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小説「哀しみのメトロポリス」#3

#創作大賞2024 #ミステリー小説部門 #六本木

(五)
 
 金縁の眼鏡をかけた白いスーツの大男が数人の取り巻きに囲まれ、六本木通りの路肩に停まるベントレーへと、その巨体を左右に大きく揺らしつつ歩み寄った。この辺りを治める暴力団、関東恭撰会会長の川藤という男だ。五十代。六本木をシマとするキャッチは皆、店の専属のそれでもない限り、この男の許へ月にいくらかの金、『地代』と呼ばれるそれを納めている。
 キャバクラ帰りらしく、川藤は上機嫌に見える。六本木通りに面したビルのエレベーターホールでは、数人のキャバ嬢がそれを見送っていた。常連、というほどでもないようだが、川藤はこの店に飲みにくることがあるらしい。入店すると、それまで嬌声に満ちていたフロアが一瞬にして静まり返る、という話を、いつか聞いたことがある。
 路肩にまで見送りに出てきた数人の黒服が、深々と頭を下げた。後部座席のドアが開かれ、川藤がその巨体を屈めつつ、車内に納まる。
「ありがとうございました!」
 黒服の一人が叫び、周囲の黒服共々、もう一度深く頭を下げた。外側からドアが閉じられ、ドアを閉じたその部下であるらしいやくざも、ベントレーの助手席に納まる。低いエンジン音が轟いていた。
 
(六)
 
背後で突然、ガスメーターの納められたアルミの戸が力づくで開かれる音が鳴った。潜んでいた何者かに振り返る間もなく後ろから髪を鷲摑みにされ、部屋のドアに顔面を打ち付けられる。痛みが鼻の奥で弾け、そして両の穴から血が流れ出た。
「騒ぐなよ、おい」
 若い男の声が、そう耳元で脅した。
 身体の前面が、部屋のドアに貼り付けられている。左手は部屋のキーの入ったスラックスのポケットに押し込んだままだった。午前三時を周っている。一応は忍ばせているらしい何人かの足音が、階下から迫ってきた。少なくとも二人。俺をドアに押し付けている男を含めると、三人はいることになる。
 左右の手がそれぞれ摑まれ、腰の後ろで縛られた。何か細い紐のような物が、手首の皮に喰い込む。同時に、ビニール袋のような物が頭に被せられた。
 首を激しく振り、抵抗する。呼吸が出来ない。口に、鼻に、引き絞られたビニールが貼り付く。パニックを起こしそうだ。
「何を嗅ぎまわってんだ」
 騒ぐなと脅した声とは別の声がいった。これもまた、若い男のそれだ。
「キャッチだろ、あんた。余計なことすんなよ。大人しく客引きやってりゃいいだろ」
 ビニールを突き破り、指が口に入ってきた。反射的に噛み付く。若い声が、子供のような悲鳴を挙げた。
 息を吸った。突き破られたビニールの口から、空気が吸える。唇の端から、噛み千切った肉片か何かが零れ落ちた。
「てめえっ」
 背中に衝撃があった。突きか蹴りか、肝臓の辺りだ。鈍痛。それがすぐに全身へ伝わり、膝が折れ、蹲った。
「こいつっ」
 潜めた声で、若い男が罵った。
 さらに息を吸った。そして、ビニールに視界を覆われたまま、俺は口を開いた。
「人捜しだよ」
 反応がない。何人かの荒い息遣いだけが聞こえる。呼吸が出来るようになり、俺はいくらかの冷静さを取り戻していた。
「少し前に、酒屋の営業が消えた。この街で密輸入品の酒を捌いてるのはお前らか」
 肝臓から広がった痛みが、徐々に退いていた。肝臓に疾患を抱えているわけではない。肝臓は、人体にいくつかある急所の一つだ。そこを打たれると、人はしばらく身動きが取れない。レバーブローというやつだ。
「お前らの商売を邪魔する気はない」
 俺は立ち上がりつつ、いった。視界が閉ざされ、どこを向いているのかわからない。
