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ロマ、トラベラーズ、放浪の音楽家たち

家族単位で移動するロマやトラベラーズ、また放浪の音楽家たちは、常に社会の偏見にさらされてきたため、これまで正確に知られていなかったり、正しく評価されてこなかったりしました。けれども、民衆の歌やダンス音楽を語る上で、ヨーロッパとイギリス諸島において、その音楽的展開に彼らが果たした役割はかなり大きなものでした。ハンガリー、イギリス、アイルランドにスポットを当てて、彼らの活躍ぶりを見ていきましょう!

(注:インド・ヨーロッパ由来のロマとアイルランドのトラベラーズは別系統とされ、呼び名も区別されます。)

中世の放浪の音楽家

10~13世紀のヨーロッパには、各地を放浪したゴリアールと呼ばれた修行僧やトルヴェール(または大道芸人ジョングルール 仏)、ミンネジンガー(のちの音楽職人マイスタージンガー 独)、などと呼ばれた旅芸人が、人々に歌や詩、器楽演奏、舞踊、寸劇などを披露していました。

イギリスではミンストレル、アイルランドではバードと呼ばれる詩人兼音楽家が、宮廷で儀式を行ったり、民衆を楽しませたりして、中世から17世紀半ば頃まで存在していました。

 

放浪のロマファミリーの誕生

自身のことをロマ(Rom)と呼び、それぞれの土地の言葉でツィガーヌ(仏)、ツィゴイナー(独)などと呼ばれるジプシーは、6~7世紀頃に北西インドのインダス川の中流から上流、パンジャブからパシミール辺りから移動を開始し、中世にはヨーロッパを旅をするようになりました。

フランスを移動するロマの一行 17世紀初頭


ジプシー(英)、と呼ばれたのは(スペイン語でヒターノ(西)、フランス語でジタン)、長いこと、ヨーロッパの人々から彼らがエジプトから来たと考えられていたためです(ジプシーは蔑視語なので、以降、ロマで表現を統一します)。

彼らは常に社会の片隅に位置し、金属加工、行商、馬の取引、占い、娯楽の提供などで生計を立ててきました。ロマのグループの中では、シンティやマニシュと呼ばれる音楽家が最も地位が高く、よい暮らしができました。

ハンガリーのロマと音楽

ハンガリーでは、1423年に国王が移動の自由を与えてから、ロマが存在するようになりました。

17世紀には、トルコが撤退し、再びキリスト教になります。教会の宗教改革のあおりで地元住民は「罪深い楽しみ」であったダンスと楽器演奏が禁じられたため、住民に代わってロマがそうした娯楽を担うようになり、プロの音楽家のほとんどを占めることになりました。

貴族の傍らにはロマのヴァイオリン弾きが欠かせないものとなり、18世紀の半ばには、地主階級のほとんどがロマバンド(ロマオーケストラ)を抱えるようになりました。

第一フィドル、第二フィドル、チェロ、
ハンマーダルシマーからなるロマバンド
19世紀ハンガリー

19世紀から20世紀初頭にかけて、エキゾチックなロマの音楽に魅了された多くのクラシックの作曲家が、ロマ音楽のエッセンスを芸術作品に取り入れました。(詳しくは、拙記事『クロスオーバーするクラシック音楽と民衆の音楽~①ヨーロッパ編』をご覧ください。)


民族主義とロマの音楽~リストとバルトークの論争

ロマが楽器を演奏するのは、ガージョ、すなわち地元民を楽しませ、報酬を得る手段としてでした。彼らはどこへいってもその土地の楽器を手にし、その土地で親しまれている曲をレパートリーとしました。

また、18世紀半ばからロマバンドは、地元の古い民謡を演奏したり、新しい歌を住民のために作ったりしていました。軍隊の勧誘のための「ヴェルブンコス」や「チャルダーシュ」といった種類の音楽も彼らによって生みだされ、のちにそれらは、最もハンガリーの愛国的なものとされました。「ハンガリーマイナースケール(ハンガリー音階)」もロマがトルコから持ち込んだ音階です。

このようなことから、ハンガリーのピアニストで作曲家のフランツ・リストは、1859年に『ハンガリーのジプシーとその音楽』という著書の中で、ハンガリーの伝統的な村の音楽とロマ音楽は一体であると主張しました。

