【比較コラム】司馬遼太郎の集大成『この国のかたち』と『街道をゆく』

―司馬史観と司馬文学の集大成

四の五の言わず、まずは『街道をゆく』第1巻の冒頭に触れる。

「近江」
というこのあわあわとした国名を口ずさむだけでもう、私には詩がはじまっているほど、この国が好きである。京や大和がモダン墓地のようなコンクリートの風景にコチコチに固められつつあるいま、近江の国はなお、雨の日は雨のふるさとであり、粉雪の降る日は川や湖までが粉雪のふるさとであるよう、においをのこしている。

ずっと、この調子である。以前、なかなか読み進められないと、言及したことがある。この冒頭を読んでいただければ、その理由がわかってもらえるのではなかろうか。

『街道をゆく』は、1971年より亡くなられるまで「週刊朝日」に連載された、未完の紀行文である。

『この国のかたち』が司馬史観の集大成であることは、前に触れた。一方の『街道をゆく』は、司馬文学の集大成であろう。

胸ときめくような、うっとりするような美しい表現が、司馬作品の魅力のひとつである。その表現こそが、司馬文学の神髄であると思う。

行く先々の情景を美しく讃え、出会った市井の人々を瑞々しく描写する。『街道をゆく』に、司馬文学のエッセンスが凝縮されているように思われてならない。

『この国のかたち』は、居ずまいを正しながら、あるいは眉間にシワを寄せながら対峙するような作品である。

一方の『街道をゆく』は、朗らかにニコニコしながら、司馬さんの美しい表現に、ただただ酔いしれる作品である。

『この国のかたち』は、あくまで冷静に客観的に書き進められ、『街道をゆく』は自由闊達でときに主観的に書き進められているように見える。

ただ、読み込んでいくと、主観と客観は逆なのではないかと思えてくる。

『この国のかたち』は、讃えと歎きを繰り返しながら、時代を浮き彫りにしていく。それは、ときに容赦のないものだが、讃えも歎きもすべて受け止めるという司馬さんの覚悟みたいなものが伝わってくる。

実際に書かれていないが、言説の後にはすべて(私もそんな日本人のひとりである。)が隠れているようで、そこに司馬さんの主観というものが浮き彫りになっているように思える。この国のかたちを追いながら、司馬さんが自身のカタチを探る紀行文なのではないかとさえ思えてくる。

『街道をゆく』は、まさに街道をゆきながら、この国のかたちをディティールから明確にされようとしたのではないか。自由闊達に書きながらも、寧ろ一歩引いたような客観性が感じられる。

両作品は司馬さんの集大成であり、最高傑作であろう。

そうして、ただ押し頂いていても始まらない(読めない)。筆者も司馬さんの旅に随伴させていただこうと思う。両作品とも、書き下ろしではなく、雑誌連載であるため、1篇はそれほど長くない。

旅の感想はここに書かせていただく。そうすれば、より真摯に司馬さんと向き合うことができる。

1篇ずつ1篇ずつ丁寧に。各駅停車の鈍行どころか、途中停車ばかりになりそうだが…。

【司馬さんとの旅日記】として、不定期連載していく。

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