「消えた営業マンは生きてるそうだ。それさえわかれば、俺はお前たちにもう用はない」
 カラスの鳴く声が、遠く聞こえた。夜明けが近い。
「もう一度いうが、俺はお前たちの商売を邪魔しようなんて気はない」
 沈黙。連中の内ひとりの靴の裏がコンクリートの床と擦れる音が、微かに鳴った。
「スティーブか。奴に聞いたんだな。一枚噛んでるってことか。興味はないが」
 いい終わらぬうちに、足払いをかけられた。左の肩から床に落ちる。
 何本かの手が、俺の首と両肩を床に押さえ付けた。そして別の二本の手が、ベルトを外しにかかる。姦すつもりなのか。
「おいおい、冗談じゃねえぞ!」
 叫びつつ、ベルトに手を付けている男を両足で交互に蹴飛ばした。二発、三発。部位は判らないが、靴の裏や爪先が、身体に当たる感触がある。
 途端、股間に激痛が走った。踏みつけられたらしい。口から呻きが漏れた。
「いっただろ、騒ぐな、って」
 息を切らせつつ、若い男がいう。息を切らせているのは激しい動作からなのか、それとも性的に興奮しているからなのか。
 脈動と共に、睾丸が激しく痛んだ。戦意が失せる。今度こそ本当に『急所』だ。
 ベルトのバックルが解かれ、スラックスを無理矢理に脱がされた。そしてトランクス。下半身は丸裸だ。
 首と両肩を床に押さえつけていた何本かの手が離れ、連中の立ちあがる気配があった。
「フリチンで追いかけてくる度胸があるか?」
 連中の一人がいい、他に含み笑う声も漏れ聞こえた。
 何人かの足音が、階下へと遠ざかってゆく。下半身丸出しのまま、俺は踊り場に取り残されていた。
 身体の側面を床に着け、後ろで縛られた両手の間に足を潜らせようと試みたが、尻が入らない。力づくで尻を押し込み、両足を潜らせる。縛られた両手が前にあった。立ち上がり、頭に被せられたビニール袋を取り払う。ようやく視界が戻った。
 コンクリートの床に、スラックスとトランクスが放り出されていた。ガスメーターの納められたアルミの戸も開け放たれている。階段の手摺へと駆け寄り、階下に視線を落とすと、連中が車に乗り込む所だった。エスティマか何か、ミニバンのルーフが見える。スライドドアの後部座席に一人が乗り込み、続いて二人目が、俺に指を噛み千切られた男だろう、手で手を庇いながら乗り込んだ。
 俺がマンションに帰り着いた時、車の姿はなかった。連中が事に及んでいる間、路地の端に車を寄せて待機していたらしい。俺を襲った連中の他にも仲間がいる、ということだ。
 三人目がスライドドアに手をかけ、こちらを仰いだ。視線が合う。若い白人、いや、混血児か。奴がこちらに人差し指の先を向け、歪んだ笑みを見せた。街灯で微かに浮かび上がるその顔の造形を、俺は記憶に刻んだ。
 三人目が車内に収まり、スライドドアが乱暴に閉じられた。ウィンカーも点けずに、車が走り出す。路地を進み、角を折れ、消える。
 コンクリートの床に、血痕が残っていた。俺の鼻から出た血と、指を噛み千切られた男のそれだ。血痕は、点々と階下へ続いている。
 スラックスとトランクスの他に、ビニール袋、そして爪の欠片の付いた小さな赤い肉片が転がっていた。スラックスを拾い上げ、縛られたままの両手でポケットを探る。両手を縛っていたのは、白い結束バンドだった。皮膚にきつく喰い込み、痣の筋を作っている。
 ポケットから部屋のキーを取り出し、シリンダーに挿し込んだ。ドアを開き、踊場に転がっている物を全て掻き集め、玄関に放り込む。ドアを閉じ、トランクスを履き、スラックスも履いた。結束バンドで縛られた両手が離れず、ベルトの両端に届かない。ベルトを締めるのは諦め、部屋にあがった。潰されてはいないようだったが、まだ睾丸に痛みが残っている。
