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小説「哀しみのメトロポリス」#4

# #創作大賞2024   #ミステリー小説部門 #六本木

(九)
 
月曜の夜が終わり、火曜の早朝、俺はその日最後のバックを受け取り、六本木交差点へと歩道を歩いた。康佑とカナの姿も見えた。
「あまり飲み過ぎるなよ」
俺がいうと、二人は曖昧に笑って見せる。仲間ができたようだ。数人の混血児たちと共に、夜の街へと消えていった。
雨が降っている。傘はさしていたが、スラックスの裾は雨に濡れ、足首の辺りにまとわりついた。
 六本木にキャッチの数は多いが、そのほとんどが店の専属だ。複数の店と契約を結び、それらに客を入れ、比較的自由に街を動けるフリーのキャッチは、俺や江を含めても僅か八人しかいない。そしてフリーのキャッチは皆、阿南も籍を置くこの辺り一帯を治める暴力団、恭撰会にいくらかの地代を月に一度、納めている。
 月曜の仕事を終えた後、交差点に面した宝石屋の前に集まるようにと、阿南を通じて指示が出ていた。フリーのキャッチとして新顔が一人入るらしい。それにあたっての顔合わせ、というところか。
 人のまばらな歩道を歩く。店を閉めた宝石屋の前に、傘をさした一団が見えた。フリーのキャッチ達だ。八人いる。うち一人が新顔だろう。連中は最後の一人である俺を待っていたようだ。
 傘の淵から、江の顔が見えた。それに倣い、皆がこちらを向く。一人を除き、他は知った顔ばかりだ。
「山崎です。しっかりやりますんで」
 俺が輪に加わると、新顔らしい男がこちらに深く頭を下げた。
「真山だ。よろしく」
 俺が名乗ると、山崎はもう一度、頭を下げた。
 どこか別の組織からの預かり物だと阿南からは聞いていた。やくざ見習いにしては、歳を取りすぎているようにも見える。
「いくつだ」
「三十八です」
 太っていた。目測百七十五センチの百キロ。XXLサイズらしい灰色のスーツに身を包み、緊張しているのか、その大きな身体を縮こませている。童顔だ。かつては美少年だったのかも知れないが、その周囲にへばりついた頬の贅肉と横幅のある身体が、ここ十年か二十年の不摂生を物語っていた。
「ソリッドアイパーです」
 髪型を訊くと、山崎はそう答えた。聞いたことがない。両の側頭部を短く刈り上げ、残りはパンチパーマをかけている。
「とにかく、よろしく頼んます」
 山崎はいい、最後にまた頭を下げた。皆が曖昧に頷き、夜の明け始めた雨の街に散った。
 俺と江は牛丼屋へと向かった。時刻は早朝だが、俺たち夜の住人にとっては夕食だ。案内された席に座り、適当に食い物を註文した。
「やくざだね」
 グラスの水を飲み、江がいう。
 コップをふたつ。水を注ぎ、俺はテーブルに置いた。
「詳しくは俺も知らんが、どこかの組からの預かり物らしい」
「どこの組?」
 水を含み、俺は首を捻った。雨はまだ降り続いている。
「前は債権の回収か何かをしていたらしい。何かヘマでもしたんだろう。それで預けられたんじゃないのか」
 品が運ばれてきた。大蒜の芽が乗ったキムチ牛丼が二つ。ごゆっくりどうぞ、といい、スタッフが引っ込んだ。
「大丈夫かな、あの人」
 割り箸を割り、コオが呟く。
「さっきの新顔、あの山崎っていう大きい人。未経験でしょ」
「誰でも最初はそうだ。上手くいきゃ食えるし、食えなきゃ足を洗うだろ」
 俺はいい、牛丼に箸をつけた。
「うちの顔は潰すなよ、とかな、預けに出した組からはいわれてるだろう。それなりに努力はするんじゃないか」
「でも、あの見た目だよ。お客さん逃げちゃうよ」
 味噌汁を啜り、俺はいった。
「心配なら、江、面倒見てやったらどうだ」
 江が咳き込む。
「嫌だよ、怖いもん、あの人」
 それはそうだろう。やくざはやくざだ。童顔なのがせめてもの救いか。
 
(十)
 
殴り合いが始まった。白いのと、浅黒いのだ。両方、二十代だろう。そして二人とも混血のようだった。二人の周囲に人だかりが形成されつつあった。中央で忙しく腕を振り回す二人に向けて、日本語で、英語で、また聞き慣れない何らかの言語で野次を飛ばしている。タクシーの群が渋滞を作り、その遥か先でパトカーがサイレンを鳴らしていた。道を開けるようにと拡声器が叫んでいる。無駄だった。
