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玩具の世界に広がる粗雑な争いと未熟な解決策(映画『バービー』感想文)


8月11日の夜、109シネマズプレミアム新宿で、映画『バービー』を観てきた。アメリカの玩具メーカー・マテル社が生み出した着せ替え人形・バービーを題材としたコメディ映画である。

日本での公開はアメリカから3週間遅れとなった。そのたった3週間の間に、この映画は興行収入10億ドルを突破し、早くも世界歴代興行収入ランキングで45位に入り込むという勢いを見せていた。日本でも高い注目を集めている今作だが、その背景には玩具としての絶大な人気と豊かな歴史、そして社会的な議論が広がっている。

バービー人形は、1959年のデビュー以来、「You can be anything(あなたは何にだってなれる)」のスローガンと共に、世界中の少女たちの夢や希望を刺激してきた。2023年のマテル社の発表によれば、現在この人形は世界150か国で年間9,000万体以上が販売され、全世界でのブランド認知度は驚異の99%を記録しているという。

人気の一方で、バービーのスリムな体型や、白人ブロンドのステレオタイプ、性別の役割を象徴する衣装などは、社会的な議論の的となってきた。これに対応する形で、近年のマテル社は多様性を重視した新しいバービーのラインナップを展開している。

実は僕は、今回の映画に密かな期待を寄せていた。これまでのバービーをめぐる論争(現代社会が直面する課題)に対する暫定的な答えや示唆があるのではないか、と。しかし、その期待は大きく外れてしまった。映画は諸々の問題に向き合うことなく、それどころか、問題を深化させる方向に導いているように感じた。

(以下、ネタバレを含みます。)

「意思決定プロセスからの締め出し」というアプローチの問題

映画『バービー』は、バービーワールドとリアルワールドという二つの異なる世界を舞台に、ジェンダーイクオリティの問題を描いた作品だ。

二つの世界は鏡合わせになっている。バービーやケンが暮らすバービーワールドでは、男性よりも女性の方が文化的・政治的に優位な立場にあり、僕たちが生活しているリアルワールドはそれと対照的な、男女の役割が反転した社会として登場する。

バービーたちは、バービーワールドという理想的な世界で「すべてが完璧」な毎日を送っている。しかし、バービーとケンがリアルワールドを訪れたことで、バービーワールドの男女の力関係は逆転してしまう。リアルワールドでの男女のあり方を知ったケンに、価値観の変化が生じるのだ。

バービーワールドに帰還した彼は男性たちに働きかけ、女性を男性の支配下に追いやってしまう。一足遅れて戻ったバービーは、変わり果てた母国の様子に戸惑う。バービーハウスからも追い出され、絶望して一度はすべてを諦めるが、仲間たちに支えられることで気力を取り戻し、やがて女性の地位を回復させるための闘いを開始する。

ここまでの物語は、生まれ持った性差に起因する人生の制約を描いたものだ。一方だけではなく、両性の立場から不平等さを経験させる仕掛けになっている。これはなかなか効果的で良かったと思う。性の二分法には違和感を感じたが、「最も取り扱いたい問題のために分かりやすい構造を選択する」ということもあるので、仕方がないと思って観ていた。問題は、このあとに始まる逆転劇の内容だ。

ケンたちは、バービーワールドの憲法改正を訴える。男性の優越を強化することが狙いだ。これに対抗するバービーたちは、大きく二つのアクションを実行する。一つは、男性の影響下にある女性たちを洗脳から解放すること。もう一つは、男性たちを嵌めて同士討ちに熱中させ、彼らを国民投票から締め出すというものだ。

そう、彼女たちは異なる価値観を持つ集団と衝突した場面で、「相手の集団を意思決定プロセスから排除する」という方法を何の疑いもなく実行してしまうのだ。そしてこの戦略は功を奏し、バービーは女性たちだけで投票を行い、改憲の阻止に成功してしまう。

なんということだ。僕は頭を抱えてしまった。これは絶対に真似してはならない、姑息で短絡的で悪質な戦略である。

バービーたちが手にいれた「勝利」は、すべての人々が共に享受すべき権利を特定の集団が独占するものであり、社会の分断を解消するものではない。彼女たちが収めた成功は一時的なものに過ぎず、対立する目的を抱えた勢力との和解や、持続的な共存を果たすものにはならないだろう。

