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世界フルリモートを選ぶまで、27歳のキャリアストーリー


0. 現在の私

27歳、世界フルリモートを会社員として実現している(つもり)の海と申します。6ヶ月前にマレーシアから、ヨーロッパのとある国の金融関係へ転職しました。仕事内容はほとんど同じでいいんだけれど、ただ自分は家で心地よく働きたい!という思いから転職をし現在は実家で過ごしています。貯金をしつつ、未来のプランを立てている最中です。

人生を通してありたい姿は、人間ビタミン剤になることです。

1. 就活せずの大学生

青山学院大学出身で周りみんなが真っ当に就活をする中、私は夢があり、友人と2人でクラウドファンディングの計画をしていました。大学3年生から動き始めていた関係で、両親にその思いを伝えて活動していました。アルバイト三昧をして貯金、趣味の海外旅行も楽しみつつ、無意識的に就活という言葉は頭に入ってきませんでした。

しかし卒業間近の12月、友人とその夢を断念することに。そこから私はバーンアウトを経験しました。いわゆる社会と分断するという形で、SNSやLINEから一切離れ、心配されているそのメッセージを読むことができないくらい状態でした。想像してはいけない究極の選択を検討するくらいで、今振り返ると一人で孤独に時間を過ごす選択をし、見えない何かからバリアを張ることで自己防衛をしていました。

この状況は自分にとって立て篭もっている感覚で、常にびくびくするし、物音にも光にも、実家暮らしで聞こえてくる両親の声にも過敏に反応していました。怖くて怖くて仕方がありませんでした。

2. 自然治癒?オーストラリアへ

立てこもった時期や復活していったあたりについて実は記憶がなく、どのようにしてか、次何かしなきゃいけないなら海外生活しかない、とすがるように情報をかき集めました。「A4の紙1枚でプレゼンして」と父にいわれた通り、まとめて提出した覚えはあります(汗)。

きっと、何かしなくては自分は終わってしまう、と思っていたかもしれません。何かしなくてはいけない、ならこの生きづらい(と自分が閉じた世界を勝手にそう感じていた)日本を離れるしかない、とその道しか見えませんでした。

そしてフィリピンで1ヶ月、オーストラリアで10ヶ月ほど語学学校へ通いました。そこで知り合った友人たちとは、3年以上たった今でも連絡をとり続けています。同志、という感覚なのか自由でそれぞれが心から楽しんでいるように、今でも日本でできた友達とは違って、なんだか輝き自由で、本当の意味で心のしぶきがきらきらして見えています。自分の思考の癖ですね。でも生きている感じがするんです。また別の記事で、海外への思いを書いてみようと思います。

その中で自分の生きがいとなったのは、語学学校でのバリスタとしてのボランティアワークでした。賃金はもらえないアルバイトの感覚で、学校内で放課後コーヒーを作って出すことを先生と一緒に立ち上げました。

バリスタとしての魅力は、2つありました。
・コーヒーマシンを扱う楽しさ
・お客様と1:1、浅いが一瞬でポジティブな空気になる感覚

これを最高に楽しいと感じつつ、当時、永住権獲得も調べたりしていました。惜しくもコロナによるロックダウンで帰国しました。

3. フリーター

実はオーストラリア生活の前に、手書きで父に約束した誓約書がありました。その3箇条のうちの1つが「帰国したら社会人になること」でした。

しかし、コーヒーのスペシャリストになりたい!との思いで、なぜか社員ではなくアルバイトのフリーターとして2社の面接へ赴きました。ここれを父は忘れていたのかグッと飲み込んだのか、いまだに分かりません。

ありがたいことに、第一希望先はオンライン面接、店長さんとの最終面接までスムーズに進みました。しかし、コロナ本格化により取り消しとなります。ショックよりも仕方ないという気持ちの反面、今でもあそこで働いていたらどうだったかな、と心残りもあります。

その後、ふらっと遊びで入った大手チェーンのとある店舗でのバリスタさんの姿、その建物の壮観に圧倒され、自然に惹かれてアルバイト入社しました。面接で「コーヒーのスペシャリストになりたいんです」と一生懸命伝えた場面は、鮮明に思い出すことができます。純粋な気持ちだったんだなと振り返ります。

そこから1年弱、全国の店舗から選抜されたメンバーを先輩方にもち、時には日本一のタイトルを持つ方にシェイクの仕方を教わったりと、とにかく学ぶ姿勢を受け止めてくれる温かい職場で過ごしました。

