関しては、まず間違いなく不良外国人が絡んでいる。それが警察沙汰にでもなれば、酒を持ち込んでいる連中の商売はその存続の危機に迫られる。霜越に証拠を摑まれるか、あるいは警察にそれを突き出される前に、その身柄を押さえたのか。
「不正輸入品の話をしていないなら、消されることはないだろう」
 俺がいうと、西原は「はあ」と声を漏らした。
「ただ拉致されているだけだ。消されるほどじゃない。少し灸を据えられているだけだろうさ」
「どうすれば・・・」
 暗い眼をしたまま、西原が訊いた。
「待つしかないな」
 灰が伸びていた。それを落とし、続けた。
「少し当てがある。当たってみよう。西原さん、連絡先を訊いておこうか」
「名刺に番号が印刷してあります。携帯の・・・」
さらに灰を落とし、俺はいった。
「忠告はしたんだがね。あまり深く足を突っ込み過ぎると危険だ、と」
「すみません、迷惑をかけます」
 西原は眼を落とし、詫びた。
「これ以上動いたってどうにもならんぜ。あんたはもう帰ったほうがいい。明日も仕事だろう?」
 すぐそばに、地下鉄六本木駅へと下る階段がある。それを視線で示し、俺はいった。
「そうですね。何かわかったら連絡をください」
 西原が地面に下ろしていた鞄を拾い、いった。
「そうするよ」
 西原が頭を下げ、そして歩き出した。地下鉄へと消えてゆく。
 