 二人の顔面に血が流れ始めた頃、ようやく四人の警官が駆けつけた。下がって、下がれ、と絶叫している。土曜の夜だった。六本木三丁目では毎週、こんな光景が繰り広げられる。俺は煙草を咥え、その様を眺めていた。
 スラックスのポケットで、携帯が鳴った。取り出し、液晶に眼をやる。登録されていない、十一桁の番号が表示されていた。
「もしもし」
 回線が繋がると、咳き込む音が聞こえた。
「真山さん・・・?」
「ああ」
 掠れた声の向こうで、耳障りなトランスミュージックがくぐもって聴こえている。記憶を探った。誰の声だろうか。
「・・・康佑です・・・」
 康佑。いつか牛丼屋で江から紹介された、川崎から流れてきた若い男だ。
「どうした?」
「助けてください。動けなくて・・・」
「どこにいる?」
「『アルティメット』です。VIPルーム・・・」
「何があった?」
 返事がない。ただ相変わらず、トランスがミュートされて聴こえるだけだ。
「おあっ」
 呻き。続いて、耳元で衝撃音が小さく鳴った。康佑が携帯を落としたらしい。そして、回線が途絶えた。携帯を耳から離し、また液晶に眼をやる。通話していた時間が何分何十秒と表示されていた。
 アルティメット。外苑東通り沿いのビルに入った外国人系のクラブだ。薬物や痴漢で逮捕され、何年か服役した元芸人が、横浜港で再び薬物所持で逮捕されたことがあった。そのとき所持していた薬が、このアルティメットで購入したものだ、という噂を聞いたことがある。そんないわくの付いた場所に、何故康佑がいるのか。
 外苑東通を歩いた。酔った外人と肩がぶつかる。
 肌の白い外人が声を荒げ、背後から俺の肩を摑んだ。振り返り、睨み付ける。外人にたじろぐ気配があった。摑まれた手を握り、瞬発的に捻りあげる。外人の口から嗚咽のようなものが漏れた。片手には、飲みかけのスミノフが握られている。
「忙しいんだ。絡むなら後にしろ」
 短くいい、捻りあげた手首を放した。少し傷めたのか、外人はスミノフを落とし、その空いた手で捻りあげられた方の手首を包み、黙ったままこちらを見詰めている。
『アルティメット』の入ったビルは、外苑東通りを芝方面へ歩いた先にある。
「ナンカイ?」
 狭いエントランスに踏み入れると、しきてんの黒人が訊く。エレベーターの脇に、入っているテナントの看板が階数ごとに貼られていた。
「十一階」
 まだ日付も変わっていない。警察の手入れを警戒するには早い時間だ。俺が答えると、黒人は興味を失い、エレベーターから離れた。
 扉の上部に階数表示があり、14という数字が光っていた。ボタンを押したが、箱は降りてこない。焦れた俺は非常階段から昇ることを考えたが、やめにした。非常階段で十一階に昇ったところで、店内へと到る裏口のドアが閉まっていたらアウトだ。
 14という文字から光が消え、13、12と降りてきたが、8で停止した。
 俺は悪態をつき、扉を蹴飛ばした。しきてんの黒人がまた現れ、こちらを窺っている。
「何か用か」
 苛立ちを抑えきれぬ口調で俺が訊くと、黒人は小さく首を横に振りつつ、消えた。
 箱が一階まで下りてきた。扉が開くと共に、酒と汗の臭いが流れ出てくる。箱の中では、酔った外人達が鮨詰めになっていた。お喋りに夢中なのか、連中はなかなか箱から出ようとしない。
「早く出ろ」
 俺は低くいい、手前にいる者から順に服を摑み、エントランスへと引き摺り出した。エントランスへと転がり出た何人かの外人が、何か喚いた。
「早く出ろ!」
 怒鳴った。まだ箱の奥には数人の外人がいたが、こちらの剣幕に慄いたのか、お喋りをやめ、足早に箱から出てきた。閉まりかけた扉に片腕を突っ込む。再び扉が開いた。無言で乗り込み、閉のボタンを親指で突く。扉が閉まり、『アルティメット』の入った十一階のボタンを突いた。
 箱が上昇を始め、階層を過ぎる度、様々なジャンルの音楽が聴こえた。床には、いくつかの空瓶が転がっている。