3.1 上には上がいる、スペシャリストの壁

レベルの高い環境に囲まれた中で、バリスタとしての経験も未経験で飛び込んだ私は、自分の「先輩のようになれる日を目指す」その志は打ち砕かれます。これはシンプルなミスだった…と違和感ポイントを知覚するようになりましたが、誰もがレベルアップしようと全員が上を目指していた環境だったからです。自分の目標設定も明確ではない、なんとなく抽象度の高いスペシャリストへの道は、到底なれず、むしろ不向きなんだと自覚する瞬間が日々増えて行きました。

経済的にも厳しかったです。その中実家を出たいと1人暮らしをしたり、さらにコロナ禍のフリーターです。生活の条件面でも厳しくなりました。3店舗の掛け持ちをし、お客さんとの楽しいはずの接点もその瞬間以外、心は疲弊し精神的にも追い詰められました。そして全て退職をしました。

2回目のバーンアウトでした。

4. 3年遅れ就職活動

そこから誰にも相談することなく、再び、時間がかかりながらも心は復帰しつつ実家へ戻り、もう自分のやりたいことをやるのは一旦やめ、父と過去に約束した「社会人になる」ことを1年越しに選択しました。その時お世話になった転職エージェントの女性キャリアアドバイザーに憧れ、スタートアップの人材紹介事業を志望しました。

第一希望の会社に入れたので、そこからはもうハッピーです。会社も大好き、人も好き、やっていることも1:1のコミュニケーションから始まる人材紹介業でした。しかも最終面接から数日たち、3日後から入社する人もいるので、一緒にどうですか?と想定より早めのスタートを提案されました。社会人としての知識が全くない私は、人事のその一言を「期待されている、よっしゃ」と勘違い、喜び・期待いっぱいで入社をしました。

立ちはばかるのは営業成績の壁。スタートアップで、社長との年齢差は1年、ほとんどが同い年かそれより下の社員30人ほどの規模感。同時入社の他の2名に明らかに見える数字の差で置いてけぼりになりました。「できちゃう」タイプの元々インターンをしていた新卒、同い年でての抜き方が上手な「2社目」の彼女。この二人には本当に助けられながらも、もう自分は情けない気持ちでいっぱいでした。

結果、4ヶ月で離職しました。原因は、周りに助けを求めなかったことでした。人に頼ることが自分の苦手なことだと、この時に初めて知りました。会社を辞めた今でも、会社の人たちが好きです。しかしその付き合いは途切れてしましました。

5. 海外転職

多くは書きませんがその当時のパートナーの影響で、マレーシアへ海外転職をしました。現地採用です。マレーシアのキャリアアドバイザー5名ほどとコンタクトを取り、一番相性のいい方と一緒に準備をしました。といっても履歴書は友人のネイティブスピーカー2名に添削してもらい、おんぶに抱っこでした。ここでは人に頼れていましたね!すごくスムーズで、転職エージェントとはマレーシアでご飯も行く仲になりました。

その後、キャリアアドバイザーとして1社目でやりきれなかった思い、対人支援を学ぶためにポジウィル認定講座を受講。その後は、以前の記事に繋がります。

自分の投稿で一番反応があったもので、素直に嬉しいです。今の自分の選択を他の方に読んでいただき、反応をもらうことなんてなかったからだと思います。自分の選択を振り返ることも少ないなか、FBをもらうような感覚です。それでいいんだよ、という風に今の自分は受け取っています。

以上、私のキャリアストーリーでした。

後書き:この記事を書いた理由

自分の話をすると、周りから「海外転職すごい」「行動力すごい」とポジティブなのか驚きなのかわからない反応をいただくことが、ちょっとだけ多いです。
すごい、って一体どういうこと?という切り口から深掘りしたくなります(キャリアデザインで学んだ、自分と他人の言葉の定義にズレがある話)。

3日前、キャリア開発支援の仲間とご飯を食べていて「海ちゃんのこれまでの話をもっと読みたい」と言ってもらえました。でもちょっと気が重い、というか面倒臭い(笑)話したほうが早いよな、と思いつつも同じキャリア開発支援仲間のキイロさんの記事から、自分もキャリアの変遷を書いてみようと思います。

というのも、いくつか共通点があり、でも書いてみるとまた色の違うストーリーを並べて見るのも面白そうかな?という、なんとも身勝手な自己理解のためでもあります。


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