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お客様インタビュー・梅川雅己さん(寿司「梅川」店主)その3

お隣
マグロ漁船では、マグロは食べ放題なんでしょうか?

梅川
マグロは商品なので一切食べられないです(笑)。基本、食料は全て日本から冷凍して持っていきます。
コック長が料理するものの他に、それぞれが自分の好きな、例えばパンやお菓子を一斗缶に入れて冷凍しておくこともできます。一斗缶に名前を書いて、その中に好きなものを入れておくわけです。

ただ生野菜や果物はどうしても不足するので、それは港に入った時に現地調達です。アルコールも(一人でなら呑めるので)、日本の好みの銘柄を持っていく人もいます。
先ほどのビデオのように、他の日本船と食料を交換したりすることもありました。お互いに珍しいものが手に入ったりするんですね。この物々交換は「会合」と呼ばれていました。

乗ってみて知ったのですが、船同士は助け合うんですね。日本船同士だけでなく、何かあったら外国の船でも救助する。僕の時はありませんでしたが、難破した船があったらその付近の船に一斉に連絡が行きます。港だけでなく、海上でもやりとりがあります。
僕たちはマグロが良く取れて、予定より早く帰途につくことになりました。そうすると燃料が余る。すると近くにいた別の日本船に海上でパイプを使って燃料を分けたりもしていましたね。

そして待ちに待った日本に、焼津に帰りました。

港に着いてからも3日間は水揚げ、荷下ろしなどで拘束されます。
とりあえず焼津のビジネスホテルをとってくれて、そこから港に通うんです。
僕は着いたらすぐに東京で友達と会い、またすぐに焼津に戻って仕事しました。

お隣
あの…マグロ漁船はまとまったお金が手に入るというイメージがありますが、お給料は?

梅川
僕は一人前でなかったこともありますが、それほど良くなかったですよ。
当時の給与明細がとってありますが、いろいろ引かれて約300万円。この時はマグロが良く獲れたからこの値段で、不漁だともっと安くなります。
この金額で
「(マグロが獲れる)いい時に行ったね」
と言われたくらいなので、当時の相場でも苦労に見合うかというとちょっと…ですよね。
もちろん上のクラスの他人たちはもっと貰いますが、船長でもこの3倍くらいです。
僕が行くより前は一航海で家が建つなんて時もあったみたいですし、今は分かりませんが。

どんな仕事も経験があるほどいいわけですが、船は視力や聴力が衰えてくると危険です。僕が乗った時も漁労長が46歳、船長が28歳とか、そのくらいで…50代はいたのかな…。
あまり長くは出来ない仕事ですし、最近はなり手も少ないから、もう少し待遇が良くなっているかもしれません。

お隣
船を降りてからのことは考えておられた?

梅川
特に計画はありませんでした。
船を降りたら自分はどう思うだろう、その時の判断に任せようと決めていたんです。
船に乗る前にアルバイトさせてくれた船具屋さんからは
「東京に戻らずうちで働かないか」
と言ってもらいましたが、船を降りたら以前働いていた寿司屋から
「世田谷に寿司屋を出すから、オープニングを手伝ってほしい」
と電話があって、そちらに行くことにしました。

そこからはとにかく早く技術をつけて自分の店を持つことを目標に、いろいろな店を経験させて貰いました。
店を出すまでに時間をかけたくない、人の半分の時間でやろうと思ったので、どこの店も一年で辞める。一年やると大体の流れが分かるんです。
ここは勉強にならないと思ったら一年経たなくてもやめる(笑)。
年功序列で、若いと技術があっても上に行けないようなところはすぐ辞めました。
船と違って、逃げようと思えばいつでも逃げられる。どこにいても辛さはなかったですね。
東京だけでなく沼津や川崎の店に行ったり、個店ではなく都内の有名ホテル、寿司屋だけでなく和食店、ふぐ屋…ふぐ屋ではふぐ調理の資格も取りました。独立して今の店を出すまでに9年修行したことになります。

一番勉強になったのは銀座の寿司屋で、ここだけは5年いました。
自分は20代だけれど、お客様は50代以上。接待で使う方も多い店です。
もともと人と接するのは苦にならない性格ですが、若いけれど堂々と振舞うことは大事だと知りました。寿司屋はおどおどしてはダメ、経験があるように振舞う(笑)。それでいて偉そうにはしない。
26歳で板長になりました。
これまでのお客様が離れないように、売り上げを下げないようにとはじめは胃が痛かったですが、なんとか頑張った。
僕が辞めて一年後にその店がつぶれたと聞きました。