十一階。扉が開く。酒と汗、そして吐瀉物のような臭いと、ウーファーで轟くトランスの低音が、一気に俺を包んだ。ぶち抜きのダンスフロアにはブラックライトが点滅し、その下で酒瓶を片手に酔っ払った外国人達が束になって踊り狂い、蠢いていた。
 エレベーターを降り、ダンスフロアに踏み入れる。激しく全身を揺さぶり踊る群を掻き分け、歩を進めた。何かに躓き、脚を取られた。踏ん張ると、床が滑る。酒か何かで濡れているのか。フロアは暗く、足元が見辛い。
 視界を埋め尽くす人影の隙間から、VIPと赤く光る文字が遠く見て取れた。力ずくで人を掻き分け、そちらへと進む。ようやくドアの前まで辿り着いた。消火器の把手に似た形のノブの脇で、VIPと形取られたLEDが赤く、毒々しい光を放っている。ノブを握り、捻ったが、回らない。内側から施錠されているのか。
「康佑!」
 大声で呼んだつもりだが、常軌を逸脱した大音量のトランスに掻き消され、自分の声さえ聞こえない。拳の底で何度も、ドアを叩いた。
 叩き続けると、不意に内側から鍵が解かれる感触が伝わった。ノブに手をかけ、捻る。ノブが回り、ドアを内側へと押し開けた。
 康佑が這いつくばっている。床を這ってきたように、ドアの内側からノブに手をかけ、腹這いになっていた。部屋へと入る。飴の葉を焦がしたような甘い臭いが、空間を満たしていた。
 大麻だ。
 室内にはブラックライトではなく、白熱球を思わせる温かな照明が灯っていたが、煙が充満し、視界が悪い。中央にテーブル。それを囲むように黒いソファが並び、何人かの男女が半裸のまま、溶けたような眼で水パイプを吹かしていた。
 男が一人立ち上がり、何かいった。ダンスフロアから押し寄せる音圧に消され、聞こえない。ドアを閉めろといっているのか。男の手振りから、そう見えた。振り返り、這い蹲る康佑の右手をノブから離し、ドアを閉めた。分厚いドアだ。見たこともないほどの厚みがある。ドアを閉めると、ダンスフロアからの音圧が消えた。あれほどの大音量が、見事に遮断されている。
 すすり泣く声が聞こえた。ソファの片隅で膝を丸め、破れた服で口を塞ぎ、若い女が泣いている。カナだった。髪は乱れ、眼の周りから涙に溶けた化粧が、両の頬に黒く筋を描いている。
 ドアを閉めろと手振りで示した男に見覚えがあった。記憶を探るまでもない。病的に白い肌、こちらを指差して見せた歪んだ笑み。あの日、マンションのドアの前で俺を強襲した連中の一人だ。下半身には何も着けていない。すでに萎えてはいるが、太腿の間に、巨大な男根がぶら下がっていた。
「大した防音効果だな。あの爆音がこの通りだ」
 ジョイントを吹かす数人を見渡しながら、俺はいった。
「そうだろ。レコーディングスタジオなんかにも使われてるやつだ」
 男の眉の尻から、血が流れていた。ソファに背を持たせている他の男達も皆、顔の一部に傷がある。康佑か。
「なんだ、よく見りゃ、フリチンの兄さんじゃん」
 下半身を丸出しにしたまま、その若い男がいった。
「名前を訊いておこうか」
「ヴェクター」
 薄汚い笑みを浮かべつつ、若い男が名乗る。
「何も知らん田舎者を連れ込んで、まわして、今度はハッパか」
 すすり泣くカナに眼をやった。抵抗したのだろう、鼻から血を流している。
「輪姦してないよ。乱交じゃん?」
 歪んだ笑みを濃くし、若い男が言う。
「似たようなもんだ」
 その場で屈み、這い蹲る康佑に手を当てた。気を失っている。襟首を摑み、揺さぶった。
「・・・真山さん」
「帰るぞ」
「・・・カナは・・・?」
「いるよ」
 ジャケットを脱いだ。カナへと投げる。床に、ローライズのショートデニムが落ちていた。カナの物かどうかはわからない。事を終えて大麻を吹かしている男たちは皆半裸だ。デニムを摘みあげ、それもカナへと投げた。
「服を着ろ。出るぞ」
 すすり泣いたまま、カナがデニムを履く気配があった。他の連中は無関心なまま、相変わらず溶けた眼で視線を虚空に漂わせている。
「ああっ!」
 ベルトを摑み、持ち上げると、康佑が呻いた。腰をやられているらしい。自衛隊の頃に負った古傷だろうか。
「我慢しろ。カナ、こっちへ来い」
 デニムを履き、俺のジャケットを羽織ったカナが、力なく歩み寄る。ヴェクターと名乗った若い男はソファに深く腰を下ろし、傍らの灰皿から吸いかけの煙草を手に、吹かし始めた。