一方で、ハンガリーの作曲家バルトーク・ベラは、ロマが退廃的で堕落した都会の音楽をハンガリーの農村に持ち込んでいるとし、ハンガリー語圏のルーマニア領トランシルヴァニア地方に出かけ、ロマに「汚染」されていない本物の民族的なものを探し出そうとしました。


ハンガリーの戦後とロマ

20世紀初頭に民族主義が台頭したヨーロッパでは、ロマはファシズムの犠牲となり、多くのロマ音楽家の多くも姿を消しました。戦後の補償もユダヤ人に対して行われたものに比べれば、無きに等しいものでした。

戦後には、ロマのための「ジプシーバンドスクール」が作られ、国中から子供たちが集められました(リンクで1967年の寮制の学内の記録映像が見れます)。

1952年には、社会主義イデオロギーに従った模範的な社会プログラムの一環として、国営「ラジコアンサンブル(The Rajko Emsamble 青年共産主義者連盟芸術家センターのジプシーオーケストラ)」が設立され、世界の舞台に立ちました。


スコットランドの放浪の音楽家

スコットランドのパティ・バーニ(Patie 〈Patrick〉 Birnie, 1635-1721年)は、放浪のフィドラーとして記録されている最も古い人物です。彼はコミカルな演奏と陽気な人柄で貴族たちに愛されました。スコットランドの音楽には、宮廷の音楽と彼のような放浪の音楽家の音楽が混ざり合っています。

パティ・バーニの肖像。彼のような放浪の音楽家が肖像画に残っているのは極めてまれです。
(国立スコットランド・ポートレイトギャラリー蔵)


イギリスとアイルランドの放浪の音楽家

かつて、盲目や身体の不自由な人の多くが楽器を演奏していました。彼らは、人の家や辻角、パブ、都会の劇場などで演奏していました。

『盲目のフィドラーThe Blind Fiddler』
スコットランドの画家 David Wilkie作 1785年
(国立スコットランド・ポートレイトギャラリー蔵)


軍服を着てフィドルを演奏する傷病兵 
18世紀イギリス 挿絵



盲目のフィドラー、18世紀イギリス 挿絵


アイルランドでは、古くからそうした人たちに18世紀まではハープを、17世紀以降はフィドルやパイプを教えました。彼らは音楽によって尊敬され、生きていくことができたのです。

ターロック・オカロランにつながる伝統的な流儀で演奏した最後のハーパー、デニス・ヘンプソンDenis Hempson (1695-1807年)
彼もまた、盲目の音楽家でした。


ウエールズのロマ

ウェールズにヴァイオリンが持ち込まれたのは1700年代で、彼らの伝説によると、ウェールズのロマ家長であるフィドラー、エイブラム・ウッド(Abram Wood 1699?-1799年)によってだといわれています。

エイブラムの一族は、その後2世紀近くにわたり、優れたハープ奏者を数多く輩出し、ウェールズにおけるハープの伝統を支えました(詳しくは『ウエールズの民俗音楽の歴史』をご覧ください。)

イングランドとウエールズの国境を旅するロマ

ウエールズに近いイギリス西部グロスターシャーに広がるディーンの森は、何世紀にもわたって石炭や鉄鉱石が採掘されてきた場所で、イングランドとウェールズの国境を旅するロマファミリーにとって大切なキャンプ地でもありました。

テントを張ってキャンプをするロマ。彼らはこの絵にも見られる幌や箱型のキャラバンを馬に曳かせて移動しました。
"Reproduced by courtesy of the Robert Dawson Romany Collection."

地元のイギリス人フィドラーのチャーリー・ボールドウィン(Charlie Baldwin 1827年生)は、この森で炭焼き職人として働いていました。炭を作る間、彼らは森の中で何日も寝泊まりします。チャーリーは森の中でロマフィドラーのロック(ジョン・ロック、ロック紳士と敬称で呼ばれていた)と知り合い、一緒にフィドルを演奏していました。ロック家の何人かはフィドラーで、20世紀初頭までこの辺りを旅していましたが、最終的にはシュロンプシャーに定住しました。

チャーリーの息子スティーブン・ボールドウィン(Stephen Baldwin 1873-1955 年)もまた父親と同様にフィドラーでロマと交流があり、彼らの結婚式に呼ばれてフィドルを弾いたときの話が伝わっています。