 収納の扉を開き、鋏かカッターか、何か刃物を探した。両手はまだ、タイラップで縛られたままだ。
 
(七)
 
 土曜の夜が明けた日曜の早朝、六本木三丁目にある外国人達の吹き溜まりに、霜越が頭にビニール袋を被せられたまま、パンツ一丁で放り出された。携帯に江から連絡があり、六本木交差点付近にいた俺は、のんびりと現場へ向かった。
 土曜の明けた六本木三丁目、外苑東通り。そこは混沌としている。夜明けまで車道を埋め尽くしていたタクシーの群はきれいに姿を消し、道は空いているが、車道や歩道、そのあちこちで泥酔した外国人や混血児が転がり、蹲り、そしてその全てが盛大に反吐を吐いている。上空には店の外に出された生ゴミを狙う無数のカラスが舞い、降りたカラス達は皆しきりにゴミ袋を嘴でつつき、それらを道にぶちまけ、散乱させていた。
 散らかった生ゴミを避け、ぶちまけられた吐瀉物を飛び越え、寄りかかってきた酒臭い黒人を振り払い、歩道を歩く。後方から、サイレンを鳴らしたパトカーが二台、俺を追い越してゆく。男がパンツ一丁で放り出された通報を受け、現場に向かったのか。それとも、他に何か起きたのか。
 左手にドン・キホーテ、外苑東通りを挟んだ向かいにロアビルが見える。ドン・キホーテを通り過ぎ、シャッターを降ろした老舗の蕎麦屋を越えると、そこは三丁目の交差点だ。右に折れれば麻布十番へと至り、左手には外人達の吹き溜まりがある。正面には遠く、昇ってきたばかりの朝陽に照らされた東京タワーが聳えていた。
 やがてサイレンは焉んだが、駆け付けたパトカーの赤色灯が回転し、その赤い光が周囲をちらちらと照らしていた。一台は、トランクを開け放している。吹き溜まりの中央付近に、警官が用意した物だろう、オレンジ色の毛布に包まれて立つ霜越の姿があった。数人の警官に囲まれ、毛布の裾からは、何も履いていないのか、素足が覗いていた。
「よかったネ、生きて帰ってこられて」
 歩み寄ると、いつの間にか俺の傍らにいた江が警官の背中越しに、霜越に声をかけた。
「コオさん、真山さん」
 消えてから、二週間が経っている。毛布に包まれた身体は見えなかったが、こけた頬で、ずいぶん痩せていることが見て取れた。顔全体が何故か赤らみ、特に目蓋のそれが酷い。眼は充血し、それとは対照的に、眼の下の隈は病的に黒かった。
「関係者かい、あんたら」
 振り返った警官の一人がいい、他に数人いた警官も険しい眼でこちらを見た。
「いや、お巡りさん、この人たちは違うんです」
 焦った様子で霜越がいう。
「事情を聞かせてもらうよ」
 強い語気で、その中年の警官がいった。霜越のいうことなど、耳に入らないようだ。
「任意か、そりゃ」
 訊いた。警官が黙る。険しい眼と表情は変えぬまま、口を結んでいた。
「ならお断りだ。どうしてもっていうなら札(ふだ)札でも持って来いよ。面倒だろうがな。裁判所やら何やら、煩わしい手続きが要るんだろう」
 何かいいたげだったが、警官は黙ったままでいた。相変わらず険しい眼で、こちらを睨み付けている。
「あんたの上司には連絡しておく。西原さんといったかな。身柄の引き受けには来てくれるだろう」
 警官から眼を逸らし、その先に突っ立っている霜越に、俺はそういった。
「早く連れていけよ。車に乗せろ。これじゃ見世物だろう」
 いい残し、踵を返した。江も倣い、俺の後に続く。
 吹き溜まりを引き返し、交差点まで歩いた。
「江、奴が放り出されたところを見たのか」
 煙草に火を着け、訊いた。
「見たヨ。ドアが開いて蹴り出されてた。酷いネ。車停まってなかったヨ」
「ドアってのは、スライドするドアか」
「そう。なんで知ってるの、真山くん」
 先日、俺を襲った連中だろう。