「ヴェクター。混血か?」
 訊いた。
「何で?」
「日本語が上手い。まるで日本人だ」
 ヴェクターの顔がまた歪み、醜い笑みを見せた。
「育ったのは日本だよ。ここにいる野郎は皆そう。インターナショナルスクールの同期なんだ」
 ノブを摑み、引いた。ドアが開き、ウーファーの轟きが室内に雪崩れ込んで来る。右手で康佑のベルトを、左手でカナの襟首を摑んだ。VIPルームを出る。頭と肩で人の波を割り、力任せに進んだ。何か柔らかな物、人の身体のようなそれを踏み超え、エレベーターの前まで突き進んだ。襟首を離すと、カナが脱力したように横たわる。大麻の副流煙か何かが効いているのか。扉の上部で、1という数字が光っていた。下降ボタンを押し、箱が昇ってくるのを待つ。しばらくすると、扉が開いた。中は空だ。右手でカナの襟首を摑み、左手は康佑のベルトを摑んだまま、箱の中へと乗り込んだ。
 一階まで降り、二人を引き摺ってエントランスを歩いた。歩道を横切り、車道に出る。カナの襟首を離し、タクシーの窓を叩いた。運転手が振り返ったが、また前方に向き直る。面倒な客だと見たのだろう、無視を決め込む気でいるようだ。再び、今度は強く窓を叩いた。
「おい。乗車拒否か。センターに訴えるぞ」
 タクシーの群が、車道を埋め尽くしている。乗ったところで、進みはしないだろう。いくらか先まで二人を引き摺り、そこからタクシーに乗ることも考えたが、輪姦され、髪や顔を精液のようなもので濡らしたカナと、足腰の立たなくなった康佑を公衆の前に晒し続けるのも気が引けた。早く車に押し込んでしまったほうがいい。
 観念したのか、タクシーの後部ドアが開いた。先にカナ、続けて康佑を放り込み、最後に俺が乗り込んだ。
「お客さん・・・困りますって」
 頭の禿げた、初老の運転手だった。
「ドアを閉めろ」
 短くいった。溜息をつき、運転手が何かを操作した。ドアが閉まる。生臭い、精液の臭いが車内に漂った。
「芝といってたか、部屋は」
「・・・はい・・・」
 呻き混じりに、康佑が答える。車線を変えようと運転手がウィンカーを出したが、周囲に群れるタクシーに阻まれ、車は動かなかった。
「腰をやられたのか」
 カナがすすり泣いている。康佑は沈黙し、答えなかった。
「この街じゃな、酒も薬もセックスもおもちゃだ」
 煙草を咥えた。運転手の舌打ちが聞こえる。
姦(や)姦られるほうも面白半分だ。そういう街なんだよ、ここは」
 カナのすすり泣く声。やがてそれに、康佑の漏らす嗚咽までもが加わり始めた。
 
(十一)
 
 ドライブしないか、と耳に押し当てたスマートフォンの向こうで阿南がいった。
「意味がわからんね」
「話がある、といっている」
 午前三時。平日だった。大した数の客は入れていない。その日のバックは全て受け取り、俺は煙草を喫っていた。
「俺はないんだがね」
 煙を吐きつつ、答えた。
「こっちにはある。どこだ?迎えにいく」
 妙だった。この街で客引きを始めて長いが、阿南から話があるなどといわれたことなど、これまでなかった。
「芋洗い坂」
 六本木通りと外苑東通りの交差する六本木交差点。そこは単純にメインストリートが交差しているだけではなく、麻布十番方面へと下る一本の短い坂へも直結している。坂へと下る入り口は交差点の四隅の一つにあたり、そこは公共の灰皿が設置された喫煙所になっていた。
「十五分でいく。そこにいろ」
 こちらの返事を待たず、阿南は通話を切った。携帯を耳から離し、スラックスのバックポケットに収めた。
芝方面から交差点へと進入し、渋谷方面へと折れる無数のタクシーからちらほらと、芋洗い坂へと分岐するタクシーが坂を下ってゆく。やがてその群の中に、見覚えのあるセルシオが姿を見せた。交差点を折れ、フロントタイヤに蛇角をつけたまま芋洗い坂へとノーズを向ける。坂の入り口を横切る短い横断歩道の上でセルシオは停まり、スモークの貼られた助手席のドアが内側から開いた。
「乗れ」
 丸刈りの頭、カラーレンズの眼鏡、そして安物のスーツ。阿南自らがステアリングを握り、運転席から身を伸ばす形で助手席のドアを開いていた。
