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「苦手」は「得意」になるための材料

小学校の夏休みには必ず宿題が出た。その中でも一番大嫌いだったのが読書感想文だ。

何故本なんて文字ばっかりのつまらないものを読まなきゃいけないんだろう。何で感想なんて書かなきゃならないんだろう。どうせなら絵本とか漫画とかにしてよ。きっとそう思っていた人も多いはず。

かくいう私は小学1年生の夏休み、最終日に母に泣きつき、母親に頼って文章を考えてもらっていた。

その後その作文がクラス代表に選ばれた時、嬉しいはずなのに全く嬉しくなかった。感じられたのは絶妙な気持ちと虚しさだけだった。それ以降作文は難しくても自分でしっかり書くようになった。

しかし毎年毎年出てくる読書感想文の宿題はやっぱり一番嫌で仕方がなかった。何故なら作文とは初め、中、終わり、のように文章構成が決まっていて、しっかりとした言葉遣いをしなくてはならなかったからだ。とにかく堅苦しいのだ。「、」は行の先頭につけないとか、なんか細かいルールがあった(思い出せないけど)それが嫌で嫌で……

そんな積もり積もった鬱憤が収まりきらなくなったのか、中学生2年生の国語で出された作文の課題に、構成も気にせず思ったことをそのまま書き殴った。

その時の作文がクラス代表に選ばれた。
びっくりした。
担当の国語科の先生は、「うん、いいよね〜こういう視点で書いてる子はあんまりいなくて、印象に残ったんだ。面白いよ。」と。

なんだ、自由でいいんじゃないか。
そうか、だから「感想」文なのか。と理解した。
感想だから自由に思ったことを書けばいいんだ、と。

それ以降、今まで苦手だった文章を書くことが楽しくなり、言葉をもっと知りたいと思うようになった。

高校生になってからは大学入試のため、小論文を書いたこともあった。言葉の表現の幅も広がって、文章の中から色が見えるようになった。その練習でも褒めてもらうことが多くあった。

大学入試の小論文は緊張しすぎて失敗したものの、その練習期間は今になっても仕事で活かせている。分かりやすいメモを書く時には文量を考えながらまとめて、相手に必要な情報だけを簡潔に記す。

そして今ではこんな風に文章を書き残すアプリを使いながら、誰かが私の言葉を見てくれたり、私が自由に表現できる場所で好き勝手綴っているのだ。文章なんて読むのも書くのも大嫌いだった私が、嫌々ながらも毎年の課題に取り組んだ。その地道な努力がたまたま功を成したのか、得意分野に変わったのだ。

苦手なことは得意の材料になりうるということだ。

大学では国語科の教員免許を取得するまで学び、社会人になってからは後輩に文章の書き方を指導することもあった。

私は苦手だったから、相手がどういう視点で文章を見ていて、何に苦手意識を感じやすいのかが分かる。苦手から得意になった人は、誰かにそれを教える時に他の人と差がつく。

ただ物事が得意な人と、苦手から得意に変わった人とではものの見え方が違う。(運動や音楽美術というような芸術分野は先天的な才能がある場合もあるので除いて…)特に教育分野においてはそれが顕著に現れると思っている。

昔、小学校教員だった父に、算数の分野でも難しいと感じていた「分数」について何度か質問したことがあった。父は一生懸命教えてくれたのだが、私にはどうやっても理解できず、何度も「分からない」と言って父を怒らせてしまったことがある。

高校生になった時にたまたま父とその話をして、「あの時は未熟だった…」と謝る父に、私はこう言った。

「お父さんは小さい頃から算数とか数学とか得意だったんでしょ?だからこの説明なら伝わると思ったんじゃない?お父さんが悪いわけじゃなくて、自身の経験からこうすれば伝わると思って、お父さんのできる説明を沢山してくれたんだよね。」

「私思うんだよ、苦手だったからこそ教える時に苦手な人の見え方が分かるから、自分も経験してるから、苦手な人に向けた説明も上手くできるんじゃないかって。苦手な人にしか見えない視点があるんだろうなーって。」

そう。これは私が高校生の時に数学の難しい問題をクラスメートに説明した時気づいたことだった。「影音ちゃんの説明めちゃめちゃ分かりやすい!なんで??」

私も不思議だった。

当時私も数学は苦手だったが、「この表現で躓いてたんだよな…」という、苦手だった部分をより自分なりに噛み砕いて説明していた記憶がある。

時を経て、父と向かい合った会話を通して、その瞬間に点と点が結びついたのだ。


1つ誤解のないように言いたいのは、苦手な人だけが説明に秀でるというわけではないということ。何故ならば、得意な人だったとしてもどこかしらに疑問や苦手に感じてしまうところはあるからだ。重要なのは得意な人の場合、その苦手を見つけることが難しい傾向があるのではないか、ということ。

これはあくまでも私の考えだが、得意なものは好きなことになりやすい。そうなると、苦手という意識を感じにくく、いつの間にかその苦手なことも得意になっていて、苦手だった時の見え方や考え方に意識が行きにくくなる。結果としてどうやってできるようになっていたのか、苦手から得意になるまでの過程を覚えていない人が殆どだと感じる。

得意なことでも意識的に何が難しいのか、それを自身の中で感じ取り、自分なりに言葉にして、その時のことを良く覚えておくことが鍵となるのかもしれない。



どんな場面でも、苦手なことはある。
それは人によって違うけれど、地道にやってみて、苦手だからこそ分かること、感じられること、分かりやすくなるための対策を見つけられるはず。

それは、他の人にはない、貴方だけの強力な武器になる。
苦手なものとは、着実な力となる武器になりうることもあるのだろうと、私は思う。

※写真は昨年の秋に訪れた「三峰神社」(埼玉県秩父市)の参道で目にした紅葉の風景。今まで見た紅葉の中で一番綺麗だった。今度はいつ行けるかなぁ。

※一部文章が抜けていたため、再度訂正しています。(2024.7.29)

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