「車種は」
「さあ、わからない。バンっていうの?長い、でも丸っこい車」
「色は」
「グレーだね。黒っぽいグレー」
 濃い灰色のミニバン。ほぼ間違いない。
「かわいそうだね。変なことに首突っ込んで。おしっこ漏らしてたよ、あの人」
 パトカーが二台、サイレンを鳴らしつつ吹き溜まりを抜け、三丁目の交差点を右折し、麻布署の方へと走り抜けた。二台目の後部座席に、霜越を包むオレンジ色の毛布が垣間見えた。
「帰るの、真山くん」
 一時間ほど前、真紀からLINEがあった。仕事を終えたら、シャンプーを買って帰れという内容だ。
「買い物がある。それを済ませてからだな」
 帰宅するという江と別れ、ドン・キホーテに寄った。歩道に面した一階のエントランス付近にも、そのあちこちに酔い潰れた若い外国人が転がり、服を反吐で汚している。それらを避けて店内に入り、エレベーターで四階まで昇った。
 身障者用のトイレから、悲鳴に近い女の喘ぎ声が聞こえていた。閉ざされたそのドアも、内側から激しく揺れている。所々に、男のものらしい喘ぎ声も混ざっていた。男のそれは次第に大きくなり、絶頂が近い、ということを英語でいっている。黄色い制服を着た店員の一人がドアに駆け寄り、インカムで応援を呼んでいた。
 歩道を酔い潰れた外国人や混血児が埋め尽くしている。その路肩に、いくらか型の遅れたミッドナイトブルーのセルシオが車体を寄せ、停まった。助手席と後部座席のドアが開き、それぞれから一人ずつ、二十歳そこそこだろう、ちんぴらに毛の生えた若いやくざが降り立ち、散った。
 閉じられた後部座席のドアから、聞き覚えのある声が俺を呼んだ。スモークの貼られたパワーウィンドウが降り、知った顔がこちらを見ている。
「歩きか」
 この辺りを治める指定暴力団、恭撰会の若手、阿南というやくざだ。歳は俺の二つ下、三十四。やくざの世界にも人事異動というのがあるのか、俺とは同時期にこの街へとやってきた。
「いつも歩きさ」
 タクシーの群がきれいに姿を消した外苑東通りを見渡し、俺は答えた。
 ステアリングを握る舎弟に阿南が何かいい、さらに内側から後部座席を開く。背を丸め、俺はそこへ収まった。
 丸刈りの頭に、ごく薄く色の入った淵なしの眼鏡。スーツはサラリーマンの着ているようなデザインで、阿南は一見、その筋の者には見えない。やくざに見えないのは、その若い舎弟達も同様だった。スーツなどは着ていないが、デニム地のハーフパンツにスニーカー、ブランド物のTシャツといった、いわゆる若者、という格好をしている。今時のやくざは、外見では見分けがつかない。
 セルシオが走り出した。三丁目の交差点を過ぎ、次のT字路で、運転席の舎弟は左にステアリングを切った。
「坊や達はいいのか」
 煙草を咥えつつ、俺は訊いた。
「いい。何件かの集金があるだけだ。歩いて帰ってくる」
 一方通行の狭い坂を下り、セルシオは六本木通りに合流した。そして二丁目の路地へと入る。
 幹部というのではない。幹部候補といったところか。表向き、薬物は法度とされているが、店や俺達キャッチからのあがりだけでは組織も凌げない。阿南はこの辺りに出回る薬物売買の統括を任されていた。
「景気は」
 訊いた。返事はない。眼をやると、阿南は小さく首を横に振っていた。
 十五年ほど前まで、この街で薬物を買うことなど簡単だったそうだ。それが好奇心だけでこの街を訪れた観光客であっても、街をうろつく何人かの外国人に当たり、それなりの金を払えば、覚醒剤、大麻、MDMAと、大概の物は手に入った。街中あちこちに監視カメラが仕掛けられ、その様子は二十四時間体制で録画されているが、カメラの眼の届かない死角はやはり多く、やりとりはその死角で行われた。