 助手席に乗り込み、ドアを閉じる。辺りに薄く漂っていた街のノイズが、シャットアウトされた。セルシオが坂を下り出す。タイヤが路面を転がる音も、エンジンの回転する音も静かだ。
「流石にセルシオだな。型遅れとはいえ」
 返事はない。阿南はステアリングを握ったまま、坂を下った。
「免許、持ってたんだな」
「当たり前だ」
 平凡ビルと、その麓にある公衆トイレが見えてくる。先は二股に分かれ、左折すると外苑東通へと合流し、右折すれば麻布十番へと至る。
「話とは?」
 訊いた。
「車の中でしか出来ないような話か」
 返事はなかった。ただ黙ったまま、ステアリングを握っている。
 テレビ朝日のビルが見えてきた。正確にいえば、その影か。辺りは暗く、ビルも明かりを落としている。交差点を右折した。六本木通りへと向かっている。その下を貫くトンネルに入るのか、或いは六本木通りに合流する気でいるのか。
「事務所に電話があった。少し前だ」
 唐突に、阿南が話し出す。
「うちとは別に、六本木で麻薬を捌いてる連中がいる。そんな電話だ」
 ウィンカーを左に出し、そちらへと軽くステアリングを切った。トンネルには入らず、六本木通りに合流するようだ。
「麻薬?」
「大麻だ。厳密に言えば麻薬じゃないが」
 制動がかかった。阿南がステアリングを切り、セルシオを路肩へ寄せる。六本木通りへと至る、登り坂の途中だった。
「電話は誰からだ?」
「匿名だった。うちの電話番が訊いても名乗らなかった」
 阿南がシフトをパーキングに入れ、サイドを引いた。ハザードを焚く。
「若い不良外人グループが、大麻を持ち込んで捌いてる。電話の主はそういった」
 煙草に火を着け、助手席側のパワーウィンドウを少し下ろした。センターのコンソールに小さな灰皿がある。
「そんな連中に心当たりはないか」
 黙っていた。煙草を喫い、煙を吐く。
「ないわけじゃなさそうだな」
「六本木には葉っぱを吸ったりな、売ったり買ったりしてる奴なんて掃いて棄てるほどいる。そんな連中ならいくらか知ってるよ」
 俺はいい、煙草を灰皿に押し込んだ。
「潰せ」
「何?」
「潰せ、といったんだ」
 タクシーが一台、セルシオの脇を走り抜けてゆく。
「お断りだ。俺の仕事じゃない」
 阿南がこちらを見詰めていた。いい重ねる。
「阿南さん、俺はただのキャッチだ」
 俺を見詰める阿南の眼が、少しずつ鋭さを増す。
「それはあんたの仕事じゃないか」
「忙しいんだ」
「坊や達もいる」
「使えない。あいつ等は頭が悪い。こういう仕事はこなせない」
 俺は溜息をつき、いった。
「何故こんな話を俺にするんだ」
「真山」
 眼が鋭い。やくざの眼だ。人を射竦める、あの眼。
「お前はこの話を断れないんだ」
 阿南の左手がシフトレバーに置かれた。眼は俺を睨みつけたままだ。
「電話の内容は俺を通り越して、会長の耳にも入った」
 六本木を治める暴力団、恭撰会会長、川藤。
「六本木に薬を卸してるのはうちだけだ。そこへその連中が別に薬を持ち込んでる。真山、これは島荒らしなんだ」
 知ったことか。声にはしなかった。
「信憑性はともかく、そんな話があれば動かざるを得ない。これは会長の指示だ」
「しかし一体、何故俺なんだ」
「歌舞伎町だよ」
 ステアリングに置いた右手、シフトレバーに乗った左手、俺を睨み付ける視線。その全てに動きがない。阿南の口だけが、動いていた。
「六本木に来る前、お前はあの街にいたんだろう。会長はそれを知ってる。お前はあの街で、客引きの集団を組織して、重い役を担ってた。会長はそれを買ったから、お前はこうしてこの街で飯を喰えてるんだ。違うか」
 また溜息をついた。
「阿南さん、俺はやくざじゃない。あんたと違って」
「堅気か」
 短く、そして鋭い口調で阿南がいう。
「真山、お前はやくざじゃないかも知れないが、堅気でもない。うちの息はかかっているし、月にいくらかうちに納めてもいる。税金だってろくに払っちゃいないんだろう」
 俺は黙り、前を見詰めていた。フロントガラスの先、数十メートル向こうに、通る車のまばらな六本木通りが見える。
「真山、もう一度いうぞ。お前は堅気じゃない。そして会長はお前に動けといっている」
