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【キャリア】「天才」が生まれやすい時代において、「何者か」の問いとの向き合い方

テレビ番組から得た情報をもとに、着想をつらつらと綴ってみる。

たまたま流れていた教育テレビ番組に、落合陽一さんが出演していた。
小学生たちからのピュアな質問に、落合さんが回答していく流れ。
「現代の魔法使い」って紹介されていた。

落合さんが仰っていたことの中で印象深かったことは、

・天才の定義は、2種類
「1つのことをずっと突き詰められる人」と「人が思いつかないことをする人」
・今は「天才」が生まれやすい時代

ふむふむ、という感じで聴き入ってしまった。
天才の定義について、非常に腑に落ちる。

「天才」が生まれやすい時代か否か、については、今までそういう視点を持ったことなかったけど、昔と比較したら確かにそうだよね。
さまざまな環境整備や社会状況を踏まえると、自分が子どもだった頃と全く違う世の中になっているし。
好きを突き詰められることが受容される世の中だし、それが社会にとっても、すごく意義あるものになり得る。

また、こんな風にも仰っていた。

・天才は、やっていることが、「その人じゃないとダメ」ってこと。

これについても、ふむふむと聴いていた。
その人がやることによって、より価値があるってことか。
他の人にはマネできない何か、到達できない域にいるのが天才。

だけど、なんか引っ掛かりがあって、その後いろいろと考えを巡らせてしまったので備忘録的に残しておく。

職場での自分をモニタリング

昨日の文章にも通ずるのだけど、私は人から「珍しいことやってるね」と言われる路線の仕事を担うことが多い。
学校に勤めたことがある人はイメージが湧きやすいと思うのだけど、毎年ステレオタイプに決められている仕事はあって、私のように新しいことを始める際には(もちろん関係分掌に通れば)、自分の任されている仕事以外にプラスαしてそれを「担わせて」もらうことになる。
もちろんそれは、通常の「やらねばならないこと」を疎かにしないことを条件に。

小さな失敗を繰り返しながら進めていくので、最初から完璧にはいかないけれど、誰もこれまでやってこなかったことなので当然の状況だし、新規開拓ってそういうものだと心得ている。

そしてこれが、自分のスイートスポット発見につながって行くということを結果的に悟ることになる。
前向きに生存戦略を立てていく上で「私じゃないとダメ」的な活動の発掘である。
私は「天才」ではないのだけれど、落合さんが言うところの、ちょっとした「その人じゃないとダメ」っていう視点とのつながり。
少し大袈裟にいうと、存在意義にまで通じたりもして、なんか満たされる。
専門性を高めなきゃっていう意欲をモティベートしてくれて、継続できれば立派な無形資産になっていくのだとも感じる。

ここのところ、自分のオリジナリティや独自性、キャリアにおけるスイートスポットなどを考える機会が増えています。
産後のキャリアプランを考える上で、限られたリソース(特に時間)をどう活用して生存戦略を立てていくかっていうのが、アラフォー世代、特に育児真っ最中の人たちにとって、結構大事だよな、としみじみ感じているわけで。
だからこそ、自分が生き生きやっていけるフィールドを見つけることは大切なわけで。さらに言うと、そこがそんなに苦労しなくても勝算がある場所が一番良いわけで。

で、ここで過去を振り返ってみる。

「属人化」からみるジレンマ

私は産休に入る際、多くの人からこう言われた。
「大丈夫、あなたの替えはたくさんいるから」と。
この言葉、「だからお母さん業に専念して大丈夫よ、こっちのことは心配しないで」の意だと思う。
育児は大変だ。心身共に相当すり減らす。
それを経験した方々からのエールだと容易に理解できる。
そしてこの言葉は脈々と受け継がれていて、言われた方たちが、同じ境遇の若い方たちに、また同じように言っていくんだなって悟った。

嬉しかったです、言われて。
でも、モヤッとしました。
これから子どもを産む直前だったのに、なんかモヤッとしたんです。
そうか、私には替えはいるのか、と。

で、これを考えていたときに出会った「属人化」の言葉。
業務を特定の社員のみが担当して、その人にしかわからない状態になることを言うらしい。「誰が何をやっているか分からない」という状況にもなり得るのだとか。
そういうデメリットの対処として、仕事は属人化せず、仕組み化して、担当者が何らかの事由で業務を離れざる得なくなったとしても、誰か別の人が容易に担当を引き継げるような形態に日頃からしておくってのを推奨しているってことか。

スイートスポットと属人化は区分して考えた方が良いことなのは分かってはいるのだけど、どうもごちゃごちゃに混ぜて考えてしまうのには、教職という特殊な現場で仕事していることが影響していると考察している。

教員は、各教科のスペシャリストでありながら、生徒や学校にまつわるさまざまな業務に携わらないといけない。
言わば、スペシャリストでありながら、「ゼネラリスト」として仕事をしていくことが求められる風潮が強い(うちの学校だけ?)。
でも個人的には、スペシャリストっていう枠組みは建前であって、どちらかというとゼネラリスト寄りの資質の方が、学校という組織の中では有り難られるような肌感覚。

だからジレンマが起きているってことか。

「何者か」との向き合い方

教員として採用されてから、学校間の人事異動も経て、かなりいろいろなフィールドで経験を積まさせてもらった。一部の場所だけでキャリア戦略を考えていく人もまぁまぁいる中で、私のような経験は今でもありがたかったなぁと感謝しているのだけど。。。
反面、どこでもそこそこ知識を増やして経験もしていると、「あなたは何者なの?」という自問に再び対峙することとなる。

過去、ある同僚に言われた言葉。
「まるさんかくちゃんは、何でもやれるよね」
これが、周りからの素直な私に対する見られ方。
つまりこの言葉の裏を返せば、私を象徴するような大きな看板はない、ということ。
皮肉だけど、学校の中では非常に使い勝手が良いタイプの教員です。

産後新しく取り組んできたことが成果に結びついてきて、その活動のイメージがまぁまぁ「私という人間」に着きはじめた今、落合さんの「天才」の捉え方を踏まえていろいろと考えてみたので、綴ってみました。

「私は何者か?」の問いに関して、解を見つけるためのヒントが見つかるかも?
教員として生存戦略をどう組み立てていくか。
現場が(隠喩的に)求めるニーズと、今の社会事情を踏まえた自分だけのスイートスポット発見とのバランスをとりながら、またいろいろと考えていきたい。

今日もぐじゃぐじゃしていますが、お読みいただきありがとうございました。
では、また!

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