 警察による取締りが厳しくなったのは、ある俳優が六本木ヒルズの森タワーでMDMAを女と喰い、オーバードーズによる発作を起こした女を放置し、死なせたことによる。当事者である俳優は逮捕され、森タワー、そして所轄署である麻布警察署―現在の位置に移転する前、当時は署が五丁目、六本木通り沿いにあった―を報道カメラが取り囲み、大騒ぎになっていたそうだ。
 先ず何人かの売人が逮捕され、その口から名の漏れた売人達も芋蔓式に捕まった。残った売人達は売を辞め、また続ける者は場所を選ぶようになり、取引の現場はクラブのVIPルームへと移行した。当然、流通量は減り、阿南が籍を置く組織の懐具合にも大きく響いただろう。
「一時期、だいぶ前か、脱法ハーブなんてのが流行ったな」
 阿南が呟いた。
「そんなのも扱ってるのか」
 訊くと、阿南は苦笑し、また首を小さく振った。
「金にならんよ、そんなものは」
 ある一時期、所持やその使用が法に触れない輸入物の植物が、渋谷辺りでは流行っていたようだった。幻覚成分を含む得体の知れない葉。違法ではないことから、ハーブ店の店先で堂々と販売され、店側は「観賞用」としているが、それが幻覚成分を含むことも記載してある。比較的安価であり、法にも触れない。興味本位で手を出す若者は多く、錯乱し、また呼吸困難に陥ったバカガキが何人も救急車で搬送された。現状を問題視した警察は法務省と手を組み、法整備を急いでいたが、含有成分を違法としたところで、また似て非なる成分を含んだ別種の葉が輸入され、その様は正にいたちごっこだ。
「わけのわからん葉っぱなんぞ吸うより、大麻を喰ってたほうが安全だろうに」
 俺はいい、降りたままのパワーウィンドウから煙草を弾き飛ばした。
「まあ、その通りだな」
 薄く笑みを浮かべたまま、阿南がいう。
「ヒルズの時は肝を冷やしたと聞いている。おれはまだ使いっ走りだったが」
 大使館の石垣を横目に、セルシオは走り続けた。この時間になると、六本木の空気も澄んでいる。車内へと流れ込むそれが心地よかった。
「古いいい方をするんだな、『肝を冷やす』なんて」
 俺は辛うじて高卒だが、阿南は東京郊外にある私大の文学部を出ている。語彙が豊かなのはそのせいなのか。
 何故やくざになったのか、いつか訊いたことがあった。一応は就職活動などもしてみたそうだが、すでに文学部など出てもロクな就職先がない時代だったらしく、出版社に入れるほど阿南は優秀な学生でもなかったようだ。やくざになる理由としては弱い。きっと他に何かあるのだろうが、深くは訊かなかった。
 芸能人の逮捕を機に、警察は捜査と取り締まりの強化を図ったが、末端の売人からいくらか遡ったところで捜査はいき詰った。元締めの名が出てこないのだ。当然だろう。吐けば、何者かによって消される。この街からではなく、この世からだ。
「この間、家の前でやんちゃな連中に襲われてな」
「やんちゃな連中・・・?」
 俺がいうと、阿南が反応を示した。首を捻り、こちらを見ている。
「外人か混血か、若い奴らだった」
「何かしたのか、真山」
 阿南が訊いた。
「人を捜してた。それだけだ。そいつもさっき見つかった」
「そうか」
 シートから若干背を浮かせた阿南が、また背を凭れた。
「しかし解せんね。俺が捜してたのは酒屋の営業マンだ。大物ってわけでもなんでもない。しかしそれでいて、あれだけの無茶をやる」
 スモークの外を流れる景色を眺めたまま、阿南は黙っていた。
 セルシオはやがて、俺の暮らすマンションの前で停まった。以前にも何度か、阿南は俺を自宅まで送っている。ステアリングを握る舎弟は俺のマンションを憶えたようだ。
「助かったよ」
 礼をいい、セルシオを降りた。
