坂の途中のドーナッツ
なんだか気分が下り坂で、ため息が転がり落ちる。
フレックスで午後出社にして、ちょっとしたエスケープをすることにした。
神楽坂周辺には、たくさんの坂がある。
なかでも、東京メトロ東西線・神楽坂駅の北側に位置する《赤城坂》は、勾配がきついことで知られている。映画『天気の子』にも登場する坂だ。
標識にも「『・・・峻悪にして車通ずべからず・・・』とあり、かなりきつい坂だった当時の様子がしのばれる」と書いてあった。
ドーナツのような滑り止めの輪っか模様が、この先につづく急勾配をものがたる。
赤城坂は北に向かってまっすぐ下り、途中10メートルほど西にずれて、ふたたび北に下る坂。坂上から坂下の高低差は6メートルほどあるという。
その西にずれるタイミングで赤城坂をそれ、そのまま住宅街を西へ下っていくと、わたしの目的地がある。
インスタで偶然見つけた《ドーナツもり》。
道の上のドーナツ、もとい滑り止めの輪っかをたどっていくと、本物のドーナツにたどり着く。
このお店は、休みの日に自宅から行くには遠いし、会社帰りに寄るには閉店時間が早くて、なかなか行けずにいた。
30代のご夫婦が経営されている、古びた赤いトタン屋根の小さなお店。映画や小説に出てきそうなたたずまいだ。
2018年頃から不定期の催事を始め、2020年に満を持して神楽坂の路地裏に店舗をかまえたのだとか。
当初は週末営業のみで、平日営業が始まったのは2021年からだという。
ショップカードにある「大人がひとりじめしたくなる」という謳い文句には、パティスリーのケーキのように楽しんでほしいという思いがこめられているそうだ。
また、湯種作り・生地作り・揚げる工程に3日間かけており、無添加無着色、フルーツジャムやキャラメルは自家製、トランス脂肪酸不使用のパーム油使用・・・と、並々ならぬこだわりが詰まったドーナツである。
開店直後の11時10分、4畳半ほどの店内には先客が1名。1組ずつ入店とのことで、初夏の陽気のなか、店外で待機した。
この日は平日だったのですぐに入店できたが、土日は開店直後でもかなり並ぶらしい。
建物の昭和な外観に反し、バーコード決済や交通系ICカードが使えるのがうれしい。お会計もスムーズだ。
めあてのドーナツを素早く選んで店を出ると、すでに2人並んでいた。
大きなキャリーバッグをたずさえた年配の女性と、軽装の年配の女性。
オズマガジンやインスタを情報源とする年代がメインの客層かな、と思っていたので意外だった。平日と休日では、客層が大きく異なるのかもしれない。
この日は金曜日。大きなキャリーバッグの女性は、これから東西線で大手町へ出て、東京駅から新幹線に乗ってどこかへ行くのかもしれない。ドーナツは手みやげだろうか。
軽装の女性は、ご近所にお住まいなのだろうか。今日は午後からお友達が来るとか、お孫さんが週末に遊びに来るとか。ドーナツは今日のおやつだろうか。
わざわざ急な坂を上り下りして、住宅街の小さなドーナツ屋にやってくるひとびとの背景を、坂道物語として勝手に想像したくなる。
ひとつずつプラケースに入れてくれるため、グレーズのつやつや感も、まんまるのかたちも崩れない。
なにより、写真のように積み重ねられるので、コンパクトに持ち帰ることができる。おしゃれなドーナツが無粋なリュックにすっぽり入ってしまった。
ちなみにこのプラケースは「一部植物性原料使用」と刻印が入っていた。原料から容器まで穴のない安心安全、いたれり尽くせりである。
これは、年齢を問わず、急な坂を上り下りしてでも買いに来たくなるな、と食べる前からいい予感がした。
「わたしいま、希少価値の高いドーナツ持ってるんですよ」という小さな優越感と大きな高揚感をリュックに忍ばせ、会社へ向かう。
今回選んだのは、定番商品の3つ。
お店の方に「お日持ちは明日までですが、当店のドーナツは無添加なので、本日中のお召し上がりをおすすめします」と声をかけられた。
帰宅は20時を過ぎてしまったが、我慢できずフランボワーズとピスタチオを半分ずついただいた。
ドーナツ生地はふんわりしっとりで、パサパサ感やもさもさ感が全然ない。
ベリーの風味を残しながらも、酸味を抑えたやわらかな甘みのフランボワーズグレーズ。
ナッツの香ばしさがしっかり残った濃厚なピスタチオグレーズ。
丁寧にじっくり仕上げた手づくり感が感じられ、舌にも胃にもやさしい。
つやつやのグレーズがとろりとやわらかく水分量が高いので、口の中の水分がもっていかれない。揚げているドーナツなのに、油っぽさはほとんどなく、後味が軽い。
まさに、ケーキ感覚でいただけるドーナツ。
紅茶生地のバニラシュガーは翌日いただいたが、紅茶の上品な香りがしっかり漂っていた。
2日目になると少し生地がしまってモチモチした食感になるが、油っぽさはない。食感の変化が短期間で楽しめるのも、手づくりならではだろう。
実は、この日の午後から3日間連続、ひさびさに大勢の人の前で20分ほど説明をしなければならない会議があった。
人前に立って視線を浴びるのも、声変わりしたての少年のような声で長々話すのも苦手である。
不足なく、かつ正確にわかりやすく伝えなければ、と思うとつい早口になってしまい、酸欠で自分でも何を言っているかわからなくなってしまう。
エスケープのおかげで、つまっていた息はドーナツの穴くらいの風穴があいて、少しだけ呼吸がしやすくなった。ゴツゴツしていた気持ちも、ちょっとだけなめらかになったような気がした。
これが、グレーのジャケットに黒いリュックで坂の途中のドーナツ屋を訪れたわたしの背景(坂道物語)である。
あとに並んでいたおふたりの年配女性には、実際にどんな背景があったのだろう。
神楽坂から伸びるたくさんの坂のように、坂の途中の《ドーナツもり》からは、たくさんの物語が生まれているのかもしれない。
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