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新約聖書 ルカによる福音書 18.9-14 「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ

*2016年4月12日に書いた記事のリライトです。

日清カップヌードルのCM「バカやろう」が、苦情が原因で放送禁止になったらしい。
目立ったこと、人と違うことをすると、必ずと言っていいほど批判がどこかからやってくる。

狩猟も、生き物を殺める。という行為ゆえ、批判の対象になりがちな分野だ。
僕自身が直接的に批判されたことは(たぶん)まだ無いのだけれど、狩猟行為に対する批判や今回のCMに対する苦情のように、”正しさ”を振りかざす一部の声を聞くたびに思い出す聖書の一節がある。

自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でもなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
− 新約聖書 ルカによる福音書 18.9-14 「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ

キリスト教では人類はみな罪をもって生きているとされる。
それにもかかわらず、一部の人たちは自らの罪を見ようとせず悔い改めることもなく、わかりやすく罪を犯した者を”正しさ”を振りかざし糾弾する。
“正しさ”を振りかざす彼らを非難するつもりはないのだけれど、ただ、悲しいな、と僕は思う。
その批判には愛があるのだろうか。

まぁ、彼らのことは実際のところどうでも良い。
それよりも重要なのは、罪を犯したものであってもその罪を認め悔い改め生きていけば、いつかは救われるということ。批判の声など気にするなということだ。
狩猟、獣の生命を殺めるという行為が、ひどく一方的で暴力的な行為であることに変わりはない。
いままで続いてきた生命の営みを一瞬にして奪う行為なのだから。

僕はその罪を犯したものとして生きている。しかし、その罪を他人から批判される義理はない。
そして、僕はこれからも罪を犯し、罪を認め、悔い改めて、生きていく。
それが、僕にとってなによりも大切なこと。
ps. 狩猟における悔い改めとは、祈り、感謝ではないだろうか。と、僕は思っている。

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2019年10月24日 加筆;

3年以上前に書いた記事だ。
いまだに、いや当時よりもさらに、わかりやすい"罪"を犯してしまった人を、まるで親の仇のように糾弾する、"正しさ"を振りかざす正義の人が増えていると感じる。

ピエール瀧さんの事件の時などは、ほんとうに悲しい気持ちになった。高齢者の運転事故に対してもそう。
もはや娯楽の一種だ。定期的にあらわれる生贄を、よってたかって責め立ててなぶり殺しにする。それを無自覚に、自らを"正しい"と思い込んでやっているからなおタチが悪い。

もはや"正しさ"や"正義"は、他人を傷つけることを正当化するための言い訳でしかない。

自らを正しき正義だと信じて、他人へ石を投げようとするときには、一度、鏡をみてほしい。
どんな顔をしていますか?優しい顔でしょうか。怒った顔でしょうか。憎しみに歪んだ顔でしょうか。いたぶる玩具をみつけて喜んでいる顔でしょうか。それは、本当に正義の味方の顔でしょうか。

…本当に?

i hope our life is worth living.


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