「真山」
 阿南が呼んだ。
「妙なことには首を突っ込むなよ。騒ぎは御免だからな」
 降りたままのパワーウィンドウから、薄く色の入った眼鏡のレンズ越しに、阿南の眼が覗いていた。刺すような眼。大卒の文学青年のそれではない。やくざの眼そのものだ。
 
(八)
 
 日曜の夜、六本木は週で最も人出の少ない時間を迎える。歩道に人の姿はまばらだ。いつもは車道を埋め尽くしているタクシーの姿もない。現れるはずのない客を引こうと街に立っている店専属の黒人のキャッチだけが、ちらほらと姿を見せていた。
 真紀と酒を飲みに街へと出かけるのは、日曜の夜に限られた。真紀の店は日曜しか定休日がなく、俺も日曜には仕事をしない。
 東京タワーを遠く横目に眺めながら交差点を渡り、六本木通りを歩いた。待ち合わせの場は、西麻布の交差点だ。巨大な筒のように暗い空へと伸びる六本木ヒルズの森タワーを過ぎ、しばらく歩くと、あとは西麻布交差点まで下り坂が続く。交差点に面した老舗の小さなクラブの先に、これもまた小さな花屋がある。シャッターを下ろした花屋の前に、真紀が傍らに自転車を置き、立っていた。
「遅い」
 こちらに眼をやり、片側の頬を少し膨らませながら真紀がいう。腕時計を見ると、待ち合わせの時刻から十分近くが過ぎている。
「悪い。考え事をしながら歩くと歩調が緩む」
 口では謝りつつも、真紀を素通りし、横断歩道を渡った。自転車を曳いた真紀が小さく駆け、横に並ぶ。ビアンキだかビアンコだか、確かそんな名のメーカーが作ったイタリア製の白いロードバイクだ。たかが自転車とはいえ、かなりのスピードが出る代物らしい。雨でも降らない限り、真紀はこれで毎日、池尻大橋にある実家のマンションから六本木へと通っている。
 西麻布交差点から広尾方面へいくらか歩くと、一階にインド料理屋の入ったビルが見えてくる。ビルにエレベーターは付いているが、地下へは通じていない。ビルのエントランスから階段を降りると、『MIST』と記された黒いドアがそこにある。
「いらっしゃい」
 感情の篭らない眼と表情でマスターがいった。いくつかの間接照明があるだけの薄暗い店内に入り、背後で真紀がドアを閉めた。
 日曜の夜、六本木では営っている店など稀だった。それがバーで、喧しくなく落ち着いていて、なおかつ簡単な料理も出す店などといって選ぶとなると、もはやそんなものはない。そんな夜、俺達はこうして六本木を離れ、西麻布まで足を運ぶ。交差点から少し歩いたビルの地下にあるこの店だけは、日曜だろうが盆だろうが正月だろうが、どういうわけか店を開けていた。
「お好きな席へ。カウンターでも、テーブルでも」
 ぶっきらぼうにいいつつ、マスターはもうこちらを見ていない。カウンターの中に入り、お絞りか何かの準備を始めたようだ。他に客はいなかった。
 西麻布にあるこのビルの地下で三十年以上続く、小さなバーだった。感情のない、死んだ魚のような眼をした恰幅のいいマスターと、バーテンダーの二人だけで営っている。酒だけではなく、この店では凝った料理も出た。バーテンダーは若いが、レストランで修行していた長い時期があるらしく、パスタ、サラダの類、ピザ等々、この店のメニューを増やし、それら料理にかなりの力を入れているようだ。
「宮家さんだけですか、今日は」
 カウンターに着き、訊いた。バーテンダーの姿がない。
「そうだね。途中までいたけど、暇だから帰したよ」
 眼も合わさずにいい、マスターがお絞りを二つ、カウンターに置く。
 古いスツールが並んでいた。長年に渡り、ずいぶんな数の尻を支えてきたのだろう。どれも表皮は破れ、カウンターに並ぶその全てに黒い布が乱暴に巻きつけてある。
「ビールを二つ。それから」