 もう一台、空車のタクシーが脇を走り抜けた。
「断れんぞ」
 それだけ告げると、阿南は視線を俺から外した。顔を前方へ向け、シフトをドライブに入れる。ハザードを消し、車を出した。六本木通りにぶつかる。信号が変わるのを待ち、立体交差点を右へと折れた。セルシオは首都高の高架に沿い、六本木交差点に向けて加速した。
「話はそれだけか、阿南さん」
 力なく、俺は訊いた。
「それだけだ」
 一度、赤信号に停められ、再び走り出した。六本木交差点に近づくにつれ、タクシーの数が増えてゆく。
 ブレーキ。減速したセルシオが左にウィンカーを出し、六本木交差点をミッドタウン方面へと左折した。二人とも口を閉ざし、車内は静かなものだった。
 信号があり、右斜め前方にミッドタウンが見えてくる。右折。ミッドタウンの傍を走り、檜町公園をかすめた。阿南の転がすセルシオは、俺の暮らすマンションへと向かっている。路地を走り、消防署を過ぎた。さらに狭い路地へと折れ、マンションの前で阿南は車を停めた。
 ドアを開け、車を降りる。阿南の眼に、鋭さが戻っていた。
「やり方は任せる」
 こちらを睨み付け、阿南がいう。
「潰せ」
 ドアを閉じた。ガラスに貼られたスモークフィルムが、ステアリングを握る阿南の姿を隠す。セルシオが発進し、テールを見せた。遠ざかり、やがて消えた。

(十二)
 
 夜の街で、山崎は苦戦しているようだった。預けに出された先である恭撰会の口利きでいくつかの店と契約は取れたようだが、肝心の客が取れない。また、私服警官の存在も、山崎の動きを制限していた。この街で長く客引きをしている者なら、麻布署の警官の顔など頭に叩き込んである。だが山崎はまだ日が浅く、民間人と私服警官の区別などつきはしない。無闇やたらと声をかければ、やがて私服にも当たる。そうなれば、その場で逮捕だ。声をかける相手には慎重にならざるを得ない。それでいて、あの風貌だ。ソリッドアイパーとかいう変わったパンチパーマに、あの巨体だ。
「どうだ、景気は」
 気遣った、というほどではない。ただ、俺や傍らの江を除いても、他のキャッチ達も山崎がやくざであることに気付いている。山崎は同業者連中に避けられているように思えた。午前一時。人出は少なく、ピークともいえないピークが過ぎ、一段落がついた時間だ。
「いやぁ、ダメっすね。まだ一人も取れてませんよ、今日は」
 山崎がいい、疲れた表情を見せた。童顔。二重目蓋の大きな眼は柔らかく、やくざのそれではない。
「出身は」
「横浜です」
 訊くと、山崎は答えた。
「育ちもか」
「ええ。横浜ですよ」
「こっちは台湾の出だ」
 いって江に眼をやる。
「台湾ですか」
 コオが迷惑そうに、苦笑いを見せた。
「真山さんは・・・?」
「田舎だよ」
 答えると、山本が笑った。
「田舎って、色々ありますよ」
「いってもわからんだろう。聞いた奴の多くが『ああ・・・』なんて曖昧なことをいう。それほど田舎ってわけだ」
 声を出して、山崎が笑っていた。笑うとなおさら、子供のような顔になる。肥満児が笑うような、そんな顔だった。
「どこから預けに出されたんだ?」
 ひとしきり笑い、山崎が答える。
「西和です」
 西和会。ずいぶん昔に、西和協同組合と名を変えた。横浜に昔から根を張る、元は韓国人を中心としたやくざ組織だ。大久保などといったコリアンタウンとは今も通低している。
「ちょっとヘマしちまって」
 以前はどこかで債権回収にあたっていたと聞いている。それが横浜なのだろう。
「いつまでだ?」
 スーツの内ポケットから煙草の箱を取り出し、山崎が答えた。
「期限は・・・いわれてません」
 煙草の箱を摑んだその大きな手を、俺は手で制した。
「喫煙所以外の場所では禁煙だ。路上喫煙禁止のマークがあるだろう」
 視線を向け、示した。山崎が眼で追う。先には、煉瓦敷きの歩道に描かれた路上喫煙禁止という、子供の描いたような絵が貼り付いている。
「あまり目立つことをやらないほうがいい。一応は非合法の商売だからな」
 山崎が笑みを見せたまま、煙草の箱をポケットに収めた。
「真山さんのことは聞いてますよ」
「俺のこと?」