フィドルを弾くスティーブン・ボールドウィン
彼の子孫たちもまた、多くがフィドルや楽器を演奏します。


スティーブンが曲を習ったロマフィドラーの一人、ジョサイア・スミス(Josiah Smith 1820年代生)は、土曜日の夜に地元のパブでフィドルを演奏することで知られ、地元のモリスダンスのためにも演奏していました。

また、デボン州のロマ一家のレミー(レメンティーナの略称)・ブレイズル(1890年代生)は、家族と26年間アイルランドを放浪した後、1919年に帰英し、グロスタシャーに定住しました。彼女はマウスオルガンやメロディオンを弾き語りし、曲をたくさん知っていました。彼女の名が付けられた曲が残されています。


アイルランドのトラベラーズ

荒涼としたアイルランドのドニゴール地方に、音楽一家のトラベラーズが旅をしていました。もっとも有名なフィドラーはジョン・ドハティ(Johnny Doherty 1895-1980年)です。一家は金属加工職人としてこの地域を巡回しながら、フィドル音楽を地元住民のハウスダンスのために演奏していました。

野外でフィドルを弾くジョン・ドハティ。音楽収集家によって彼のよい録音がたくさん残されています。

彼の父親と4人の兄弟もフィドラーで、彼らは普段は木製のフィドルを好んで弾いていましたが、生活が苦しくなるとそれを売却し、代わりに新しく真鍮で楽器を作って演奏していました。

真鍮製のティンフィドルは、熟練した職人であれば、2~3時間ほどで作ることができ廉価でした。軽くて丈夫で修理がしやすく、普通のヴァイオリンより静かな音色だったので、子供や初心者、狭い部屋に住む人に好まれました。通常ネックは木製で、壊れたヴァイオリンから回収されたものが使われました。

状態のよいティンフィドル、イギリス、シェットランド、Stromness Museum


彼らの音楽は、プロインシャス・ムーニー(マーレイド・ニ・ムイ二―の父親)やジェームズ・バーンといった地元のフィドラーたちに受け継がれ、ドニゴールの音楽遺産となりました。


アイルランドを放浪するトラベラーズのワゴン
Reproduced by courtesy of the Robert Dawson Romany Collection



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トップ画像:『ボヘミアン・フィドラー』 Ida Silfverberg (フィンランド国立美術館蔵)1864年


参考動画:

ハンガリー国営「ラジコオーケストラ」の舞台の模様。社会主義体制におけるフォークリバイバルは、ステージ用にとステレオタイプな民族的表現になりがちですが、ハンガリーの曲の保存と音楽家の育成に大きく貢献しました。



現代のロマヴァイオリニスト、サンドル・ヤヴォルカイ。ハンガリーの首都ブダプタペストに生まれ、ウイーンで最高のクラシック音楽教育を受けた彼の伝統的な情熱的で自由なロマスタイルの演奏をお聴きください。彼は近年、弟のチェリストとたびたび、日本で公演を行っており、私も2023年に東京の初台で聴きました。客席へのアピールを忘れないロマ流の演奏は芸術でありエンターテイメントでした。


ポスターと著者。終演後は、演奏者たちが商売を始めるというロマの伝統のシーンもしっかり目撃しました。



イギリスのロマフィドラーの直接の演奏は残ってませんが、ロマから曲を習ったというスティーブン・ボールドウィンの演奏をお聴きください。



ジョン・ドハティ―の兄ミッキーが製作したティンフィドルで演奏するドニゴールフィドラーのヴィンセント・キャンベル。彼はドハティ家から多くのレパートリーを受け継ぎました。車輪を外した”動かない”キャラバンで「定住」しているのが衝撃的です。彼の人物については、『フィドルが弾きたい!』のp64 29. Vinvent Campbell's を参照。演奏している曲は、本書p102 58. The Rocky Road to Dublin です。



イギリスに暮らすロマの生活実態を、彼らの重大な人生イベントである結婚式を通じて世に紹介したイギリスの密着ドキュメンタリーシリーズ。現在イギリスには推定で30万人、アイルランドには3万人以上、ドニゴール地方には3000~5000人のロマやトラベラーズがいるとされています。差別と偏見の解消に向けて社会で取り組まれていますが、キャンプ場所、定住のための住居、雇用、医療、教育などで難しい問題が山積されています。


参考文献
Irish Travellers: Culture and Ethnicity

Room to Roam England's Irish Travellers Dr Colm Power

INTERNATIONAL LAW AND THE E W AND THE ETHNICITY OF IRISH Y OF IRISH TRAVELLERS David Keane


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