「ピザください。ピザ」
 お絞りで手を拭いつつ、真紀が横からオーダーした。
「ピザね」
 ビールの注がれたグラスを二つカウンターに置き、マスターが奥の厨房に消えた。店内には、スティングが薄く流れている。
 宮家という名のマスターが、三十年以上前に一人で始めた店だ。その前、マスターが何をしていたのか、詳しくは知らない。バブルの頃だろう。どこかのディスコで黒服をしていたと語ったこともあったが、俺は信じていなかった。多くを語らず、死んだ魚の眼は、どこか暗い翳を感じさせる。そして、この晩年のヘミングウェイを思わせる風貌の男からは、何か隠しきれていない危険な雰囲気が時折、垣間見えた。
「この曲、知ってる?」
 ビールを一口含み、真紀が訊いた。『Shape of My Heart』だ。確か、映画のテーマソングにもなった。主演はジャン・レノ、そして、まだ少女だった頃のナタリー・ポートマン。
「うちにもあるの。スティングのアルバム」
「うち、って、お前の家か」
「違う。お店」
 厨房は、酒の瓶が並べられた壁の向こうにある。出入り口は脇に開けられた腰の高さほどの狭い穴だ。その狭い穴から、片手に皿を持ったマスターが背を屈めて再び姿を現した。
「お待たせしました」
 低くいい、ピザの乗った皿をカウンターに置く。作り置きの物でもあったのだろう。それを温めてきたようだ。
「マスターの趣味?この選曲」
 もう一口ビールを含み、真紀がマスターに訊く。
「そうだね」
 放り投げるように、マスターが答えた。
 この店に連れてきた当初、真紀はこの只者ではない雰囲気と風貌を持つ男を畏れ、ロクに口を利かなかった。もしかすると本当に、過去に一人か二人消した手でピザを皿に盛り付けているのかも知れない。最初のうちは俺が手を引いてこの店に足を向ける度に真紀は嫌がったが、何度か連れて来るうちに真紀はマスターに慣れ、過去はともかく、現在は決して危険な人物ではないと理解したようだ。今ではこうして軽口まで叩き、見ているこちらが冷や汗をかくこともある。
「店に置いているアルバムはお前の趣味なのか」
 グラスを口に寄せ、訊いた。
「半分半分かな。林くんと」
 真紀がピザに手を伸ばす。
「林くんはアメリカ人のロックが好きなの。あたしはイギリスのロックの方が好きなんだけど」
 わからない話だった。俺にしてみれば、洋楽は皆洋楽だ。
「どう違うんだ」
 あひ、と真紀が漏らした。かじりついたピザが思いのほか熱かったらしい。
「単純に荒々しいの。アメリカのロックって」
 生地についた真紀の歯形を溶けたチーズが覆い隠していた。
「イギリスのはどうなんだ」
「イギリス人のはね、ちょっと湿っぽい」
「湿っぽい?」
「哀しげ、っていうか。何だろう。元々クラシックの人たちだからかな」
「アメリカ人は元々何をしていたんだ?」
「カントリーとかじゃない?」
「ブルースは違うのか。アフリカから連れてこられた黒人奴隷達の悲しい音楽だ」
「別なんじゃない?よくわかんない」
 真紀がピースを摘み、吐息を吹きかけ、またかじりついた。いくらか冷めたらしい。
 サイズでいえばMといったところか。丁度いいサイズだった。俺はその夜、久しぶりに真紀を抱こうと考えていた。
 ビールのグラスを空け、ウィスキーに切り替えた。俺はラフロイグ。真紀はフォアローゼスだ。マスターが律儀にメジャーカップで酒を測り、丸氷の転がるグラスにそれを注いだ。二つのロックグラスがカウンターに置かれ、続いてチェイサーが二つ、そして、皮のない落花生とドライフルーツの乗った小さな皿が出てくる。
「突然後ろから髪を摑まれて、部屋のドアに顔を打ちつけられた」
 唐突に、俺は話し始めた。
