印象派ライティング
自分が感じた「印象」を、そのままキャンバスに表現しようとしたのが、「印象派」の画家たち。
ただ、印象派の作品が出始めた当初は批判が集まり、世間には受け入れられなかったのだとか。
それまでは「黄金比」のような「型にハマった美」を重んじる絵が好まれていたわけで、「美しく見える構成」を意識して絵を描くのが当たり前。
印象派の作品のように、境界線も曖昧で、絵の筆跡がモロに分かるような絵は受け入れられなかった。
つまり、「誰がみても美しい絵」を描くのが「正解」とされていたのだ。
でも、その後、徐々に印象派の絵が評価され、モネ、ルノワールなどが活躍することになる。
こういった流れは、あらゆる表現活動にも通じるように思う。
今までは「こうやれば万人ウケするよー」といった「型」に合わせて表現するのが当たり前だったのが、、、
みたいに、それぞれの「主観」を表現するようになったということ。
「主観の世界」には「明確な型・正解」なんてもちろん無い。
言うまでもなく、感じ方は人それぞれ。
自分が感じた「印象」をそのまま表現したいという欲求は、当時から誰しも持っていたのではないかと思う。
それは文章も同じ。
読みやすい文章構成、伝わりやすい文章構成、SEOの評価が高くなりやすい文章構成・・
色々な文章術が世の中に出回っているし、そういったノウハウを活用し、「目的」に沿った書き方をするのも一種の「正解」と言える。
「きれいに整った文章」というのは、文章に引っかかりが無く、スッと相手の脳内に入っていくような「やさしい」文章だ。
ただし、スッと入るけど、引っかかりがないから、スッと出てしまう場合もある。
では、逆に「整っていないイビツな文章」はどうだろうか?
ん?この人何言ってんの?どういうこと・・?
みたいな「引っかかり」があると、引っかかっている間は、相手の脳内に残ることになる。
とはいえ、あまりにも意味が分からなすぎても、引っかからずにスルーされてしまう場合もあるので、バランスは難しい。
「型」に合わせて「整える」というのは、つまるところ、「没個性化」である。
整えられた創作物は、確かにきれいかもしれないが、そこに「自分」の影は薄くなってしまう。
一方、「印象派」の描く絵は、自分が「赤・激しい」という印象を受けたなら、激しい様子をキャンバスの上で必死で表現するわけだ。
そういった表現の中に、「整える」という概念は無く、「主観」をハッキリと示すことに振り切っているように思う。
確かに、世の中で活用されている「型」を学ぶのは大切。
ただ、「型」を活用するつもりが、「型」にハメられて「主観」を削られてしまうというのは、本末転倒なので気をつけたいところだ。
自分の主張をハッキリ伝えることができるのなら型を使うもよし。ただし、型を使うことで「自分という存在」が弱くなるようであれば、
「型」なんてゴミ箱に捨てて、自分の感じた「印象」を必死で言語化したほうが、よっぽど読者に伝わると思う。
以上、
今回僕は、「印象派」という画家達から受けた「印象」を、文章にしてみたというわけだ。
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