いま、現実の僕たちは、性差に限らず、人種や宗教、経済状況、教育背景のように、対立軸上の集団と利害が衝突するなかで、「それでも共に生きていく社会を目指そう」という推進力を必要としているはずだ。バービーという強大なIP(Intellectual Property)は、そのために必要な想像力を示し、ビジョンを共有するチャンスを持っていた。しかし、そのポテンシャルが発揮されることはなく、最悪な形での失敗に終わってしまったのである。

「洗脳」された女性たちを「啓蒙」によって救うという認識の問題

バービーたちは、男性たちに従う女性たちについて「彼女たち救出し、洗脳を解こう」と言う。そしてその作戦は実行され、救出された女性たちは説得によって意識を新たにするシーンが描かれる。ここには「男性に従順な女性は洗脳されている」という人間観や、それは「啓蒙によって治すことができる」という危うい感覚が潜んでいる。

啓蒙とは、多かれ少なかれ、ある文化的立場からの驕りを孕んでおり、問題解決のコミュニケーションとして安直に用いて良いものではない。啓蒙を行おうとする者は、特定の価値観や思考を「正しい」と捉え、それに沿わない他の考えや生き方を劣っているか、誤っていると見做す傾向がある。多様な価値観や文化の尊重を欠き、一方的な視点や価値観の押し付けを招く危険なものだ。(かつて植民地支配の正当化にも繋がったことから、僕たちは反省を得たはずだ。)

特に、西洋中心的なフェミニズムは、他の文化や社会の女性たちの経験や視点を無視してきたという批判があり、それを修正しようとする多文化的フェミニズムや、さまざまな背景を持つ女性たちの声を尊重しようとするインターセクショナル・フェミニズムなどが生まれてきた歴史がある。

女性の地位を回復するという運動において、特にバービーたちが同じ女性と接触する場面で忘れずに伝えなければならないのは、こういった過去の過ちや反省であるはずだ。しかし、そのことが意識されている様子は微塵も感じられなかった。

「一方の性の尊厳を取り戻すために、もう一方の性を貶める」というアプローチの問題

洗脳された女性たちを救出する際、バービーたちは男性たちの関心を引き付けて隙を生もうとする。そのときの戦術として、女性たちは Photoshop の操作が分からなくて困っているふりをしたり、男性に映画『ゴッドファーザー』の解説を求めたりする。

背景にあるのは、マンスプレイニングの問題だろう。これは、男性が女性に対して上から目線で解説しようとする行為を指す言葉だ。そこには男性の心理として「女は男より無知だ」というジェンダーバイアス(性差に対する偏見)があることが指摘されている。バービーたちの作戦は、そんな男性の心理を逆手に取ったものだ。

さらに、男性たちの同士討ちを誘発するために、バービーはケンたちを性的に誘惑し、自分を取り合うように仕向ける。この行為自体、そもそもトロフィーワイフ的な存在を受け入れてしまっていて大丈夫なのかと心配になるが、誘惑方法も男性へのステレオタイプが酷く、幼稚な挑発で、いずれも見ていてげんなりしてしまった。

最大の問題点は、これらの作戦を実行するときのバービーの解説だ。「男性はこのように刺激すれば簡単に騙すことができる」といった調子で、その特徴をからかうように説明されていく。ここでは、一方の性の尊厳を取り戻すために、もう一方の性を貶めるというアプローチが取られているのだ。これではジェンダーバイアスを固定化し、その対立をいたずらに助長にしてしまうだけだろう。

もし、この男性たちを嘲るパートが女性観客の溜飲を下げるものとして、ある種のエンターテインメントとして提供されているのだとしたら、それは非常に無益で下劣なものだと思う。

確かに、人間は性による一定の特徴を持っている。しかし僕は、その多くは社会や文化の影響を受けて形成されたものであり、性そのものが本来的に持つ特徴は実はそれほど多くないと考えている。