その日に客を入れた全ての店からバックを受け取ると、午前三時半を回っていた。夜明けが近い。漆黒だった夜空が、微かに青みがかっている。
 外苑東通りを歩いた。通りの先に東京タワーが遠く見える。
 ドン・キホーテの手前に差しかかった辺りから、酔い潰れている外国人の姿が目立ち始めた。ある者は道端でうずくまり、仲間に介抱され、ある者は反吐を吐いたまま横たわっている。
 ドン・キホーテを過ぎ、とうに店を閉めた老舗の蕎麦屋を過ぎると、そこは六本木三丁目の交差点だ。スティーブの姿がなかった。奴はいつも、一杯八百円のコロナが五百円になるチケットを手に、この辺りで客を引いている。
 談笑している数人の若い混血児達に声をかけた。皆、どこかで買った缶入りのビールを手にしている。
「スティーブを知らないか」
 何人かが肩を竦めた。知らないか、あるいは興味がないかだ。
 色の白い混血が、口を開いた。
「シンシアにいったよ。客連れて」
 かなり飲んでいるのだろう、白い肌は赤らみ、眼が充血していた。育ちは日本なのか、言葉は流暢だ。
 外苑東通りに面したビルの八階に入った、外国人系のクラブだった。箱の規模は割と大きい。この街にはいくつもそういった店があるが、店の中での薬物売買は茶飯事。何度か警察の手入れがあった。シンシアも、そういった店の一つだ。
 酔っ払った混血児達に背を向け、外苑東通りを六本木交差点方面へと引き返した。シンシアの入ったビルは、六本木交差点からほど近い位置にある。
 ビルの一階には、大手フランチャイズ系のスパゲティ屋が入っている。終夜営業で、店内には何人かの客がいた。エレベーターホールに、スーツ姿の黒人がいる。警察の手入れ対策に、店が配置したしきてんだ。
「ナンカイ?」
 黒人が訊く。八階、と答えた。
「誰?アナタ?」
「キャッチ。ガイドだよ。六本木の」
 黒人が頷き、エレベーターのボタンを押した。閉じた扉の横に、いくつもの鍵穴の開いた操作盤がある。黒人はキーを取り出し、八階の鍵穴にそれを挿した。キーを捻り、縦に開いた鍵穴をONの方へと向ける。黒人がキーを抜くと、エレベーターの扉が開いた。
 礼をいい、八階のボタンを押す。操作盤の鍵をONにしなければ、その階のボタンが点灯しない仕組みだ。
 ボタンが点灯し、扉が閉じる。箱が上昇を始めた。一階はスパゲティ屋だが、その上のフロアは全て、外国人系のクラブが入っている。レゲエ、トランス、ヒップホップ。階を素通りする度、それらがくぐもって聴こえた。
 扉が開いた。八階。シンシアの入ったフロアだ。エントランスに、混血の女が一人。その向こうには両開きの大きな扉があり、ダンスフロアはその先だ。
「ハアイ」
 混血の若い女がいった。顔の造りからすると、中米系だろうか。
「三千円でチケット。ワンドリンク付き」
 手の甲にでも押すものなのか、スタンプを片手に、女がいった。
「スティーブはいるか。外人専門のキャッチの」
「さあ?わかんない」
扉へと近づく。
「だめよ。チケット買ってもらわないと入れないの」
 女が早口でいいながら、俺のワイシャツを摑んだ。
 財布を取り出し、紙幣を渡した。女が俺の左手を取り、甲にスタンプを押す。青いインクで、水パイプのような模様が描かれていた。
 扉を押した。思わず耳を塞ぎそうになる。フロアは暗く、信じ難いほどの大音量でトランスミュージックが鳴っていた。
 さほどの入りではないようだ。あちらこちらで酔っ払った外国人が踊り狂っている。ちかちかとブラックライトが光り、それに反応するインクなのか、手の甲の水パイプが妖しく光った。
 眼でスティーブを捜した。暗いフロアに、黒い肌をした客。皆が同じに見える。フロアの奥、コの字型にソファの設置された辺りに、それらしき人影が見えた。そちらへ歩み寄る。馬鹿でかいウーファーが天井にぶら下がり、重低音が床までを震わせていた。
「スティーブ!」
 後ろから肩を摑み、声を張り挙げた。短く刈った縮れ毛が眼の前にある。奴が振り向いた。辺りは暗く、スティーブの髪も肌も黒い。両の白眼だけが不気味に浮かび上がった。
「ナニ?聞コエナイ」
 そういったのか。聞こえないのはこちらも同じだ。とにかく酷い音量で音楽が鳴っている。耳元に口を寄せ、また声を張り挙げた。
「スティーブ!話がある!ここじゃうるさくて話にならん」
 俺は怒鳴り、スティーブの肩を摑んだまま、フロアの隅にある小さなドアまで引っ張っていった。ドアの向こうは非常階段だろう。左手でスティーブの肩を摑み、空いた右手でそのノブを捻った。ドアが開き、風が吹き込んだ。スティーブを連れ、非常階段に出る。ドアを閉めると、音圧はいくらか治まった。
「ナニ?乱暴ナコトシナイデヨ、真山サン」
 いくらか息を切らしつつ、スティーブがいった。
 非常階段は、外苑東通りからビルを挟んだ裏手の路地に面していた。ビル風が吹いている。何階か下で、荒い息遣いが聞こえた。鉄の柵から身を乗り出し、下の階段を覗くと、一組の男女が立ったまま交わり、男が一定の動きを激しく繰り返していた。
 スティーブに視線を戻した。迷惑そうな表情で、奴は俺を見つめている。
「スーツを着た日本人が消えた。あんたのところにも来たはずだ。俺の名刺を持って」
 非常階段には、ナイロンのゴミ袋に包まれた空瓶が放置されていた。非常階段に物を置くことは、消防法で禁止されている。有事の際、避難の妨げになるからだ。消防署の手入れでもあれば、指導を受けるだろう。
 ゴミ袋の口から、空瓶が溢れていた。その一つを手に取り、眺めた。バックラベルには、輸入業社の名など記されていない。本国で流通しているそのままの状態で、ただアルファベットや数字が印刷されているだけだ。例の不正輸入品というのがこれなのか。
「こいつを追ってた。その日本人は」
 スティーブは俺から眼を逸らし、とぼけた。
「知ラナイネ」
 空瓶を袋に戻す。ガラスとガラスが触れ合う、耳障りな音が小さく鳴った。
「深くは訊かんよ。生きているかどうかだけが知りたい。知りたがっている人間がいるんだ。生きてりゃ、そのうちひょっこり現れるだろうからな」
 溜息をつき、スティーブが答えた。
「生キテルヨ」
 吹き付けるビル風の音に、階下での息遣いが混ざる。衣擦れの音が混ざり、それが激しさを増した。
「そうか」
 俺はいい、煙草を咥えた。
「邪魔したな。あんたの口からそれを聞きたかった」
 煙草に火を着け、階段を降り始めた。スチールで出来た階段に、足音が響く。二階下で、外国人らしき男女が交わっていた。女の尻を抱えたまま、男が俺を横目で見詰めている。動きが止まっていた。
「邪魔はせんよ。続けろ」
 俺はそういい、階段を降り続けた。地上階に近づく頃、荒い息遣いと衣擦れの音が、再び聞こえ始めた。

#3につづく

 

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