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ただ日常を泳ぎたい

アーティスト、をやっていると過激な表現にも理解がある、と思われる。

そのとおり。理解はある。ただ正確にいうと、理解したくもないし、苦手で正直見たくない表現はある。そう、わたしにも苦手な表現やテーマはあります(しかも結構ある)。でも、それら全てが赦されているのがアートだと思っている…し、苦手な表現を見た時にウワッと思った気持ちを大事にしたいし、そのあとの"なぜ"に意味があると感じている、ので、排除ばかりする世の中は違うと思っている…。「なぜ、自分はそれが苦手なのだろう」という思考こそ芸術の意義だと思うのである。

ずっと言ってるけど、何かを賛同することは意図がなくても何かを否定することになる。否定の意図はなくても、「否定ではないか」と言われる世の中であるな、とわたしは体感している。だけど、それを恐れる必要はなくて、自分の意見はそれはそれ、他人の意見も排除するのではなく理解をする事が大事だと思う。いや、なんなら理解も必要はないのかな。とも思ったりもする。難しいね。
人生は誰ひとりとして同じではないのに、理解を求められる。よくよく考えると、めちゃくちゃ孤独だ。どこを見ても自分と同じ人はいない。この世界にみんなたったひとりきりで、似ているのは外見のおおよそのかたちだけ。そんな中で過ごしてきた経験が自分とは違う生き物を理解し、一緒に生きていかなくてはならないのだ。大変だなあ。

近頃のTwitterを見ていると、誰かが何かを叩き始めるとみんなでリンチみたいにぶっ叩くの正直キモいなと思うし、意見言わないとヤバいみたいな扱いをされるのもキツいし地獄鍋みたいですごいな〜と思っている。(これは他の記事にもした)

そんな地獄みたいな世界で、ひとつだけ絶対に大事にしたいと思っているのは"流されてフラットにならない"ということ。意見を持つ。中立を取るならなぜそこに自分がいるのかを常に考えるということ。中立も悪いことではない。でも、思考停止と忖度の中立は一番よくない。私には思い当たる節がいくつもあり、どれもこれも苦い思い出になっていて、いつまでもしこりとして記憶に張り付いている。

人生は自己責任の選択ゲーだと友人が言っていた。その通りだと思う。だから、いつも自分の意思を明確にしていたいと思う。どんな意見も、当たり前に存在していていいと思う。でも、全部を受け入れ共感する必要もないと思う。そして、多様性が認められた社会というものは、自由であり、選択の連続でもある。わたし達はそれぞれの信じる倫理観と価値観をもって何を大切なものとするか選び、この世界を生き抜いていかなければならないのだ。

どうかアートがこれからもその助けになる存在であって欲しいと私は願う。

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