銀座時代

そして今の店を開きます。32歳の時です。
そこからはお陰様で順風満帆というか…今55歳ですが、やめたいと思ったことはありません。特に挫折も無い。
銀座はお任せが多く、接待だと箸をつけない人もいる。寿司を食べに来ているんじゃないんです。もっと言うと、その店の寿司じゃなくてもいい。
でも街場は本気で美味しい寿司を食べに来てくれる。お一人で、ご夫婦で、家族連れで…。お子さんが生まれた、おじい様が亡くなられた…そんなことも教えてくれます。お客様が亡くなられて弔電を打つこともあります。

病気をされて、先生の許可を得て退院され、まっすぐうちの店にいらっしゃる方もいます。病院食に寿司は出てこないようなので大変喜ばれます。
またお電話を頂き、病院までお好きなネタの握りを届けることもあります。
そういうおなじみの方が沢山いらっしゃいますから、やりがいがあります。
別れは突然なんだな…と思うと、一回一回がますます大事になりますね。

「梅川」外観

お隣
お店を大きくしようとか?

梅川
チェーン展開しては? と言われたこともありますが、同じ味を出すのは無理でしょう。寿司屋は、飲食店は技術だけではありません。業態にもよるとは思いますが。

うちも最初は大学生の女の子たちに手伝って貰ったり、ホールを10年以上やってくれたおばさんもいましたが、今は一人でやっています。
コロナで椅子を抜き、テーブルを止め、今はカウンターのみです。
お客様というのは何回も来てくれる方もいらっしゃいますが、また来ようと思っても来られないこともあるし、いい店だと思っても数年に一度とか…基本的にはいつも一回きりだと思って、大切に接客します。

お隣
本当に迷いがない方なんですね…私なんて迷ってばかりなんですが…

梅川
生き方に正解があるわけではなく、自分で決めて試してみるのが大事だと思うんです。僕のやり方が万人に向いているとは思えないし、例えば1つのところにじっくり腰を据えた方がいい人もいると思いますが、動くにしろ動かないにしろ、とにかく自分で決める。

そしてしばらく頑張ってもうまくいかないなと思ったら、ちょっと違うところに行ってみる。
角度を変えてみると、違う感情が生まれるんです。
そうすると自然に変化できる。

変わりたいなら、いつもと違う場所に行くことですね。

成功・失敗はどうでもいい、自分なりに正しい選択をした、と思えるかどうかが大事。
結果はどうであれ、やってみて良かった、挑戦して良かった、と思えるならいいじゃないですか?
とにかく、
僕はすべてを自分で決めているから、これまで後悔したことはないんです。

もちろん寿司屋でとんとん拍子だったのは、自分の実力だけというよりは修業時代に引き上げてくれる人がいたり、いろいろな幸運が重なったからだと思います。
何事もタイミングや運はあります。

あと僕は行った先々で可愛がられてきた。性格は強気だし嫌なことは嫌だと言いますが、あちこちのアルバイト先でよくしてもらったと思います。
実際自分の結婚式にはアルバイトで知り合った人が沢山来てくれましたし、アルバイトをやめてから随分経つのにふらっと店を訪ねても覚えていてくれた人もいた。
例えばライオンというビアホールで働いていたことがあるんですが、大きい店でアルバイトも沢山いるのに、何年もたって寄ってみたら
「あ、梅川くん」
って判ってくれたり。
マグロ漁船の漁労長も、今でもうちの寿司屋に食べに来てくれます。
「また船に乗せてください」
なんて冗談を言っています。

お隣
え、また乗りたいんですか?

梅川
乗りたくないです(笑)。
実際船を降りてからしばらくは夢でうなされました。これからまた船に乗らなくては…乗る直前で目が覚めるんです。
10年くらいはうなされましたが(笑)、面白いものでそれからしばらくすると、夢の中で冗談交じりに
「また乗ってもいいですよ」
と言えるようになっていた。

お隣
「苦労したい」と思って乗ったマグロ漁船でうなされるほど苦労して、それでも悔いがないんですね。

梅川
自分で決めましたからね(笑)

(おわり 収録・2023年9月)

梅川雅己(まさみ)さん

寿司屋「梅川」(東京・九品仏)店主。

2023年、梅川さんは現在も操業する第35福積丸に大漁旗を贈りました。

福積丸は大漁旗を掲げて出航し、今日も遠洋でマグロ漁に勤しんでいます。


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青柳寧子
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