「ええ。歌舞伎町です。あそこでキャッチをまとめてた人だって」
恭撰会へ預けに出される時、或いはこちらへ来た後、山崎は俺のことを聞かされたようだ。
「大したことじゃない。客引きを組織化して、権利を主張できるようにした程度だ。法人化も視野には入れていたが、実現しなかったしな」
「そうなんですか?」
 山崎が、丸い眼をさらに丸くし、訊いた。
「そうだ。だから俺はこの街に流れて来てる。足を洗った奴も多くいたよ」
 十五年以上前、まだ俺が青二才だった頃の話だ。
「横浜からはどうやって通ってるんだ」
 訊くと、山崎はステアリングを回す仕草を見せ、答えた。
「車です。第三京浜から環八まで来て、あとは246で」
 国道246号。多摩川から渋谷までは玉川通りと呼ばれ、渋谷からは青山通りと名を変える。六本木通りはその渋谷を起点に、246から分岐していた。
「四丁目のパーキングに停めてるんです。赤字ですよ。一晩で三千円取られますから」
 いくらか視線を落とし、山崎が続ける。
「せめてパーキング代くらいは稼がないと、ほんとに赤字です」
 江に視線をやり、俺は話し始めた。
「明日からしばらく休業になりそうだ」
 江が反応し、俺を見る。山崎も。
「どうしたの、真山くん。身体でも壊したの」
 江が訊いた。
「そうじゃない。面倒な仕事を任された」
「面倒な仕事?」
「キャッチは休むんですか」
 蓄えはあった。しばらく仕事を休んだところで生活に影響はない。収入の全ては客を入れた店からのバックであり、それには税金もかからなかった。景気は悪く、街をゆく人間の数も少ない。また、連中の財布の紐も堅かったが、真剣に取り組みさえすれば、一晩に数万円の稼ぎを得ることも不可能ではなかった。捕まれば、一度目は別だが、二度目からは五十万の罰金が科せられる。違う管轄の私服に声をかけて捕まったことはあったが、それは収入と共に負うべきリスクというやつだった。
「面倒な仕事って何、真山くん」
 江が訊く。事情はややこしく、説明するのも面倒だ。
「詳しくは話さんが、とにかく面倒な仕事だ。しばらくはそっちに専念することになる」
 山崎へと向き直り、俺はいった。
「まあ、頑張ることだな」
 押忍、と、山崎が空手家のような返事をする。
「江、俺は帰る」
「真山くん」
 江を相手にせず、軽く手を振り、俺は歩き出した。六本木交差点を渡り、マンションのある方角へと、外苑東通りを歩く。
 
 受け取った名刺は全て、それ用のクリアファイルに収めてある。整理はしていない。受け取った順に、片っ端から差し込んであるだけだ。収納からそいつを引っ張り出し、ページを後ろから開いた。西原、そして霜越。
 テーブルの上から携帯を拾い上げ、画面を指で触れた。フルタッチパネルの液晶に明かりが灯り、買った時のまま変更されていない待ち受け画面と、時刻が表示された。タッチパネルに何度か指を触れると、液晶に0から9までの数字、そして※と♯が現れる。霜越の名刺にもう一度眼をやり、その番号を押した。
 耳に当てたスピーカーから、波の音が聞こえ始めた。コール音であるらしい。途中から、鳶か海猫か、鳥の鳴き声までもが聞こえてくる。
「もしもし」
 波の音と鳥の鳴き声が突然途絶え、一瞬の間の後、霜越の声に切り替わった。急いで電話に出たような、いくらか焦った口調だ。
「霜越さんか」
 はい、私です。霜越は答えた。
「真山だ。わかるか」
「真山さん。はい。真山さんですね」
 午後十一時。もう眠っていたのかも知れない。
「すまんね。夜分遅くに」
「いえ」
 その節は、と霜越がいい、言葉が途切れた。俺は黙って続きを待ったが、先が出てこないようだ。
「身体の具合は」
 訊いた。
「ええ、なんとか」
 曖昧に、霜越は答えた。
 外国人や混血児の吹き溜まりに放り出された時、霜越は頭にビニール袋を被せられ、身に着けていたのは下着一枚、そして失禁していた。目蓋は腫れ、眼は充血し、眼許にはどす黒い隈があり、頬は痩せこけ、酷い目に遭わされたことが一目で見て取れた。
「今どこにいる」
 返事がない。沈黙した。
「六本木じゃないな」
「違います」
「そうか」
 テーブルの傍に置かれた椅子に腰かけた。