「ある性にはこのような特徴がある」という統計があったとする。それを前にしたときに「ただし、これは僕たちの社会や文化がその性に与えた特徴なのかもしれない」「社会や文化を変えることで、この結果を変えることができるかもしれない」という姿勢で向き合うべきだ。僕は、これこそがジェンダーの課題に対して真に有効なアプローチを設計する道だと信じている。

アランが持っていた可能性

残念ながら今作は、二つの性の粗雑な争いを描くことに終始してしまった。しかし途中までは、もっと開かれた物語として展開できた可能性があったと思う。

例えば、「女性」と「男性」という明確なカテゴリーの戦いではなく、一見そのように見えるものでも、紐解いてみれば「バービー」と「ケン」のような個体の価値観や、イデオロギーの対立だと捉えることもできたはずだ。その鍵となるキャラクターがアランであった。

アランは、男性であるにも関わらず、バービーたちの側に立つ人物だ。彼の存在は、性の枠を超えて他者と連帯する可能性や、特定の集団の利益を追求することが、その集団に所属する者だけの特権ではないことを示唆している。このキャラクターの力を借りることで、性や階層を必要な範囲で矮小化し、その背後にある個体の価値観を前面に押し出すことができたかもしれない。

しかし、そうはならなかった。この映画が持っていた深い洞察の可能性は、表面的な性差の対立に焦点を絞り込んだことで潰えてしまった。僕は、この十分な可能性を持っていた映画が、多面的な議論を引き出すチャンスを逸してしまったことが残念でならない。

すべてを人形に押し付け、自分たちは変わろうとしない人間たちの問題

物語の終盤、平和を取り戻したバービーワールドで、バービーが今後の身の振り方を考えるシーンがある。彼女は「これからこんな仕事がしたい」と、いくつかの職業の名前を挙げる。しかし、どれも周囲の反対の声によって却下されてしまう。彼女が特定の仕事に就くことは、政治的な正しさの観点から許されないのだ。その結果、彼女は最善策として「特定の役割を持たないバービーになろう」という答えを出すことになる。

「You can be anything」であるはずのバービーが何者としても振る舞えなくなっている姿は、恐らく意識的に取り入れられたものだろう。つまり、マテル社が現代社会に放った渾身のアイロニーなのだと思う。もしそうだとすれば、それはあまりに不貞腐れた態度だと思うが、その責任は企業を追い込んでしまった僕たちにもあるはずだ。

多様性への配慮を求めるというのは、一箇所にすべてを求めることではないし、ましてや個人が希望した夢を周りの者が(政治的な正しさを盾にして)否定することでもない。バービーは、本人が希望するどんな職業に就いても良いのだ。真の問題は、それが唯一のあり方とされ、強い支配性を持ってしまうことである。そして、それは創造物(バービー)そのものよりも、僕たち人間がバービーに対して抱く認識や期待の問題だ。僕たちは「玩具」に変化を求めるのではなく「玩具の遊び方」を変えるべきなのだ。

そもそも、社会に多様性を与えるということは、いま存在する選択肢を否定することではない。いまある選択肢に、新たな選択肢を加え続けることだ。

妻が子供たちの面倒を見て、家事をこなし、家を守りながら夫を精神的に支え、夫はそれを応えるように一生懸命に仕事に取り組み、家計を支える。そんな昭和の時代を象徴するようなパートナーシップがあってもいい。問題は、それしか選択肢がないという状況であり、あらゆる選択肢のなかから当人たちが望んでその関係性を築いているのであれば、それ自体に問題はないはずだ。打倒しなければならないのは、選択肢の少ない社会環境であり、決して選択肢そのものではない。(もちろん、通用しなくなった方法は修正しなければならないし、現代的な人権感覚に適さないものは改める必要はある。)

僕は、最後の場面で、バービーの夢や望みを叶えるためにマテル社の社員が一丸となって取り組む姿を描くべきだったと思う。変えなければならないのはバービーではなく、バービーと人間たちの関わり方であり、それは人間の側が変わらなければならないということである。僕たちリアルワールドの住民は、バービー人形が持つメッセージや象徴するものについて、もっと広い視野で向き合い、新しい解釈や接し方を模索していかなければならないのだ。

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