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憂さを晴らす

気持ちが落ち込む原因がなんであるかは正直よくわからない。いわゆるトリガーと呼ばれるスイッチが入って自身の制御が効かなくなるわけだけれど、わたしはそれがなんだかまだわからない。
特定の天気、場所、人間、天気、のあたりまでなら思い当たることがないわけじゃない。だからそういうトリガーについては対応準備と対応策がいくつかあるので、あまり慌てることはない。
しかし突然やってくる鬱の緞帳にはまだまだ経験がたりないのか、旨く対応できず押しつぶされたように遣られてしまう。
憂さを晴らす。というのがあるけれど、最近しみじみ「いいことばだなぁ」と遠く眺めて羨ましく思う。自分の抱える憂さを晴らせる方法と元気があるというのは、意外に簡単なものじゃない。
憂さが大きくならないように、なるべく小さなうちに晴らしておく必要もあるだろうし、憂さによって晴らし方の方法もいくつか用意していなければ、いつも同じ対応で事が済むとは思えない。
つまり、脳内も身体も柔軟に機敏に動かしていなくては「憂さを晴らす」のは難しくなるのである。
なるほど、たしかに私もパリ住みのころは「憂さを腫らす」手立てをいくつも持っていたのだ。
子育てと仕事と生活と、妻と母と女と人間。という衣装をとっかえひっかえの時間の中に、それぞれ「無礼講」のような出鱈目が仕舞ってあった。
それらを紐解いて眺めてみれば、さまざまな形と色彩で手の中にしっくり収まるのだ。私の愛おしい人生という時間をかけて培った経験の賜達。
こういったものをまた利用して、心の病から抜け出したい。と強く思う。
しかし心の病も2度目の罹患で「酒は憂いを払う玉箒」にならぬことを、わたしはもう充分に知っている。
だから「お酒」の扱いは慎重だ。それに替わる玉箒が、この雑文になればいいのだけれど。などと思いながら雨の音を聞いている。

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