「しばらくは六本木に近づかないほうがいい。今度こそ消されかねんぞ」
「そのつもりですよ」
 煙草の箱を片手に取り、抜き出した一本を指で挟む。
「恭撰会の事務所に密告があったそうだ。薬を別に卸してる不良外人どもがいる、と」
 沈黙。霜越の息遣いが、微かに聞こえた。
「あんただな。あの電話は」
 煙草を咥え、火を着けた。煙を吐き、また指で挟む。
「おかげで面倒な仕事を抱え込んだ。潰せ、というんだ。恭撰会が。どういうわけか知らんが、無茶な理由で俺が動かなきゃならない」
「そうですか」
「何を見た?聞かせてくれ」
 考えているようだ。俺は煙を喫い、待った。
「話しても大丈夫ですか」
「六本木に近づきさえしなければ、だな」
 霜越が息を吐いた。溜息をつきたいのはこちらだ。
「大麻ですよ」
「そうだろうな」
「あいつら、酒と一緒に大麻を持ち込んでます。それを見ました」
 不正に流れ込んでくる酒類を追う中で、霜越はそれを見た。連中は霜越の口を封じるために、お灸を据えた。小遣い稼ぎにしては度が過ぎているが、口封じに殺してしまうほど無茶な連中ではない、というわけだ。
「いきなり襲ってきました。頭に袋を被せられて。車に詰め込まれて」
力なく、しかしどこか悔し気に霜越が語る。
「どこかへ連れ込まれて、服も靴も脱がされて、何日も飲まず食わずのままで何度も蹴られましたよ。意識が遠くなるとまた蹴られて揺さぶられて」
 黙って聞いていた。
「最後には意識を失いました。目が覚めると辺りが揺れていて、車の中だったんですね。いきなり蹴り飛ばされて、地面に落ちました」
「その少し前に俺も襲われたんだ」
 息を呑む気配。
「あんたはスティーブに当たっただろう。俺が教えたあの黒人だ。あんたが姿を眩ました後、俺はあんたの上司、西原といったかな、その男に頼まれてスティーブにあんたのことを訊いた。生きてはいる、と奴はいったよ。あんたのことを」
 テーブルに置かれたブリキの灰皿に、煙草の灰を落とした。
「襲われたのはその後だ。部屋の前で突然。あんたと同じく、頭にビニール袋を被せられてな」
「連れ去られたんですか」
 早口で霜越が訊く。
「いや、鼻血を出した程度だ。何を嗅ぎまわってる、なんていわれた。俺はあんたを捜してるだけだったんだが、連中にしてみりゃ、あんたも俺も、連中のしてる危いことを追ってるように見えたんだろう」
「迷惑をかけました」
 霜越が詫びた。力の無い口調だった。
「何をどんなふうに運び入れてるんだ、連中は」
 訊いた。低い声で、霜越が話し出す。
「トラックです。毎週日曜。例の吹き溜まりの辺りです。昼間ですから、誰もいない」
 新宿は眠らない街などと呼ばれるが、六本木はよく眠る街だ。新宿にはデパートもあれば駅ビルもあり、昼夜を問わず人が行き交う。その点、六本木には駅ビルもなければデパートもない。日曜の昼間ともなれば、街に並ぶ店は皆シャッターを下ろし、歩く人間の数も極端に減る。秘め事に及ぶには絶好の環境だろう。
「トラックはどこから誰が転がしてくるんだ」
 最も知りたいのはそこだったが、霜越の調査はそこで終わったようだ。
「わかりません。そこまで追ったところで、あんな目に遭いましたから」
 煙草を灰皿で捻り潰した。火種から昇る煙が細くなり、消えた。
「霜越」
 はい、と小さな返事があった。
「俺が動き出せば、連中はそれに感づく。六本木に近づくなとさっきいったが、そういう意味だ。重ねていうが、今度はお泊りじゃ済まんかも知れんぞ」
 返事がない。絶句しているのか。
「とにかく、事が収まるまでこの街には近づかないほうがいい」
「真山さん」
 不意に、霜越が俺の名を呼んだ。
「なんだ」
「事は収まるんですか」
 今度はこちらが沈黙する番だった。事は、収まるのだろうか。
「わからん」
 そういい、続けた。
「わからんが、やってみる。難題ではあるがね」
 霜越が黙った。
「ありがとう。夜分に済まなかった」
 返事を待たず、回線を切った。液晶に、通話時間が表示されている。

#5につづく


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