「ついこの間だ。何人かいた。頭にビニール袋をかぶせられて、両手を腰の後ろで縛られた」
 真紀が隣でむせている。フォアローゼスが気管にでも入ったらしい。突然こんなことを話し始めたからか、カウンターに突っ伏し、品もなくゲホゲホとむせ返っていた。
「何を嗅ぎまわってる?なんていわれた。大人しく客引きやってろ、とも」
 しばらくむせ返っていた真紀が顔をあげ、一息ついた。チェイサーを含み、ゆっくりとそれを飲み込む。
「何してんの、あんた?」
 語気が荒い。感情によるものか、それとも、単にむせていたからなのか。
「失踪した酒屋の営業を捜してた。その営業の上司に頼まれて。もう見つかった。少しお灸を据えられたらしいが、無事だった」
 ラフロイグを呷った。
「その営業の人、何かしたの」
「正規とは別のルートで流れてくる不正に輸入された酒の類を追ってた。不良外人が噛んでたんだろう。拉致されたみたいだな」
「その上司の人に頼まれて、あんたあちこち訊いて回ったの?」
 フォアローゼスを一口含み、真紀がいう。
「あんたそれね、お人よしっていうんだよ」
 もう一口ラフロイグを呷り、グラスを空けた。
 真紀が怪訝な表情で俺の眼を覗き込んでいた。
「俺を襲った連中の一人の指先を噛み千切ってやった」
「わけわかんない・・・」
 首を小さく左右に振り、真紀が溜息混じりにそういった。
「変なことに首突っ込まないで」
 どこか力が抜けたようにいい、真紀がフォアローゼスのグラスを口につけた。
「心配してくれてんのか?」
 真紀の方に視線をやり、訊いた。
「うるさいよ」
 真紀はもう、こちらを見ていない。
 ウィスキーを二杯ずつ飲み、店を出た。地上階へと階段を昇る。外苑西通りを走る車は皆無だ。
 『MIST』の入ったビルの裏手に、ラブホテルがある。日曜の夜は、ほとんどが空室だ。パネルで部屋を選ぶと、自販機のようにキーが落ちてくる。それを手に、エレベーターへと乗り込んだ。三階で扉が開き、通路を歩く。303。ドアの上で、空室のランプが点灯していた。シリンダーにキーを挿し、鍵を開ける。円形のベッド、鏡張りの天井、ミラーボール。典型的なラブホテルの部屋だ。
 傍らにいる真紀をベッドに突き飛ばした。小さく悲鳴をあげ、真紀の身体がベッドに転がる。
「何すんだよっ」
 枕が飛んできた。手で掃う。真紀は半笑いだ。
 ベッドに乗り、四肢で這った。真紀に迫る。何かいいかけたが、唇で塞いだ。両手が俺の頭を摑み、離そうと力が込められた。唇を離し、眼を見る。
「シャワーくらい浴びさせて」
 無言のまま、真紀のレディスジーンズに手を伸ばした。ベルトを外し、ボタンも外す。ジッパーを下ろすと、変態、と真紀が呟く。
「シャワー浴びさせてよ」
「いい、このままで」
「よくないよ。あたしが嫌なの」
 乱暴にジーンズを脱がせた。桃色の下着が露になる。両脚を押し広げ、下着越しに顔を押し付けた。鼻で息を吸う。女の、濡れた匂い。そして、汗。この匂いに情欲を駆られるようになったのは、三十を過ぎてからだ。
 ジャケットを脱ぎ、ベッドの外に放り投げた。ボタンを外し、ワイシャツも脱ぎ捨てる。真紀のカットソーを摑み、これも力任せに脱がせた。
 押し倒す。真紀の背とシーツの間に両脇から手を滑り込ませ、金具を外した。ブラを剥ぎ取り、投げた。
「苦しいよ」
 諦めた口調で真紀がいう。
「重みが気持ちいいって、いつかいってただろう」
「時と場合によるじゃん」
 ベルトを外し、スラックスを脱ぎ、これも投げた。
「着けてよ、ちゃんと」
 それには答えず、俺は真紀の桃色の下着に手をかけた。

#4につづく


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